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心の奥に

 異性にキスをしてもいいかと聞かれることが、人生で一度もなかった。

 そんなことは絵本だって教えてはくれない。それでも、キスが特別なものだとは知っている。


「……私は、どうしていたらいいですか?」


 ソフィアはルイスの気持ちに応えたかった。自分はどうしていたらいいのだろう。じっとしていてもいいのだろうか。それとも自分から動くべきなのか。

 その反応に、ソフィアの年頃の女の子なら常識とされているようなことが何もわかっていないことにルイスは気付いた。


「ソフィア……キスの意味は知ってる?」

「はい……唇と唇を重ねることで……」


 なんと初心なのだろう。ルイスは頭を抱えてしまいたかった。自分の愚かさ故に。

 キスは共通言語だと疑っていなかったのだ。たしかにソフィアの言い分は正しい。けれどそれでは、口付けを交わす意味がどこにもない。


 慌てるな。ルイスは自分に言い聞かせる。

 ソフィアを大事にしたい気持ちを優先させることで必死だった。


「……合ってるよ。それなら、キスをする意味は?」

「え?」

「僕は、命令でキスをしたくないんだ」


 それがルイスの心から思っていることだった。

 これは指示ではないから、自分の意見に従う必要はない。ソフィアも同じ気持ちでいなければ。


「命令……」


 ソフィアは一瞬、ルイスの言葉の意味を理解できなかった。

 途端に、自分がルイスに言っていたことは間違いだったのではないかということに気付いて青ざめる。


「あ、あの……ルイス様、私は」


 キスは知っている。けれど、キスをする意味を深く考えたことはなかった。


「大丈夫、ソフィア。知らないなら、知らないと言っていいんだ。それは悪いことじゃないから」

「本当ですか……?」

「もちろん」


 ソフィアはルイスの真剣な瞳を見つめると、少しずつその意味が心に染み渡っていった。

 ルイスもまた、ソフィアに誤って通じないようにと言葉を選んで説明した。


「キスは、お互いの気持ちが通じ合っている証としてするものだと僕は思っている」

「はい」

「だから、キスをしてもいいかと聞いたのは、僕の行為にソフィアが嫌だと思っていないかを確認したかったからなんだ」

「い、嫌だなんて……そんなことありえません」


 あるはずがないと、前のめりになって否定したソフィアは、意図せずルイスと顔を近づけていた。そのことが無意識だとすれば、なんと愛らしいのだろう。


「……愛し合っていることを確かめ合う一つの行為だとわかっていて、それでもキスをしても?」


 ルイスの言葉に、ソフィアの心は温かくなった。彼の気持ちを受け入れることができるような気がした。


「ルイス様……」

「うん?」

「私も……ルイス様のことを愛しています。だから、キスを……」


 その言葉を聞いたルイスは、微笑みながらソフィアの頬に優しく手を添えた。そして、ゆっくりと唇を重ねた。温かくて、優しくて、そして何よりも愛情に満ちたキスだった。

 愛おしい時間が終わると、ルイスは再びソフィアを抱きしめ、彼女の髪に顔を埋めた


「……今日は間違えてしまったかもしれない」

「ど、どうしてですか?」


 もしかして自分の口付けに何か問題があったのではないか。ソフィアは怖くなって聞き返すものの、ルイスからは愛情だけが伝わってくる。抱きしめられる力が強まると、ルイスは吐息をこぼすように言った。


「婚約式など飛ばして、結婚式にしてしまえばよかった」

「そ、そんな……まだ国王ともお会いしていませんし……」

「そうだね。わかってはいるんだけど、それでもソフィアを早く僕の妻にしたいと思ってしまうんだ」


 ルイスは、ソフィアの手を優しく握りながら言った。彼の瞳には、強い決意と愛情が宿っていた。


「ソフィア、僕は君を守りたい。君を守れるだけの力が欲しい。そして、それを証明するためにも、早く君を僕の正式な妻にしたい……なんて、わがままかな」

「……いいえ、少なくとも私にとっては、わがままなことではありません」


 むしろ、そうしてほしいと願ってしまう。それでも慎重にいかなければならない。

 第二王子でありながら、庶民の自分とは違うのだから。


「けれど、守ってもらうばかりではなく、私も自分を、そしてルイス様をお守りできるように強くなりたいです」

「……もう、十分に強いよ」


 なぜこうも強い人なのだろうかとルイスは完敗だった。そして、そんな彼女についてしまった嘘を、今ここできちんと清算させておかなければならいと思った。


「それとソフィア、謝らないといけないことがある」

「なんでしょう……?」

「チャップマン家で話した僕の家族のことなんだ」

「ご家族ですか?」


 たしか、早くにご両親を亡くしていたと言っていた……あれ?

 その話では辻褄が合わないことに、ようやくソフィアも気づいた。むしろ今までなぜ気付かなかったのかと自分を罰したい気持ちにもなった。


「……お父様は、国王様ですよね?」


 ルイスは申し訳なさそうにうなずいた。


「すまない、父も母も生きている」

「そうだったんですか」

「……幻滅した?」


 まるで怒られるのを恐れているかのように、ルイスは視線を落とし、ソフィアの顔を見られなかった。彼の声には、微かな不安と後悔が滲んでいた。

 ソフィアをどうしても連れ帰りたい気持ちで支配されていた。

 それまで嘘をつくことなんて当たり前だった生活なのに、ソフィアを前にすると誠実でいたいと思ってしまう。ソフィアは、女神のような笑みを浮かべた。


「ルイス様……そんなことはありません」


 そっとルイスの手を握りしめ、その温かさを感じながら言葉を続けた。


「きっと、私を守るためについてくださった嘘なのではないかと思うことにします。それに、私の気持ちが変わることはありません」


 ルイスが見せてくれた過去。最期の母。決して美しい思い出ではないけれど、それでも、あの光景を見せてもらえたからこそ、ルイスの悲しみに寄り添えるような気もした。


「あなたがここにいること、その強さを、私は尊敬しています」

「ソフィア……」


 ルイスはこれまで多くの女性と出会ってきたが、誰一人として彼の心を深く揺さぶる存在はいなかった。彼の目には、その美しさや賢さも一時的な魅力として映り、すぐに興味を失ってしまうことが多かったのだ。

しかし、ソフィアと出会ったとき、その印象は全く異なっていた。


 ソフィアの無垢で純粋な心に強く惹きつけられた。彼女の優しさや思いやりは、他の誰にもない特別なものであり、ルイスの心の奥深くに響いていく。あの瞬間のことを今でも鮮明に思い出せる。

 彼女の笑顔や涙、そして彼女が持つ強さと弱さの両方に、ルイスは本当に心を動かされた。


「……」


 ルイスはソフィアと初めて出会ったときのことを思い返していた。彼女がどれだけ自分の心を温め、癒してくれたかを改めて感じる。


「……ソフィアが他の誰とも違う存在だと気づいたのは、君の目に映る優しさと強さだったんだ」

「ルイス様……」

「だから、その優しさを僕に今も向けてくれることがうれしくて」


 ソフィアの目に涙が浮かんだ。彼女もまた、ルイスとの出会いが自分にとってどれほど大きな意味を持っていたかを思い返していた。


「他の誰でもない、ソフィアだけが僕の心に触れることができた」


 ルイスはそう言って、ソフィアを抱きしめた。このままずっと一緒にいられたらいい。その願いがソフィアにも届くように、大事にそっとキスをする。

 そして、ソフィアの腰あたりにそっと手をかざすと、柔らかな光に包まれた。


「この傷を、残しておく?」


 ルイスに問われ、ソフィアは長年の謎であった右の横腹にある傷のことを思い出した。これは、母が庇ってくれた証でもあることを知ったばかりだ。


「ソフィアが望めば、この傷を消すこともできるけど」

「……このまま残させてください。この傷に、母の愛を感じられるので」

「そうか」


 ルイスはそっと微笑みうなずいた。


「君と一緒にいることで、僕は本当に幸せだ。ソフィアが僕の側にいてくれることが、なによりも大切なことなんだ」

「私も、ルイス様と一緒にいられて本当に幸せです」


 月明かりが部屋を柔らかく照らし、ルイスとソフィアの姿を浮かび上がらせた。窓から差し込む月光が二人の輪郭を淡く包み込み、部屋全体に神秘的な雰囲気を醸し出す。


 外の世界の喧騒や困難は、今この瞬間には存在しないかのように感じられた。まるで一枚の美しい絵画の中にいるかのように、二人だけの特別な時間が永遠に続くように思えて、そうであることをただ願うだけだった。


「……ずっと、愛しているよ」


 ルイスの囁きが、ソフィアの心の奥に届いた。

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