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あなたを買い取らせてください

「あなたを買い取らせてください。言い値を出しましょう」


 長く伸びきった紅い髪の隙間から、燦燦と光輝く太陽を見たと、ソフィア・マーフィーは本気で思った。

 男の滑らかな長い指が、ソフィアの傷物となった手をなでる。まるで上等なシルクに触れたような感触で、これが人間の手だとは到底思えなかった。


「ど、どうしてですか……?」


 すっと手を引っ込める。しかし男の表情はぴくりとも動じない。

 自分は決して、他人の目に触れてはならない存在だと、ソフィアは十分に理解していた。だからこそ今、あまりにも強い輝きを放つ白銀の髪の男の瞳が、自分に向けられているということが耐えられなかった。


「どうしてか、そうだな」


 さらりと、肩の上できれいに切り揃えられた髪が揺れる。ああ、太陽を取り込んでいるから眩しいのだと、目を細めながらソフィアは男を見上げた。

 おだやかで、怒気を孕まない声音。これまで自分に飛んできていたものとは、まったく似ても似つかない声質は、まるでソフィアの心境を読み取るように、落ち着いている。その声で言うのだ。


「あなたがほしいと思ったからですよ」


 碧い色をしたサファイアのような輝きの瞳が、きらりと矢を放った。


* * *


「何様だお前は! たかだか使用人の分際で!」


 銀髪の男がソフィアを買い取りたいと言い出す一週間前。チャップマン家ではソフィアの主であるアニョロ・チャップマンの罵声が屋敷中に響き渡っていた。


 アニョロの前で土下座をするソフィアは、もう一度「大変申し訳ございません」と言葉を続けた。


「カルメンに妬むなど、お前ごときが許されるわけがないだろう」


 事の発端は、アニョロの一人娘であるカルメン嬢の立派なドレスに紅茶がかかったというものだった。そのドレスは、今日ちょうどカルメンの誕生日にとアニョロが用意したもので、金色の刺繍に真っ赤な生地であしらわれた特注品だった。カルメンは父親の前で派手に喜んで見せ、たいそうご満悦の様子だったが、ひとたびアニョロが姿を消すと、似つかわしくない舌打ちをした。


「趣味悪っ、娘になんつうもん着させようとしてんのよ。どうせ金出すなら、有名なデザイナーに頼めばいいのに」


 幼い顔立ちと豊かなお胸。そしてきゅっとくびれたウェストで世の男性を虜にするカルメンは、ここら一帯では有名な令嬢だった。チャップマン家はいわゆる中流階級の商人を生業とした家系だった。

 この家にソフィアは七年前、齢十歳で売られた。元は隣の国であるシャウマン国の生まれだが、戦争で国が滅び、子どものほとんどが人身売買されていく中でソフィアだけがチャップマン家に目をつけられ引き取られた。


『あの王の娘だ。これから何かと役に立つかもしれない』


 ソフィアが国王の娘であることを知っていたチャップマンは、ソフィアを人知れず匿ったが、あまり意味がないことを知ると、ほとんど奴隷として扱うようになった。


「……ねえ、ハンナ」


 粘着質のある声でカルメンがソフィアを呼んだ。チャップマン家に使える使用人はソフィアを含め四人。その全員が、ハンナと呼ばれていた。


「なんでしょう、カルメンお嬢様」

「紅茶が飲みたいの。そうね、無難にアールグレイでいいわ」


 かしこまりました、と頭を下げながらソフィアの背中には悪寒のようなものが走っていった。ああ、これは、あれだ。旦那様に怒られる類だ。そう嫌な予感を察しながら、それでも受けた命を拒めないのが使用人の性であり仕事である。

 カルメン専用のティーカップに飴色の紅茶を注ぎ、白砂糖を二杯入れる。間違えてはならない分量。旦那様は一杯。奥様は二杯と半分。些細なミスが命取りになる。


「お待たせしました」


 リビングでソフィアの紅茶を待つカルメンは、父親からもらったばかりのドレスをまるで紙エプロンにでも見た立て、首から膝を覆っていた。


「……カルメンお嬢様。ドレスが汚れてしまうかと」

「ああ、そうね。じゃあちょっと持っててくれる?」

「はい、では僭越ながら──」


 直後、飴色の飛沫が空中に舞ったかと思うと、指に熱された紅茶がかかる。あつっ、という言葉は心の中だけだったようで、口には出していなかった。恐ろしいのは、手元にある真っ赤なドレスに染みが広がっていくという光景。紅茶をかけたのだ、とそう理解した途端「なにしてるんだ!」という怒号が飛んできた。


 カルメンを見れば、手にしていたティーカップをちょうどテーブルに戻したところだった。そして手元には、アニョロが愛しの娘に用意したドレス。汚れた、ドレス。


「お父様、ハンナったら、このドレスが欲しいって私にせがんでくるの」


 カルメンのねちっこい嘘がアニョロの頭の中を支配していく。


「もちろん私は拒んだのよ。お父様からせっかくいただいたドレスですもの。なのにハンナったら、私が渡さないと知った途端、このドレスに紅茶をかけたんです!」


 開いた口が塞がらないとはこのことだろうかと、心が冷えていく。火傷を負った指の感覚などとうに消えていた。


「何様だお前は! たかだか使用人の分際で!」


 アニョロの怒りは最高潮に達し、ソフィアの髪を鷲掴みにすると、そのまま床に頭を押し付けた。


「謝って済む問題じゃないぞ! いいか、誰がお前を生かしてやってると思ってる!」


 額に、こめかみに、ぐりぐりと床がのめり込んでいく。けれどそれは例えであって、実際はへこみもしない。ただただ、頭を革靴で踏みにじられるという事実だけ。


「おい、答えろ!」

「……だ、旦那様、です」

「じゃあなぜこんなひどいことができる!」


 私ではありません、とそう告げることができたらなら、どれだけ救われるだろう。自分の罪ではありませんと信じてもらえたなら、どれだけ心が死なずに済むのだろう。


「……申し、わけ、ご、ざいません」

「ああ? 聞こえねえな」

「申し訳ございません」


 謝って済む問題ではないと言いながら、謝りを強制し、しばらくその拷問のような時間を続ける。何度も、何度も、自分の罪ではない罪を「大変申し訳ございません」と繰り返し、解放されることだけを願う。

 視界の中にはソフィアと同じく犠牲となったドレスが虚しくそこに存在している。使われることなく、このまま捨てられてしまうだけの代物。

 ぐっと髪を持ち上げられ視界が開ける。


「いいか、お前は奴隷なんだよ。奴隷は人間じゃない。こんな上等なドレスだって着るに値しない人間だ。立場を弁えろ。それができないなら──燃やすぞ」


 ドレスと一緒に、そう続けられ、惨めったらしくもう一度、「申し訳ございませんでした」と謝罪を口にした。


「住まわしてるだけありがたいと思え」


 再度頭を蹴られ床に倒れ込むソフィアなど、アニョロは視界にも入れてなかった。カルメンの微笑が片隅に映り目を閉じる。


「早く片付けてちょうだい」


 カルメンはそれだけ言い残すと満足そうに自室へと入っていった。

 しばらく起き上がれなかったのは、身体の痛みによるものなのか、精神の痛みによるものなのか、ソフィアは判別できなかった。


「……誰か」


 続けることのできない助けは、誰もいない部屋の中で溶けて消えていった。

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