祖父のヨット3
【用語】
『ハル』船体
『バウ』船首
『ティラー』舵柄
夏休みが終わる頃にはひととおりヨットのことが分かるようになった健司だったが、以後ヨットに乗ることはなかった。健司が二年生になる前に祖父は体調を崩し、ヨットに乗れる状態ではなくなったからだ。健司の身近にヨットを趣味とするような人間は他にいない。小学二年生の子供が一人でヨットに乗りに行けるわけもなく、あれ以来ヨットには乗っていない。祖父と一緒にヨットに乗ることは楽しかったが、ヨットそのものが特別に好きだったというわけでも無かったのだろう。祖父に連れられることが無くなったのと同時に、健司はヨットに対する興味を失った。
祖父は乗れなくなってからもヨットを手放さなかった。またヨットに乗る、それが祖父の闘病生活中のこころの支えだったのだろう。しかし、またヨットに乗るという希望は叶えられないまま、祖父は亡くなった。そして残されたヨットは健司のものになった。
健司と一緒にヨットに通った日々は、家族に疎まれていた祖父にとって大切な思い出だったのだろう。またヨットに乗りたいと強く願ったのは「また健司と」という思いがあったのかもしれない。祖父は遺言でヨットを健司に贈ったのだ。
だが今の健司にとって、半世紀近くも前に作られた古ぼけたヨットなど無用の長物でしかない。健司がヨットに親しんだのはあの夏休みだけのことだ。
今日、健司が十年振りにマリーナに足を運んだのも、ネット掲示板の『売りたし』欄に載せるにあたり、ヨットの状態を確認して写真を撮るためだった。
磯山が事務所に戻ると言って立ち去った後、健司はまずヨットの周りを歩いてハルの表面を確認した。目立った穴や裂け目はない。かつて祖父と健司で修理しているのでヒビなどもないが、塗装がだいぶ傷んで粉を吹いている。
次にバウ周りをチェックした。少し擦った跡がある。それを見て健司は、祖父にせがんで着岸の舵取りをさせてもらったときに岸壁に擦ってしまったことを思い出した。あれはどこの岸壁だったのだろう。岸壁に向かって直角にゆっくり近づいていき、ぶつかる前にティラーを目いっぱい押してヨットを旋回させる。そのタイミングが少し遅れたのだ。旋回しきれずにバウが岸壁に当たって擦れてしまった。健司のところからバウは見えていなかったのだが、ガリガリと嫌な音がしたのは分かった。健司は恐る恐る祖父の顔を見た。祖父は全く怒っていなかった。それどころか「バウなんて擦るためにあるようなもんだ。気にするな」と笑っていた。