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碧い海に飛ぶこむ

「ソフィアと婚約するので、そのお誘いはお断りします」


 ルイスの発言に、ソフィアはそれが自分の名だということを理解できなかった。右手に自分より一回り大きな手がやさしくソフィアをそっと包み込む。

 これまで経験したこのない温もりは、ソフィアの心境を掻き乱す要素としては十分で、どくどくと心臓が高鳴り続けている。異性から触れられたのは初めてだ。


「婚約って……婚約って、まさかうちの使用人と?」


 きれいに着飾ったカルメンが、口角をひくひくと痙攣させながらソフィアとルイスを見比べた。うそでしょう? ほんとうに? こんなボロボロの女とルイス様がなぜ?


「使用人……そうか、ソフィアはメイドだったのか」


 陽光をたくさん浴びた白銀は、踊るように軽やかな口調で言う。

 メイドなんて、そんな言葉よりも、使用人として、いや奴隷として扱われた方がソフィアはしっくりくる。長年チャップマン家に仕えてきたソフィアにとってルイスのメイド発言は歯痒さを感じていたのだが、


「なおさらソフィアに惹かれてしまうな」


 しかしそんなことはお構いなしと言った様子でルイスは平然と、そして公衆の面前でソフィアを口説き落とそうとしている。軽んじて聞こえてしまうような台詞も、ルイスが口にするとなぜだか重みがあるような気もするのだ。


「ルイス様……ご存知なのですか?」


 半壊した壁の前で、なにやら甘い空気が漂い始めたころ、カルメンの拳はぶるぶると震えていた。


「その女は泥棒猫ですよ」


 ぎらりと鋭利な刃のような視線がソフィアに向けられると、カルメンはあしらわれた腹いせとでも言わんばかりに泥をぶちまけていく。


「使用人の分際で、雇い主のドレスを奪おうとしたり、汚すことだって厭わない性格をしているんです」


 つい先日アニョロがカルメンの誕生日に用意したドレス。あれはしっかりと染み抜きをしたものの、汚れを完全に除去することは難しく、そんなソフィアの報告をカルメンは「捨ててちょうだい」と吐き捨てた。


「お父様からもらった大切なドレスを、この女は……私は悔しくて、それでも、ハンナには行く場所がないから雇っているというのに」


 背筋が凍っていき、それから次第にその冷たさも感じなくなっていく。ソフィアの瞳は色を失った瞳のように輝きを失っていく。こうしてきっと、この先も、死ぬまで、私は罵られて生きていくのだろう。行く場所がない自分など、世に出たところで生きていく術などないのだ。


「だから婚約なんて……ルイス様。これはルイス様のことを想ってのお願いです。どうか、その使用人だけはおやめになられた方が──」

「君はソフィアの手を握ったことはあるかい?」


 お涙頂戴のカルメンのパフォーマンスを一刀両断したのはルイスだった。


「え……?」


 カルメンはこれまで、自身の話を中断させられたことがなければ、多くの人間の関心は自分に向いているとばかり思っていた節がある。そのためか、ルイスがソフィアの手を見るように視線を促したときには、なぜ奴隷なんかの手を見なければならないのかと多少の苛立ちを感じた。


「これまで、たくさんの仕事をこなしてきた手だ。かなり酷使しなければ、この季節にここまで荒れることはない」


 夏場という時期であっても、ソフィアの指、関節、手の甲には無数の傷が刻み込まれていた。挙げ句の果てには乾燥し、とても人の手とは思えない手触りさえしている。


「僕は頑張ってる人が好きでね、たとえ報われない頑張りだったとしても、それでもひたむきに頑張る人が好きなんだ。だから、人の頑張りが見れなかったり、ましてや陥れようなどとする人の話など、聞いていても楽しくはないんだよ」


 カルメンはルイスに指摘されて初めてソフィアの手を見る。奴隷の手などこれまで興味なんてなかったのだが、たしかに傷を負っているように見え、すぐに目を逸らす。


「……だからなんですの。それが使用人の務めじゃありませんか」

「カルメン……!」


 アニョロが慌てて厳しくカルメンの名を呼ぶ。ルイスに楯を突くなど、今後に影響が出る。ましてや例の商売のことだって、ルイスがフィレンツェ男爵として扮していたのであればかなりマズイ。

 しかしカルメンは父親にまで咎められたとのショックで、あしらわれたような恥を覚える。


「みんなしてなんですか……! 私はただ本当のことを述べているだけです!」


 カルメンはソフィアをきっと強く睨むと、飛び出すように応接間を飛び出して行く。そのあとをアニョロが追いかけるが、不貞腐れたカルメンの機嫌を取るのは大変そうだとソフィアは扉の向こうを眺めた。


「さて、ソフィア。つまりはそういうことだから、僕の婚約者ということで話を進めてもいいかな?」


 嵐が過ぎ去ったかと思えば、特大の嵐がまた吹き荒れる。


「こ、婚約者など……あれは嘘ではないのですか?」

「まさか。僕は真剣にソフィアを婚約者として迎えたいと思っているよ」


 まさか! それはこちらの台詞だとソフィアは驚愕する。


「そのようなお話、お引き受けできません……! 私はここチャップマン家のただの使用人で……」

「そうです、ルイス様。こんな話、周囲にでも知れ渡ったら問題です!」


 黙って見ていたマージもさすがにルイスの突拍子もない提案には口を挟まずにはいられない。


「あなたの婚約者候補など腐るほどいるんです。その中からいくらでも選び放題じゃありませんか。なのに、あの例の噂がある家の使用人と婚約だなんて……」


 上のものは到底許すはずがないだろう。ルイスの相手にはそれなりに家柄がきちんとしている、上流階級の令嬢でなければならない。あろうことか使用人と婚約するなんてことになったら、ロイヤル家全体に激震が走るにちがいない。


「ルイス様、これまでのお相手にご不満があるのでしたらもう一度、力を入れて捜索を──」

「ソフィア、君はここを抜け出したいとは思わないか?」


 マージの必死の願いも虚しく、ルイスはソフィアに問いかける。ソフィアが最も欲しているもの──自由を武器にした交渉だった。


「……それは」


 ソフィアはふっと視線を足下へと落とす。

 そう願わずにはいられなかった日々が、一体今まで何度あっただろうか。

 けれど自分はここで雇われ、死ぬまで使用人として生きていくのだと、自身の気持ちを偽り、身を粉にして働いてきた。


「私は、……ただの使用人です。抜け出したいだなんて、そんな」

「君は使用人の前に一人の人間であり、一人の女性だ。本当にここにいたいと、そう願っているのなら話は別だが……僕は底辺なりにも魔術師でね。君の心の声が聞こえるんだ」


 そんなのは真っ赤な嘘であるが、しかしソフィアの顔を見ていればルイスはわかった。

 救ってほしい、助けてほしい、そう今まで何度も出かけていた言葉が、心の奥底に眠っていることを。


「ならばこうしよう。使用人としての務めを果たしたいのであれば、僕の元に来るといい」

「え……」

「ここにいる必要はない。それに、今日の紅茶はとてもおいしかった。僕の珈琲嫌いを見抜く優秀なメイドがほしかったんだよ。もちろん、婚約者として来てくれても構わないが」


 ぶんぶんと首を振る。そんなおこがましいことはできない。婚約者など、そんなたいそうな務めは果たせない。ましてやアニョロが慄く人物。只者ではないことぐらいソフィアも感じていた。

 そんな人が今、自分を救い出そうとしてくれている。

 ソフィアは覚悟を決め、ルイスにあらためて向き直る。そして深々とお辞儀をしては、静かにこう言った。


「ルイス様、そのお話、どうぞお引き受けさせてください」

「ソフィア……」

「ただ──」



 ごとごとと馬車に揺られながらソフィアは遠ざかってゆくチャップマン家を見つめていた。青空の下にこうして出たのは何年ぶりか。玄関を出たときにはあまりにも眩しく、ソフィアはしばらく目が開けられなかったものだ。それからルイスたちが乗ってきたという馬車に乗り込み、慣れ親しんだ屋敷から別れを告げた。


「さみしい?」


 目の前に座るルイスがソフィアに訊ねる。


「いえ、……そういうわけではないと思うんですが、その、あそこには七年もお世話になりましたから」


 虐げられた日々。もう外に出ることはないと思って生きてきた。未来はずっと、あの仄暗い小さな部屋と小さな窓だけだとそう諦めてきたというのに。決していい思い出などは残っていない。けれどソフィアは、何年と閉じ込められるように生活していたチャップマン家を目に焼き付けるようじっと見ていた。


「それにしても、僕に叩きつける条件は本当にあれだけでよかったのかい?」


 ようやくソフィアが外の景色から馬車の中へと視線を戻したタイミングでルイスは聞いた。

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