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あなたを愛している。けれど、あなたを愛したことはない。

作者: Lemuria

 白い天蓋がわずかに揺れ、灯りが布越しにやわらいだ。

 香の煙が細くのぼり、寝室は静かだった。

 エリオノーラは寝台の端に腰を下ろし、両手を膝に重ねたまま静かにその時を待つ。背筋は伸び、視線は正面をとらえたまま動かない。瞬きは少なく、表情も変わらなかった。


 扉が静かに開く。

 男が入ってきた。衣の折り目は正しく、靴音は一定で、足取りに迷いはない。肩にかけた外套を侍女が受け取り、扉は音を立てず閉じられた。


「……緊張しているのか」


 男は近づき、寝台のそばに立つ。

 燭火に照らされた横顔は落ち着いて見え、声も低く静かだった。


「君と婚約してから……この時をどれほど待ち望んでいたことか」


 エリオノーラの長い睫毛がかすかに揺れる。

 それでも彼女は返事をせず、姿勢を保った。


「そんなに身を固くしなくてもいい。君と私の仲だろう」


 男は小さく笑った。


「初めて二人きりで馬に乗った時も、君は黙り込んで体を硬くしていたな。けれど手綱を渡したら、すぐに慣れて笑った」


「心配はいらない。あの時と同じだ。君を愛している。ずっと、これからも」


 燭台の火が揺れ、二人の影が床に重なった。

 男はエリオノーラのそばに膝をつき、頬へと手を伸ばす。指先は丁寧で、触れる前に止まり、そこからさらに一歩近づいた。


 エリオノーラは身じろぎしなかった。

 呼吸は浅く、静かで、衣擦れの音すらしない。


 唇が触れる間際、彼女は口を開いた。


「――私は」


「あなたを愛したことなどありません」




 エリオノーラの婚約者、アドルは公爵家の嫡男だった。

 幼い頃から学問も武芸も習い、怠けることのなかった少年は、周囲の子供たちの中でも特に際立っていた。

 整った顔立ちに、赤褐色の瞳。落ち着いた雰囲気は、幼い年齢には似つかわしくないほどだった。


 アドルとエリオノーラの婚約は、二人が五歳の時に結ばれた。庭の式典で並ばされた二人は、互いに小さな手を握らされた。

 エリオノーラの掌はすぐに汗ばんでしまい、思わず手を離そうとしたが、アドルは真剣な顔で握り続けた。その幼い横顔が、彼女には強く印象に残った。



 成長するにつれ、二人の間に手紙のやり取りが始まった。

 アドルの文はいつも端的で、飾り気がなかった。

「元気か」「勉強は進んでいるか」。

 それだけの紙片を受け取るたび、エリオノーラは机の引き出しにしまいこみ、後から何度も読み返した。


 返事には、ときおり小さな花の絵や、犬の落書きを添えた。

 次に届いた手紙には「その犬の名は?」とだけあった。

 短い一文だったが、エリオノーラは声を立てて笑い、頬を緩ませた。


 学園に入ってからは、顔を合わせる機会が増えた。

 授業の合間に「調子はどうだ」と声をかけられると、エリオノーラはアドルの前でだけはいつもの無表情を崩し、「大丈夫」と笑った。

 試験で失敗した時も、彼は教室の外で「次に備えろ」とだけ言った。慰めにも叱責にもならない短い言葉だったが、そう言われた次の試験は必ず好成績を取ったのだ。


 祭事の場では、アドルが隣に立っているだけで安心できた。

 人目が多い時には表情を抑えたが、視線が合えば小さく口角を上げる。

 そのわずかな変化を見て、アドルもまた目を細めた。


 そうして年月を重ねるうちに、彼女は婚約者の前でだけ、ころころと表情を変えるようになった。笑い、照れ、真剣な顔に戻る。そのどれもが、彼と共にある時だけに見せるものだった。


 ――そう、調べたかぎりでは。間違いはないはずだった。



 ――あなたを愛したことなどありません。


 エリオノーラの言葉が、耳の奥にいつまでも残っていた。


 火がパチパチと小さくはぜた。

 男の指が空中で止まり、笑みだけが形のまま残る。


「……何を言っているんだ?」


 先ほどと同じ声の調子を保とうとしてはいるが、エリオノーラにはしっかりと声色の揺れが聞き取れた。


「からかうのはやめよう。私の顔を忘れてしまったのかい?君が私を愛していないはずがないだろう」


 エリオノーラはまばたきもせず、視線を外さない。


「繰り返しません。下がってください」


 男から笑みが消えた。

 男は膝をついたまま、彼女の肩をつかもうと身を乗り出す。


「なぜだ……! 十年以上だぞ。君と共に過ごし、互いに愛を確かめ合ってきたはずだ」


 彼女は身じろぎせず、声を抑えて言った。


「私は、あなたのことなど知りません」


 男の手が空を切った。

 呼吸が荒くなり、赤褐色の瞳が不規則に揺れる。


「馬鹿な……忘れたのか? 庭で手をつないだことも、手紙を交わしたことも……私の前でだけは君は飾らない表情を見せてくれただろう!」


「私がアドルを、間違えるはずがありません」


 その一言で、男の顔色が変わった。

 掴みかかるように両腕を伸ばし、彼女を寝台に押し倒す。


「お前は俺のものだ!」


 男に跨られ、重さと苦しさが胸にかかる。両手首が寝台に押しつけられ、指の骨が当たり、布越しに痛みが走る。

 寝台の枠木がギシッと小さく鳴り、詰め物が沈んだ。


「私は、あなたに抱かれるぐらいなら、この場で死にます」


 エリオノーラの声は未だ毅然として、一切の揺らぎがない。このような状況にあって、男の方が気圧されている。

 男の顎の筋が動き、歯がぎりと噛み合う音がする。

 握る手にさらに力がこもる。


「この……っ!」


 頬に打ちつけられた衝撃で、顔が横を向いた。

 けれど彼女は眉一つ動かさず、静かに元の姿勢へ戻す。


「……なんでわかった」


 荒い息の合間に、男が呟いた。


「同じ顔だろう、見分けがつくはずがない!」


 彼女は真正面から相手を見返した。


「当然です。私が愛しているのは、あの人だけですから」


 エリオノーラは静かに視線を横へやり、押さえられた手首をねじった。

 男の力が一瞬緩んだ隙をつき、指先を伸ばす。

 寝台の脇に置かれていた燭台に触れると、そのまま力を込めて倒した。


 ガシャンと鈍い音を立てて金属の脚が床を打つ。

 炎のついた蝋が散り、火花が床の絨毯に飛ぶ。そこから円を描くように火は広がり、瞬く間に部屋の温度が上昇していく。


「な……何をする!」


 男はエリオノーラを押さえつけたまま動きを止めた。

 額に汗がにじみ、否が応でも立ちのぼる炎に視線が引きつけられる。

 押さえる腕に力を込めればエリオノーラは簡単に奪える。だが、火の勢いと彼女の言葉が男の動きを縛っていた。


「言ったでしょう。あなたに抱かれるぐらいなら、私は死を選びます」


 エリオノーラの声は静かで、震えがなかった。

 男の指は彼女の手首を押さえたまま硬直し、口を開きかけては閉じる。

 呼吸だけが荒く続いた。


 その間にも、焦げは円を広げ、寝台の裾へ火が移り始めていた。

 パチリと布が弾け、炎が蛇の舌のように伸びる。

 熱気が背中に迫り、煙は次第に濃くなる。


「く、くそ……!」


 ついに男はエリオノーラを突き放すように手を離し、乱れた息のまま寝台から跳び下りた。

 炎を避けるように後退し、扉へと駆け出していった。


 男の足音が遠ざかり、扉が乱暴に閉まる音がした。

 残された寝室には炎と煙だけが広がっていく。


 エリオノーラは身を起こそうとした。

 床に散った蝋がまだ赤く、絨毯の縁は黒く焼けて波のように丸まっている。

 立ち上がろうとした瞬間、肺に熱い煙が流れ込み、胸が強くせり上がった。


 咳がこみあげ、膝をつく。

 喉の奥が焼けるようで、目が痛む。

 衣の裾を押さえて鼻口を覆ったが、煙は止まらず押し寄せた。


 視界が白く霞み、力が抜けていく。

 耳鳴りがして、体が傾いた。

 指先が床を探るように伸びたが、そこから先は動かない。


 ――その時、扉が勢いよく開いた。


 外気が流れ込み、濃い煙が渦を巻いて揺れる。

 立ち込める灰色の中に、背の高い影が現れた。

 迷うことなく寝台へ駆け寄り、崩れかけた布の中からエリオノーラを抱き起こす。


「大丈夫だ。必ず助ける」


 焦げた布の臭いと熱気の中でも、その声だけははっきりと聞こえた。

 死が目前に迫る中であっても、その声を聞いただけでエリオノーラの口元にかすかな笑みが浮かんだ。


 強い腕に支えられた瞬間、胸の奥の緊張がふっとほどけていく。

 背に強い腕の力を感じながら、彼女の意識は闇に沈んでいった。



 

 屋敷は夜のうちに全焼した。

 石造りの骨だけが残り、壁に沿って黒い煤が縦に走っている。

 出火先が二階だったこともあり、幸いにも侍女や下働きは早く逃げ出し、命を落とした者はいなかった。


 男が捕えられたのは翌日のことだった。

 火の中から逃げ出す姿を見たという複数の証言があり、城下の宿に潜んでいたところを兵に取り押さえられた。

 縄で縛られ、連行されたその顔は――公爵家の嫡男アドルと寸分違わぬものだった。


 彼は縄に縛られたまま、声を荒らげていた。


「違う、火を放ったのはあの女だ! 俺は何もしていない!」


 だが誰も信じなかった。

 火が最初に上がった寝室にはエリオノーラしかいなかった。

 煙に巻かれた彼女が救い出され、倒れていた時――彼の姿はすでに消えていたのだ。

 証言と状況は揃い、逃げ出した時点で疑いは決定的だった。


 アドルとエリオノーラは屋敷の焼け跡を見つめていた。

 未だ立ち上る煙と煤の匂いに、昨夜の熱と苦しさが甦る。

 エリオノーラの呼吸はまだ浅く、体には疲労が色濃く残っていた。

 そんな彼女の隣に、アドルは静かに立っていた。

 エリオノーラを支えるように寄り添い、視線は焼け跡から動かさない。

 アドルが無事に自分をここまで救い出してくれた。 その事実だけで胸が満たされていた。


「……捕らえられたそうだ」


 アドルが低く告げた。


「どうして、あの人はあなたと同じ顔をしていたのですか」


 エリオノーラの問いに、アドルは短く息を吐き、焼け跡から目を離した。


「……あいつは、私の双子の弟なんだ」


 沈痛な面持ちでアドルが口を開いた。

 普段は語られることのない、家の暗い事情が明らかにされる。


 ラルフ――彼の名はそう呼ばれた。

 幼い頃から、兄と比べられて育った。

 学問も武芸もそつなくこなすアドルに対し、ラルフは何事も中途半端で、出来の悪い弟と見られていた。

 その劣等感は幼心に深く刻まれ、やがて歪んだ欲望へと変わっていった。


 兄の持つものを、ことごとく欲しがった。

 書物も玩具も衣服も、そして人の信用すら。

 気に入ったものを平然と盗み、見咎められれば「兄がやった」と言い張った。


 双子で同じ顔をしていたため、周りはそれを信じていった。遠目に見た者には見分けがつかず、噂もすぐに兄へと結びついた。

 なくなった品が兄の部屋から見つかることもあり、ラルフの悪事はしばしばアドルの罪とされた。


 だが、アドルは一計を案じた。

「貴重な品が運び込まれる」と噂を流し、ラルフが盗みに入るよう仕向けたのだ。

 そして当日、仕掛けを整えてその場で待ち構えた。

 案の定、アドルの狙い通りにラルフは箱に手を伸ばし、盗み出そうとした瞬間、アドルと証人によって取り押さえられた。

 積み重ねた悪事はすべて明らかとなり、ラルフは家から追放された。十年以上前のことだった。

 誰もが二度と顔を合わせることはないと思っていた――はずだった。


 だがラルフは、その時のことをずっと恨み続けていた。

 すべてを兄に奪われたと信じ込み、復讐の矛先を定めたのだ。兄が最も大切にしているもの――婚約者エリオノーラを奪い取ってやる、と。


「黙っていてすまなかった」


 言葉を切り、彼は隣に座る彼女を見やった。

 彼女はまだ咳をしながらも、真っ直ぐに視線を返す。


「だが……なぜ俺じゃないとわかったんだ?」


 アドルの問いに、彼女はわずかに眉を上げた。

 疑問として聞かれたこと自体が不思議だと言わんばかりに、はっきりとした声で答える。


「むしろ、なぜわからないと思うのですか。髪の生え際も、爪の形も、耳の大きさも、声の響きの癖も、体から立つ匂いも――何もかも違うじゃありませんか」


 一拍置き、彼女は静かに続けた。


「それに、あなたが私に『緊張しているのか?』なんて言うはずがないでしょう」


 アドルは目を丸くし、次の瞬間、ふっと笑いがこぼれた。声を立てて笑いながら、首を振る。


「そうか……あいつは、そんなことを言ったのか」


「ええ、私の取り柄なんて度胸だけだと言うのに」


 エリオノーラは鼻先をわずかに上げ、唇をきゅっと結び、つんと澄ました表情になる。


 そして息を整え、はっきりと言い切った。


「私は、あなたを愛しています」


 その言葉に、アドルは短く息をのみ、炎に照らされた昨夜の光景を思い返した。

 そして静かにうなずいた。


「……俺もだ。無事でいてくれてよかった」


 アドルの言葉に、エリオノーラはゆっくりと瞬きをしてから頷いた。

 少し間を置いて、表情を和らげる。


「久しぶりに、遠乗りでも行きません?」


 唐突な提案に、アドルは目を細める。


「どうしたんだ、急に」


「偽者が、二人で初めて馬に乗った時のことを持ち出しましたの。だから……その時のことを思い出して、行きたくなってしまったのです」


「ああ。君がまだお淑やかなふりをしていた頃のことか」


 エリオノーラは肩をすくめるようにして、わずかに口を尖らせた。


「ふりだなんて酷いですわ。あなたに、少しでも可愛らしく思っていて欲しかっただけです」


「すぐに仮面が剥がれて……逆に俺の方が馬の乗り方を叱られたんだったな」


 アドルは息を吐き、かすかに笑みを浮かべる。


「エリーに手を出そうとするなんて、馬鹿なやつだ」


 エリオノーラは唇を結んだまま彼を見つめ、そして小さく笑った。








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