祖父のヨット2
【用語】
『ハル』船体
『セール』帆
『ティラー』舵柄
『セーリング』ヨットを帆で走らせること
もともと祖父は千葉県の東端、太平洋に突き出した銚子のマリーナに、外洋を航海するのに適した四十フィート(約十二メートル)の大型ヨットを置いていて、北海道から沖縄まで日本中をクルージングしていた。さらには福岡から韓国の釜山へ渡ったこともあるらしい。帰国したときに海上保安庁に不審船と疑われて取り調べられた話を後日、祖父から面白おかしく聞いたことを健司は憶えている。
祖父はそうやって外洋クルーズを堪能する日々を送っていたのだが、十二年前の三月、東北地方で発生した地震による津波が銚子のマリーナを襲った。マリーナは壊滅し、祖父のヨットは行方が分からなくなった。今でも銚子の海のどこかに沈んでいるはずだ。
その頃には畑を売ったカネも底をつき、三浦家は新たな外洋ヨットを買えるような状態ではなくなっていた。祖父は自転車を買ってサイクリングを始めてみたりしたのだが、やはりヨットのない生活には耐えられなかったのだろう。どこからかこのヨットを手に入れてきて、霞ケ浦のこのマリーナに置いた。健司が四歳のときだ。
健司には、幼稚園児だった頃にヨットに乗った記憶はない。幼稚園児をヨットに乗せるのはさすがの祖父も控えたのか、実際には乗りにいってたが記憶がないだけなのか、分からない。しかし、小学一年生の夏休みに毎日のようにヨットに乗りにいったことは憶えている。その頃から人付き合いが苦手で、夏休みなのに遊ぶ友達のいない健司を祖父は不憫に思ったのかもしれない。あるいは、健司の父、母それにその頃はまだ生きていた健司の祖母もヨットには興味がなかったので、単に喜んで乗りに来てくれる唯一の家族である健司を連れ出していただけなのかもしれない。
健司は祖父からヨットのイロハを教わった。ヨットの主要な各部の名称やセーリングの仕方の基本などは今でも健司の中に残っている。あのくらいの年齢で覚えたことというのはずっと忘れないものらしい。セールに風を受けて風下側にぐっと傾き、ヨットが水を切る音だけが聞こえる中、滑るように走っていく光景も思い浮かべることができる。風が弱いときには健司もティラーを握って操船したり、セールの操作を任されたりした。
ヨットは祖父が手に入れたときでもかなり古いものだったので、雨漏りしたりハルに小さなヒビがあったりと、修理すべき箇所がたくさんあった。祖父のツナギに似せて祖母が作ってくれた小さなツナギを着て、健司も祖父の修理作業を手伝った。実際には邪魔していただけかもしれないが、健司本人は一端の職人になった気分だった。