プロローグ1
【用語】
『ティラー』舵柄
『コックピット』ヨットの船上後ろ半分。操舵その他の操船装置が集まっている。
薄汚れたコンクリートの岸壁。足元には等間隔に鉄の輪が打ち込まれている。船を係留するときに舫いロープを結ぶためのものだ。足元から水面までは一メートルほどで、水に面した壁面にはいくつもの古タイヤが並んでぶら下がっている。係留した船が岸壁にこすれて傷まないようにクッションの役目を果たすものだ。ここは埠頭か漁港なのだろう。
岸壁の端に街灯が一つぽつんと立っている。健司が見上げると暗闇の中で煌々と光っている。しかし辺りは明るいから夜ではない。街灯の周りだけ暗いのだ。そのちぐはぐさを健司は不思議に思わない。
健司は鉄の輪に結び付けられているロープを解こうと屈みこんだ。一隻のヨットがこのロープで岸壁に繋ぎ留められている。これから健司はこのヨットに乗って、岸壁を離れようとしているらしい。ヨットのコックピットでは健司の祖父がティラーを握り、健司がロープを解くのを待っている。顔ははっきり見えないのだが、健司にはそれが祖父だと判っているのだ。
いつの間に現れたのか、小さな女の子が健司の横に立っている。五、六歳だろう。顔も服装もぼんやりしていてよく分からない。
屈み込んでロープをいじっている健司の耳元に、女の子が顔を寄せて「ずっと待ってる」とささやく。
そこでいつも目が覚める。たいてい起きるには早すぎる時間だ。これまで何度も同じ夢を見たが、どこの岸壁なのか、女の子が誰なのか、まったく判らない。過去に実際に見た光景なのか、健司の頭の中だけの出来事なのか、それも定かでない。
ただ、なにか思い出さなければいけないことがあるのに、心の中の何かがそれを妨げているような感覚がある。それでいつも布団で横になったまま記憶を辿ってみようと努力するのだが、結局なにも浮かんではこない。そのままいつの間にかまた眠ってしまい、スマートフォンのアラームに起こされるときにはもう、もやもやした感覚はどこかへ消え去ってしまっている。
今朝も再び目覚めたときには、もやもやは薄れてしまっていた。健司は布団から腕を伸ばして、枕元に置いてあるスマートフォンを手に取った。まだアラームが鳴っている。アラームを止め、両腕で思いっきり伸びをしてから布団を蹴り飛ばして跳ね起きた。少しでも長く寝ていたい健司は、アラームを登校ぎりぎりの時間にセットしている。急いで学校の制服に着替えて階段を駆け下りる。以前は「もっと早く起きろ」と小言を言っていた母も、今では諦めてなにも言わない。健司は母が無言で差し出したトーストをミルクで胃に流し込むと、今日も歯磨きは学校ですることにして玄関を飛び出していった。