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空を統べる竜と七つの選択

作者: 八衛門

 風が、鳴いた。

 天空の彼方、灰紫の雲が地平線を引き裂く。そこを流れる浮島群スカイロウズのひとつ、“サイカの耳”と呼ばれる小島に、その風は降りてきた。薄紅色に染まった草が揺れ、鳥のようで鳥でない何かが鳴いた。

 少年は草を踏みしめながら、獣の痕跡を追っていた。

「ったく、また野ウサギかよ……竜の骨くらい落ちてないのかよ」

 ぼやきながら草をかき分けるその姿は、村一番の“まじめ”という悪名を誇るジードという名の少年。濡れた黒髪をひとつに束ね、右肩には手製の革装備、腰には使い古しの短剣。背負う袋には、彼が今日仕留めた“そこそこ食える”鳥の死骸がひとつ。

 しかしこの日は、いつもと何かが違った。

 ジードが踏み入れたのは、村人ですら近づかない《廃忘域》と呼ばれる古代遺跡の縁。そこは風が通らず、音も色もどこか薄れて見える不思議な場所だった。

 ──気づけば、足元が光っていた。

「……なんだ、これ」

 淡い蒼光が、地面から文字のように浮かび上がっている。その文字は読めなかった。だが、直感的に“読めてしまった”。

 《アーククロウ、契約の刻》

 途端、空が裂けた。

 雷のような音が背後から走り、振り返るとそこには、巨獣――否、竜がいた。

 黒曜石の鱗、星屑のように煌めく瞳、口元からは湯気のような息。ジードは叫ばなかった。恐怖よりも先に、言葉が浮かんでいた。

 《……ようこそ、王の器》


「はい?あの、ごめん、今なんて言った?」

 竜の声は直接脳に響いていた。でかい。なんというか、低音バスが脳をぐるぐる撫でまわすような声だ。

《王の器、アークローンの血にして、失われし七王家の末裔……我が名はイルヴァ=アーククロウ。汝の剣にして翼となろう》

「いや、ちょっと待って!?今の何か大事なこと言った!?ていうか翼って何!?俺、空飛べるの!?」

《契約は完了した》

「いやまだしてねぇよ!?」

 遺跡が崩れかけ、空が光り、突然背中に熱が走る。

「ぎゃあああああああ!!!」

 背中の痣が焼けるように光り、蒼の紋章が浮かび上がった。

 

 翌日、ジードは納屋で寝転びながら、自分の体に刻まれた紋章を眺めていた。育ての母であるカミラは、鍋をかき混ぜながら言った。

「……ついに来たか、ジード。あんたの運命が」

「俺はただウサギ追ってただけなのに。何で俺が竜に選ばれんだよ……」

「おまえは王の血を引いてる。あたしが昔、そういうのに関わってた。隠してて悪かったね」

「“そういうの”って何!?」

「王家の乳母だよ、昔。で、クーデターで逃げて、赤子を連れて飛んで、落っこちて、拾って、今に至る」

「情報が密すぎて逆に頭に入ってこねぇよ!!」

 その夜、ジードは布団をかぶって悶えた。悶えながら彼は決意する。

「俺は、行く。空のてっぺんまで。この竜を連れて」

 彼の背に、イルヴァ=アーククロウが影のように佇んでいた。

 ──空の王を目指し、七つの島に選択を迫る旅が始まる。


 ジードは、空に立っていた。

 立っている、というより、“浮いて”いる。だが足元には確かな感触があった。ドラゴンの背は熱を帯び、筋肉の鼓動が脈打つように伝わってくる。風が頬を切り、衣の裾をはためかせる。

「これが……戦の始まりか」

 その目線の先には、空島国家ヴァレグラード。蒼天に映える城壁と、下層に連なる棚田のような居住区画。空に浮かぶ島々を縄でつなぎ、空艇が行き交う光景は、どこか美しい祭壇のようにも見えた。

 美しさの裏で、炎は待機していた。

「ジード=アークローン殿。ヴァレグラード王より“最終通告”が届いております」

 空中騎獣に跨り、鎧を着込んだ男が声を張る。銀の肩章に、羽を模した意匠。かつての七国の末席でありながら、空の支配を宣言した傲慢な王の使者だった。

「“自称王”アークローンに告ぐ。三日以内に空域を離脱せよ。従わぬ場合は、空砲で撃ち落とす」

 ジードは答えなかった。代わりに、イルヴァの尾が一閃し、空気が裂けた。使者の騎獣が悲鳴を上げ、旋回して退却する。

「返事は、行動で返す」

 低く呟いたジードの声に、竜が静かに咆哮した。

 

 初陣の夜、ジードの寝床は竜の背。

 星が近くに見える。触れられそうなほど近く、なのに遠い。

 火にあたっているのは、従者であるレイナード=クロームだった。彼は古びた鍛冶屋のような雰囲気の男で、黙って薪を足す仕草に不思議な威厳があった。

「眠れないか?」

「……うん。俺、本当にやれるのかな。人を従えるなんて、戦うなんて……」

 ジードの声は細かった。レイナードは少し考えてから、静かに口を開いた。

「王とは、“やれる者”ではなく、“やらなければならない者”だ。お前は選ばれたのではない。“選ぶ者”になるんだ」

「……選ぶ者、か」

 ジードは火の向こうに広がる闇を見つめた。そこには、空の端にぽつりと浮かぶ《ヴァレグラード》の灯が、星と見分けがつかないほど儚く揺れていた。

 

 翌朝。戦の刻。

 ヴァレグラードの空域境界に、三隻の空艇が並び、魔導火器を装備した騎兵団が陣を張っていた。島の下層から見上げた民の視線が、空を斜めに裂く。

「来たな、アークローン!」

 ヴァレグラード将軍の声が轟くと同時に、空砲が火を吹いた。空が鳴った。炎が走る。ジードは、ドラゴンの首元にしがみついた。

「イルヴァ、行こう!」

 竜が、翼を開いた。白く、巨大な風が巻き起こる。火線をかわしながら、空艇の間を縫って急上昇。鱗に火花が散り、ジードの耳元で風が爆ぜた。

「高く、もっと高く!」

 竜が旋回し、一気に俯瞰位置へ。空艇が豆粒に見えるほどの高度。そこから、炎の翼が降り注いだ。ヴァレグラード第一艦が蒸発するように崩壊し、煙と悲鳴が交じった音が空に響く。火が舞い、風が唸り、硝煙の匂いが鼻腔を刺す。焦げた木の破片、金属の破片、そして兵の悲鳴が風に混じって渦を巻く。

「落ち着け……深呼吸だ、俺」

 ジードは竜の背で口を押さえた。胃が、裏返りそうだった。焼け落ちる空艇を見て、自分の命令が、それを起こしたのだと理解する。

「俺が……人を、殺したんだな」

 イルヴァは何も言わなかった。だが、その体温が少しだけ下がったように感じた。

 ――お前がそれを、忘れるな。

 風が言ったような気がした。

 

「――そのうち、慣れる」

 戦後の野営地。ジードの肩に毛布をかけながら、レイナードは呟いた。

「慣れたくないよ……俺はさ、統一って、もっと……」

「“きれい”なもんだと思ってたか?」

「うん……誰も傷つかない方法、あると思ってた」

 レイナードはしばらく黙っていた。焚き火の音だけが、二人の間を埋めていた。

「……お前が傷つくなら、それでいい。“王”ってのは、そういうもんだ」

 ジードは、目を閉じた。

 

 数日後。ヴァレグラード城下。白旗が揚がった。島の民たちは怯えながらも、静かにその変化を受け入れていた。

「空の王を名乗るお方か……だが、おれたちの暮らしは、変わらねぇでほしいな」

 ひとりの老職人がそう呟いた。ジードはそれを聞き、思った。

 “俺がこの人たちを従えたって、本当にそれでいいのか……?”

 竜の力は、絶対だった。だが、民の心は、従っていない。

 

 ヴァレグラード城。

 玉座を前に、ジードは立っていた。誰も座っていない椅子。王がいたはずの場所。そこに座ることは、許されている。だが――

「……俺はまだ、ここに座れない」

 ジードは背を向けた。その姿を、レイナードが黙って見つめていた。彼の目には、かすかな安堵と、焦燥が交じっていた。

「次は、どこだ」

 ジードの声が、風に乗った。

「空は、まだ広い」

 空の上。ひとつの島が落ち、ひとつの王が去った。だが、これが始まりだった。空を統べる者になるための、最初の“選択”。


 霧が、島を包んでいた。

 空の霧というのは、地上のそれとはどこか違う。地に沈むことなく、漂い、浮き、絡みついて、すべての音と色を呑み込んでいく。霧の中にいると、世界が柔らかくなったように錯覚する。誰かが近づいてきても、気配だけが先に届く。音は遅れ、言葉は曲がって聞こえる。

 そんな霧の中に、ジードはひとり立っていた。その場は、奪ったばかりのヴァレグラードの北端に位置する監視塔の最上階。かつてこの塔は敵の前哨だったが、今や竜の王の“耳”となっていた。

 しかし、その王はまだ“耳”たる感覚に慣れていなかった。足音が、濡れた石を踏む音と共に近づく。

「……空の王とやらに、直接話せるとは思わなかったよ」

 その声は、若く、そしてどこか――気障だった。

 霧を切り裂くように現れたのは、薄紫のマントを風に揺らす青年。その姿勢、その歩幅、その微笑。どれも計算され尽くしていた。まるで舞台に立つ役者のように。

「……お前が、イザーク=ナヴァロか」

 ジードは警戒もせず、剣も抜かなかった。ただ、ゆっくりと向き直る。

「自分から会いに来るなんて、大物らしくないな」

 イザークは肩をすくめた。

「私は“正義”ではなく“演出”を選ぶ男だからね。君が“王”としてどれだけの価値があるか、近くで確かめたかっただけさ」

「俺が“王”に見えるか?」

「見えるかどうかなんて些細なことだ。重要なのは“王に見せる力”があるかどうか、だ」

 ジードは霧の向こうに、島の灯を見ていた。沈黙が数秒間、二人の間を満たした。イザークは踏み込んだ。

「君の野心、嫌いじゃない。だが、力だけで空を取るのは危険すぎる。だからこそ、私と組もう」

「協力……?」

「私の“舞台”には、君のような役者が必要だ。逆に、君の“夢”には、私のような演出家が必要だろう?」

 どこか冗談のように聞こえる言葉だった。だが、その目だけは本気だった。

「答えはすぐでなくていい。夜が明けるまで、ここで考えてみるといいさ。霧が晴れれば、見える景色もある」

 イザークはマントをひるがえして、霧の中へ消えていった。

 

 その夜、ジードは塔の上で、霧の中に座っていた。風が吹いていた。だが寒くはなかった。

 竜の気配がそばにあった。イルヴァは言葉を発さず、ただ寄り添うように、その巨体を塔に沿わせていた。

「……俺は、どうすればいい?」

 誰にも届かない問いが、霧に吸い込まれていく。手を組めば、敵が味方になる。だが同時に、敵の論理に染まるかもしれない。自分の信じる“正しさ”は、誰かにとっての“異物”かもしれない。

「……本当に俺は、王になんてなれるのか……?」

 イルヴァの瞳が、ほんの少しだけ揺れた気がした。


 夜明けが近づいていた。塔の頂から見下ろす世界は、まだ灰色の霧の底に沈んでいる。空の端がうっすらと染まり、闇と光の境界がにじみ始めていた。その景色の中で、ジードは立ち尽くしていた。

「――結論は、出ましたか?」

 またしても、声だけが霧の中から先に届いた。イザークは、変わらず柔らかい笑みを浮かべていた。だが、その瞳の奥に潜む光は、鋼のように硬質だった。

「協力しよう。……だが、俺が選ぶのは“共闘”だ。“従属”じゃない」

 ジードの言葉は、まっすぐだった。それは彼が夜通し考え抜いた末の、精一杯の回答だった。

「おお、それは嬉しい。君は思ったよりも“俯瞰”ができる男だ」

「……演出家ってのは、常に俯瞰してるものなのか?」

 イザークは笑った。

「演出家というのは、自分の役が終わった後の“幕の先”も想像するものさ」

 彼の言葉には、どこか諦観と希望が同居していた。

 ジードは尋ねた。

「……お前の“舞台”は、何を描こうとしてる?」

「空だよ。“空そのもの”さ。秩序でも、栄光でも、幸福でもない。空は常に変わり、誰のものでもない。それでも、誰かが“空を統べた”と思わせること。それが私の理想だ」

 そのとき、霧が静かに引いていった。朝日が差し込む。島々が、点のように浮かぶ風景が広がった。ジードはその中の一つを指さす。

「――じゃあ、次はあの島を共に取る。お前の力を見せてもらうぞ」

 イザークは一礼した。だが、その頭の角度は決して深くなかった。

「君は指揮官であり、役者でもある。舞台の上で、どんな“選択”を演じてくれるのか――楽しみにしているよ」

 

 ジードが部屋に戻ると、レイナードが無言で待っていた。火の揺らぎが、彼の顔を照らす。

「……イザークと組んだのか」

「ああ。“味方”にした」

 ジードの言葉に、レイナードは一度だけ目を閉じた。

「……なら、俺はそれを信じる」

「……信じすぎるなよ。俺はまだ、“選び慣れて”ない」

「選び慣れた王なんて、誰も見たくないさ」

 レイナードの言葉に、ジードは笑った。ほんの少しだけ、苦く。

 

 ヴァレグラードの空に、旗が翻っていた。旗の中央には、蒼き竜が翼を広げ、その背景には七つの星が輝く紋章。それは“空の王”ジード=アークローンを象徴する、新たな意匠だった。

 だがその旗の下――地に生きる人々の目は冷めていた。

「ジード様、問題が山積しております」

 文官の一人が、書簡の束を持って押し寄せる。政庁に改装された城の一室には、紙と声と焦燥が充満していた。

「まず第一に、言語問題です。統一王語では伝わらない民が多数おります。特に低層居住区では、独自言語《リムス語》しか話せない住民も……」

「他に?」

「宗教の対立です。あなた様の登場によって、“古き空の神”への信仰が揺らぎ、“竜信派”が台頭し始めています」

「それは……俺のせいか?」

「はい。完全に、です」

 ジードは苦笑した。そこに皮肉や怒りはなかった。ただ、疲労と自覚があった。

「……俺は、この国を“奪った”。その意味を、今さら知ることになるんだな」

 

 その夜、ジードは粗末な布で髪を隠し、旅人のふりをして一人で城下に降りた。

 空の市場は、夜になると静まる。だが、酒場の灯は消えない。彼は一軒の小さな飲み屋に入った。客の数は少なかった。だが、空気は濃かった。

「……なあ、最近の“空の王”って、どう思う?」

 ジードは、さりげなく隣の老人に声をかけた。老人は煙草をふかし、低く笑った。

「おう、あのドラゴン野郎か。言葉は通じても、心は通じねぇな。言葉だけ覚えりゃ“民”か?神を替えりゃ“国”か?……そんなに簡単なら、苦労しねぇっての」

 ジードは、何も言えなかった。民の言葉は、鋭かった。


 翌朝、政庁では文化政策会議が開かれていた。

「ジード様、各島の文化を“整理”すべきです。共通の言語、信仰、服制を設けてこそ、真の統一国家と呼べましょう」

「だが、それは……彼らの“色”を奪うことになる」

 静かにジードが言う。

「色を混ぜれば“濁る”だけです。“混ざらぬ色”は切り捨てるべきです」

 その言葉に、ジードは立ち上がった。

「違う。俺は“絵の具”じゃない。彼らは“空”なんだ。どの空も、俺の空だ」

 政庁の会議室は、静まり返った。ジードの「空」という言葉が、机上の文書よりも遥かに重く、濃く、そこにあった。

「ジード様……それでは、国家としての体を成しません」

 側近の一人が、恐る恐る口を開いた。だがジードはゆっくりと首を振る。

「成すべき“体”は、ひとつの“姿”じゃない。俺が目指すのは、島の数だけ“姿”がある国家だ。色を揃えるんじゃない。色を繋げて、空のように広がる国をつくる」

 沈黙。だがその沈黙は、拒絶ではなかった。誰もがその言葉を咀嚼していた。

「統一語は、公用の場でのみ用いる。だが地方語は尊重し、教育にも残す。信仰は制限しない。だが暴力に繋がる教義は明確に線を引く。服装も同じだ。“正しさ”のために“違い”を犠牲にしない」

 ジードの声は決して大きくなかった。だが、確かだった。

 

 その日の夜、ジードは育ての母であるカミラと屋上にいた。風が強く、空が近かった。

「……あの子たち、よく聞いてたねぇ」

「“正しい言葉”ってのは、なかなか通じにくい。でも、“腹から出た言葉”は通じるって、あんたが昔教えてくれた」

「ふふ、そんなこと言ったっけ?」

 カミラはゆっくりと空を見上げた。月が雲の切れ間から顔を出していた。

「ジード、あんた……“王”ってより、ほんとに“空”みたいになってきたねぇ」

「そうか?」

「広くて、柔らかくて、でも……嵐を呼ぶ時は、誰より怖い」

 ジードは小さく笑った。

「それ、褒めてるのか?」

「もちろん」

 

 翌朝、ヴァレグラードの広場で、新しい宣言が読み上げられた。それは命令ではなく、選択だった。言葉も、信仰も、衣も、残すという選択。それを“押し付けない”という、もうひとつの統治。

 民の中に、ざわめきが起きた。だがそれは不満ではなく、驚きだった。

「……あの“空の王”、ちょっと変わってるな」

「なんだか、見たことのない空を見てるみたいだな」

「……悪くない」

 

 ジードは最後にひとつだけ、旗を改めた。蒼き竜と七つの星の紋章の背景に――“七つの異なる色”を加えた。

 それは、統一の証ではなく、多様の証明だった。


 夜風が、低く唸っていた。

 ヴァレグラードの政庁塔、その最上階の書庫。今は誰も使わなくなったその場所に、ジードの姿があった。

 月光だけが頼りだった。蝋燭を灯すことすら憚られるような、静けさ。指先で撫でた羊皮紙の表紙は、わずかにざらついていた。表紙に記された文字は、旧王朝時代の文語体。すでに読める者はほとんどいない。

 ――だが、彼には“読めてしまった”。

 血が、反応した。

 

 それは、「王家の記録」だった。そこに記されていたのは、かつて七つの島を統べた連合王の血脈。そして、その末裔として、ひとりの乳母が“赤子の王”を連れて姿を消したという記録。

 名は、記されていなかった。だが、ひとつだけ手がかりが残されていた。

 “竜の印を持つ子と、竜の民の乳母”――

 ――竜の民。そう書かれた瞬間、ジードの中で一つの名前が浮かんだ。

「……カミラ」

 あの人の背にあった、鱗のような痕。耳の先に見える、微かな尖り。そして何より、“あのときの表情”。

 

 夜が深まり、風が冷たくなっていた。ジードは、迷っていた。これを確かめることが、何を意味するのか。知るということは、時に“壊す”こともある。

 今まで信じてきたもの。守られてきたもの。ぬくもりも、優しさも。だが、知ることは同時に“受け取る”ことでもある。

 彼は、選ばなければならなかった。知るか、知らぬままにするか。

 

 扉をノックする音がしたのは、夜が明ける直前だった。

「……ジード、起きてるかい」

 その声は、いつも通りだった。どこか間延びしていて、でも優しい。

「少し……話があるの」


 扉が開いたとき、空はまだ夜の色をしていた。カミラの足音は、昔から変わらなかった。ゆっくりで、地を確かめるような歩き方。風にまぎれてしまうくらい、軽い音。

 ジードは椅子から立ち上がらなかった。ただ、視線を上げるだけだった。

「……書庫で、古い記録を読んだ」

 その一言に、カミラの眉がほんの僅か、揺れた。

「“乳母と赤子の王”の話、ね」

 彼女は静かに言った。否定も、誤魔化しもなかった。

「あなたは、あの時点で、もう選ばれていたのよ。……でも、選ばれたことと、育てることは違うの。だから私は、“母”であることを選んだ」

 ジードは、ゆっくりと立ち上がり、カミラの正面に立った。

「あなたは、“竜の民”なんだね」

 その問いに、カミラは頷いた。まるで、長い夢から覚めるように。

「私の祖先は、アーククロウに連なる者たち。……あなたに流れる血と、同じ竜の系譜よ」

 ジードの胸に、ひとつの重さが落ちた。

「じゃあ……俺を育てたのは、運命だったのか?」

 その問いには、間があった。

「……最初は、そうだった。だけど、あんたが笑ったとき、運命なんか、どうでもよくなった」

 カミラの目に、涙はなかった。けれど、その声には、深い深い感情が染みていた。

「あなたを“王にする”ために私は生きてきた。でも、気づいたら、“あなたが生きること”が私の望みになっていた」

 ジードは、息を吸い込んだ。窓の外に、朝日が昇りかけていた。雲の間から、金色の光が差し込んでいた。

「……カミラ。俺は、全部知ったよ」

「うん」

「でも、俺にとっての母親は――ずっと、あんただ」

 その言葉に、カミラは小さく笑った。

「……そう言ってくれるなら、もう何も言うことはないよ」

 ふたりの間に、光が射し込んだ。それは朝の光であり、そして“真実を知った後の光”だった。

 

 その日、ジードは政庁の執務室に姿を見せなかった。ただ一言、レイナードにこう告げていた。

「今日は……家族と過ごす」


 王座の間は、異様に静かだった。その部屋の中央には、ひとつだけ椅子があった。大理石の床に刻まれた魔法陣の中心、光の角度に応じて色を変える宝玉が嵌め込まれた、重厚な椅子。

 それが、ヴァレグラードの“王座”だった。ジードは、その椅子の前に立っていた。座るでもなく、触れるでもなく、ただ見つめていた。

 扉が、軋んだ音を立てて開いた。

「……まだ、座ってないのか」

 入ってきたのは、イザークだった。その顔には、わずかな苦笑が浮かんでいた。

「お前なら、最初の日にでも座ると思ってたがな」

 ジードは目を離さずに答えた。

「……“座る”って、ただ座るだけのことじゃない。これは、命令する場所だ。命じる側と、命じられる側を分ける場所だ」

 イザークは肩をすくめ、王座の隣の階段に腰を下ろした。

「言いたいことはわかる。だが、選ばれる王と、座らない王は違う。座らない王は、ただの“空席”にすぎない」

 

 その日の午後、ジードはヴァレグラードの民の声を聞くため、広場に出た。

「王様、まだ王様になってないって、ほんと?」

 子どもが聞いてきた。

「王様になったら、何か変わるの?」

 若い娘が聞いてきた。

「……お前が決めねぇなら、誰が空をまとめるんだよ」

 老いた鍛冶職人が、煙草を吹かしながら聞いてきた。

 ジードは、一人一人の言葉を胸に刻みながら、何も言わなかった。それでも、彼の沈黙には意味があった。人々は、すでに“彼に目を向けていた”。あとは、彼自身がどう“答えるか”だった。

 

 夜。王座の間に再び立ったジードは、扉を閉じた。静寂が戻る。風も音も、世界から消えたようだった。彼はゆっくりと歩みを進め、王座の前で立ち止まる。

 そして――、手を伸ばした。


 手を伸ばすその動作は、まるで時を止めるかのように、緩やかだった。ジードの指先が、王座の肘掛けに触れる。それは冷たく、硬く、そして――重かった。金属ではない、石でもない。その冷たさは、“歴史”だった。

 座ってきた者たちの数。倒れていった者たちの名。奪われた声と、握られた命令。それらすべてが、この椅子の“重さ”を形づくっていた。

「ジード」

 その声は、彼の背後から届いた。カミラだった。

「……私は、どんな“座り方”をしても、あんたを止めない。でも、覚えておいて。座るってことは、“立ち上がる理由”を持てなくなることもある」

 その言葉に、ジードは振り向かなかった。ただ、呟いた。

「――俺は、それでも、ここに座るよ」

 カミラは、そっと微笑んだ。

「……なら、王様になりな」

 ゆっくりと、ジードは腰を下ろした。王座は、沈黙で彼を迎え入れた。背もたれに寄りかかるでもなく、脚を投げ出すでもなく、彼はただ、“座った”。

 まるで、“その椅子に語りかけるように”。

 

 それからの時間。政庁の階下では、噂が駆け巡っていた。

「ついに座ったらしい」

「ほんとに?」

「空の王様、誕生か」

 だが、その噂が真実に変わったのは、翌朝だった。

 

 広場の中心。七色の旗の下で、新たな勅令が読み上げられた。

「この空は、ひとつの形を持たない。

 だがこの国には、今、ひとりの名がある。

 空の王、ジード=アークローン――ここに在す」

 その声に、誰からともなく拍手が始まった。強くはない、けれど、確かな音だった。イザークは、遠くからその様子を眺めながら、小さく呟いた。

「――舞台が、本当に始まったな」


 その日、ジードは静かに、執務室の窓から空を見ていた。竜の影が、遠くを飛ぶ。“座る”という選択は、終わりではなかった。

 それは、“すべての始まり”だった。


「イルヴァ。俺たちの関係って、なんだと思う?」

 彼が問うたのは、風を切る夜の中だった。イルヴァは言葉を発さなかった。けれど、その飛行がわずかに揺れた。

「俺が君を従えてるのか。それとも……君が、俺を見ているだけなのか」

 その問いには、しばらく応えはなかった。だが――次の瞬間、空が動いた。

 風が渦を巻いた。イルヴァが翼を大きく広げ、旋回する。高度を落とし、無人の浮島へと滑空していく。地に足をつけた竜は、振り返り、静かにジードを見下ろした。その瞳は、青でも赤でもない。“時間”のような色をしていた。

 ジードはそのまま、竜の前に立った。

「君は俺の“力”だ。でも……それだけじゃない気がしてる」

 イルヴァは一歩近づく。地が震える。ジードの服が風で揺れた。だが、彼は動かなかった。

「君の背に乗るたび、俺は空を知る。でも、君の心には……まだ届いていない気がするんだ」

 イルヴァはゆっくりと、顔を近づけた。ジードの瞳と、竜の瞳が、真っ直ぐに交わる。

「支配でも、従属でもなく……“共に在る”ってこと。俺は、君とそれを築きたい」

 ジードの声に、イルヴァの鼻息が低く唸った。次の瞬間、彼の胸に何かが届いた。それは、言葉ではなかった。鼓膜を通さず、皮膚も通さず、魂の奥へと直接届く何か。音ではない。記憶でもない。けれど確かに、“感情”だった。ジードの心の中に、その感覚が波のように広がっていく。

《お前の目を、見てきた……お前の手を、感じてきた……》

 竜の意志が、確かにそこにあった。それは支配ではない。従属でもない。命令でも、契約でもない。それは、“相互の在り方”だった。

「イルヴァ……君は、ずっと見ていてくれたんだな」

 ジードはその場にしゃがみ込み、竜の前脚にそっと手を添えた。鱗は冷たかったが、どこか柔らかく、脈打つ温もりがあった。

「俺はこれから……もっと多くを選ばなきゃいけない。でもそのたびに、君と“共に”選んでいきたい。君がただの“力”で終わらないように……」

 イルヴァは、まるで頷くように、頭をわずかに下げた。それは、王に従う姿勢ではなかった。“仲間”として向き合う者の構えだった。

 

 その日の帰り道、ジードはいつになく無口だった。だが、その沈黙は、曖昧なものではなかった。

「イルヴァと、通じ合ったんだね」

 カミラが静かに言った。

「うん……初めて、“竜”と話した気がした」

 ジードの返事に、カミラは頷いた。

「それでやっと、“空の王”になったのかもしれないね。……空ってのは、風や雲だけじゃできてない。竜の翼と、人の目で出来てるんだ」

 

 翌日、ヴァレグラードの空港に、新たな布告が貼り出された。

 それは、竜と空騎士たちに向けた新たな規定だった。

「竜は兵器ではなく、意思を持った存在である。その飛翔は、王の命令に拠らず、“相互の誓約”によって為されるべし」

 民たちは、その言葉の意味をすぐには理解できなかった。だが、空を飛ぶ竜たちの目が、少しだけ柔らかくなっていることに、気づく者もいた。

 空の王と、竜の盟友。それは、新たな“支配のかたち”ではなく、新たな“共鳴のかたち”だった。


 報せは、風のように届いた。

「ナヴァロ公爵軍が、ヴァレグラードからの補給路を遮断しました――」

 冷たい声だった。それを読み上げた文官の手が、わずかに震えていた。ジードは、静かにその報告書を受け取った。

 文面は、簡潔だった。

 ナヴァロ公爵――イザークが、王政側の輸送路を自軍で“保護”し始めた。

 事実上の、制圧行動だ。

 

 その夜、政庁の私室でレイナードは、壁に寄りかかったまま、剣の柄を握っていた。

「……やっぱり、あの男は最初から“共闘”なんて考えてなかったんだ」

「いや……そうとは限らない」

 ジードは椅子に座り、窓の外の闇を見ていた。

「彼は“演出家”だ。自分の思い通りの舞台を作るために、俺を舞台装置にした」

「つまり、“利用された”ってことだろ」

「……そうだな。でも、俺も利用した。だから、同じだ」

 レイナードは黙った。

 

 イザークから、手紙が届いたのは翌朝だった。封蝋には、ナヴァロ家の双翼の紋章。開くと、そこにはただ数行、達筆な文字が並んでいた。


 君の王座が確かに空を統べると信じていた。

 だが、空だけでは地を守れぬ。

 ゆえに私は、地を奪う。

 君の舞台が、どれほど美しかろうと、観客は地べたに座っているのだ。

 舞台装置ではなく、現実の君を見せてくれ。

  ――イザーク・ナヴァロ


 それは裏切りであり、挑戦状であり――期待でもあった。ジードは、再び王座に座った。そして、静かに地図を広げた。

「……レイナード。明日、お前をナヴァロ軍の前線へ送る」

「……斬るか?」

「違う。“話し合い”に行ってくれ。だが、剣は持っていけ。これは、対話ではなく、“対等な宣言”だ」

 ジードの目に、迷いはなかった。


 レイナードがナヴァロ軍の野営地に到着したのは、黄昏時だった。夕日が赤く空を染め、影が長く伸びていた。彼が案内されたのは、前線指揮幕。

 そこには、やはりイザーク=ナヴァロがいた。

「……よく来てくれた。ジードの使いとして、いや――“剣”として」

「俺は、あいつの“声”でもある」

 レイナードの言葉に、イザークはほんの少しだけ口元を緩めた。

「君の動きは、すべて予想通りだった」

「なら、あんたの裏切りも“演出”か?」

「裏切りではない。“提示”だよ。君たちは空ばかりを見ていた。私は地を見せたかっただけだ」

 レイナードはじっとイザークを睨んだ。

「お前のやってることは、“支配”だ。理想を語りながら、結局は自分の秩序を押し付けている」

 イザークはその言葉を否定しなかった。

「だからこそ、ジードに問いたかった。“秩序”が乱れるとき、君の“理想”はどう在るのか、と」

 レイナードは懐から書簡を取り出した。それはジードから託された、直筆の文だった。


  イザークへ。

  舞台装置としての俺は、もう幕の外へ出た。

  次は、演者として君と立つ。

  共に在るなら、役を変えてくれ。

  支配者ではなく、“共演者”として。


 読み終えたイザークの表情が、わずかに崩れた。

「……やれやれ。あの男は、最後まで“詩人”だな」

「だが、演出家にも響いたんだろ」

 沈黙が流れた。だが、それは緊張ではなかった。

「……補給路、明朝までに引き上げよう。代わりに、“共同指令権”を要求する。私はまだ、“舞台”の一部でいたい」

 その言葉を聞いて、レイナードは小さく笑った。

 

 ヴァレグラード城で報告を聞いたジードは、ただ一言、呟いた。

「……これで、やっと“同じ舞台”に立てるな」

 その声には、安堵も、喜びもあった。だが何より――信頼が、あった。


 報せは、風とともに届いた。

 南方島ルグナにて、竜の民が蜂起。村落の自治権を主張し、王政派の駐留部隊を一時包囲――

 その報告を読み終えたジードは、静かに目を閉じた。彼の中で、ひとつの言葉が鳴っていた。「民」か、「血」か。

 ――それは、ただの反乱ではなかった。それは、“彼の出自”に深く根ざした、問いかけだった。

「……竜の民。昔は“王の右腕”とも呼ばれていた種族だが、今では“危険な力”として封じ込められている」

 政庁の戦略会議で、文官のひとりが冷静に述べた。

「ルグナ島には、今なお数百の竜の民が潜在的に居住しています。封じられた古語と、独自の魔導体系を持ち、王政に従わない小集団を形成している」

「民か、敵か――判断を仰ぎます」

 その言葉に、ジードは立ち上がった。

「……俺が、ルグナへ行く」

「直々に、ですか!?」

 驚きの声に、ジードは淡々と答えた。

「“血”の話なら、俺が話すしかないだろう。あそこに、俺の“過去”がある。なら、王としてでなく、“息子”として行く」

 

 数日後。ルグナ島。

 大地は乾いていた。空は高く、竜の影がゆっくりと飛んでいた。ジードの一行は、村の外れの広場にて迎えられた。そこにいたのは、老人と若き戦士たち。だが、目を引いたのは――一人の女だった。

 しなやかな体躯。紋様の刻まれた頬。そしてその背に、うっすらと浮かぶ“鱗の痕”。

 彼女は名乗った。

 「アラ=ル=ナグ。かつての“竜王の妹”の孫娘。そして――あなたと同じ、“混じりの血”を持つ者。王よ。我らは、あなたを拒絶する」

 アラははっきりと言った。

「竜の民は、あなたの“力”ではなく、あなたの“選択”を見ている」

 その言葉に、ジードは目を逸らさなかった。

「……俺は、力で統べる気はない。だけど、“共に歩む”ためには……互いに手を出さないと、道は繋がらない」

「なら、証を見せて」

「証?」

「“王の血”ではなく、“竜の民の誓い”に従いなさい。……今、ここで」


 “血の証”――それは、言葉では済まされない儀式だった。ジードは、アラに連れられ、村の最奥にある洞窟へと導かれた。そこには古の紋様が刻まれた石板と、半ば崩れた円形の祭壇があった。

「ここで、かつて王と竜の民は“誓い”を交わした。血を混ぜ、心を晒し、互いを“違い”として認め合う。……あなたにも、それをしてもらう」

 アラは小刀を取り出し、掌に浅く切り込みを入れた。ジードも無言で頷き、自らの手のひらを裂いた。流れ出る血は、どこか澄んでいた。

 二人の掌が重なった瞬間、空気が変わった。まるで洞窟全体が呼吸を始めたような、低く響く脈動。古の魔力が、石壁から蘇る。祭壇の中心に、七色の光が浮かび上がる。

 竜の言語で記された《誓いの文》。それが、血に応えるように発現していた。

 アラが、呟くように言う。

「“王たる者、力ではなく、血を開け。竜の目に映るは、力ではなく――心”」

 その言葉に応えるように、ジードの中で何かが開いた。過去の記憶。幼き頃に見た、カミラの祈りの姿。竜の背で感じた、空の鼓動。そして、自らが選んできた数多の“分岐点”。

 それらが、一本の線として結ばれる。

「……俺は、支配しない。君たちを“仲間”として迎える。過去を尊び、未来に繋ぐために。俺の名は、ジード=アークローン。“空の王”として、竜の民と歩むと、ここに誓う」

 その瞬間、祭壇の光が空へと昇った。まるで、竜たちがそれを見上げているかのように、村全体が静まり返った。

 村の広場に戻ると、そこには人々が集まっていた。アラが、高らかに宣言する。

 「ジード=アークローンは、我らが誓いを受けた。竜の民は、彼を“空の盟主”として認め、共に空を往く!」

 その声に、どこからともなく竜たちの咆哮が重なる。それは、歓喜であり、祝福であり、誓約の証だった。

 

 その夜、焚き火の揺れる音と風のざわめきの中で、ジードは小さく呟いた。

「……ここが、俺の“もう一つの故郷”なんだな」

 そして彼は、空を見上げた。その空は、いつもよりも、少しだけ広く感じられた。


 “風の来訪者”――そう呼ばれる特使団が、北方からやってきた。

 彼らの服には、雪の紋章。かつて空と地を分けた氷壁の向こう、《ノル=グリフ連邦》の代表たちだった。会議室に入り込んだ空気は、冷たく鋭い。まるで、刃を突きつけるような気配をまとっていた。

「提案はシンプルです。連邦との“空の安全保障協定”――すなわち、共同戦力運用条約の締結」

 中央の女官が、よどみなく言った。

「我々は空を共有する。同時に、リスクも共有すべきです。この同盟により、互いの空域に対する“敵意の芽”を摘むことができます」

 “敵意の芽”――それは、明らかに周辺国の軍備拡張を示唆していた。だが、レイナードは腕を組んだまま、渋い顔をした。

「つまり、空を繋ぐ代わりに、“軍”を貸し借りしろってことか」

「正確には、“指揮権の一部共有”です」

 その言葉に、ジードは静かに問う。

「もし我が国に、君たちが敵と認定した国の使者が来たら、どうする?」

「同盟国として、拒絶を求めます。……王よ。“孤立”は美徳にはなりません。今や空は、風の一吹きで戦火になるのです」

 会議後、カミラがジードの背に語りかけた。

「断れば、孤立。結べば、干渉。……選ぶって、いつも“正しさ”じゃなく、“覚悟”なのね」

 ジードは微笑んだ。

「だったら、俺は……俺自身の“風”を信じたい」

 

 その夜王政内閣は、緊急の政務会議を開いた。机の上には、契約草案と空域地図、周辺国の軍備分析が並ぶ。

「陛下、連邦に敵意はありません。むしろ“守りのため”の連携です」

「だが、その代償は? 空を渡すということは、心を縛られることにも等しい」

 議論は深夜まで続いた。

 そして、夜明け前。ジードはひとり執務室に残り、窓の外の星を見ていた。風が、ほんの少し、彼の髪を揺らす。

「……空は、俺たちだけのものじゃない。でも、“俺たちで守る空”であるべきだ」

 その言葉が、決意へと変わる瞬間だった。


 空が白み始める頃、王政庁に再び、特使団が通された。会議室の中央に置かれた、ひとつの文書。それは、連邦側が提示した“同盟条約”の写しだった。

 ジードは、その前に座り、静かに目を通した。沈黙が、時間を伸ばしていく。やがて、彼は筆を取った。だが、それは署名のためではなかった。

 彼が書き始めたのは、新たな文案――

 

「――これは、“同盟”ではなく、“協調声明”です」

 ジードは筆を置くと、顔を上げた。

「我が国は、他国の戦力に依存せず、自らの空を守る。だが同時に、貴国の提案に応えるかたちで、“情報共有”と“緊急連携条項”を設けます」

 特使団の面々に、静かな動揺が走る。

「……貴方は、我々と“対等な立場”で並びたいと?」

「違う。“互いに干渉せず、協力する”という選択をしたい。空は奪い合うものではない。共に見上げるものだと、俺は信じてる」

 

 会議後、連邦側の女官は、静かにジードに近づいた。

「……大胆ですね。普通の王なら、連邦の庇護を選んだでしょう」

 ジードは苦笑する。

「俺は普通じゃないらしい。“空の王”って呼ばれてるから」

 女官も、微かに笑った。

「その空を、どうか守ってください。“奪わない力”で」

 

 数日後、ヴァレグラードの空港には、新たな布告が貼り出された。


  空は、すべての人に開かれている。

  しかし、その守護は、自らが果たすべき義務である。

  他国と協力しつつ、決して依存しない。

  空の王国は、自由と責任の狭間で、未来を飛ぶ。

 

 その夜カミラが、ジードに新しい外套を手渡した。

「少し重いけど……風をはらむには、ちょうどいいわ」

 ジードはそれを羽織ると、空を見上げた。

「俺たちの空は、今どこまで続いてる?」

「どこまでも。だって、まだ誰も“終わり”を決めてないんだから」


 空が、焼けていた。東の空――浮遊大陸《エク=ラド》の上空で、突如発生した異常気流と炎の暴走。数十年ぶりに目撃された、“空竜の巣の崩壊現象”。

 竜たちが眠る神域に、何者かが干渉した痕跡があるという。異常は加速度的に広がり、ヴァレグラードにも熱波が到達していた。

「……これは、“空の崩壊”に繋がりかねない」

 レイナードの顔に、これまでにない焦りが浮かんでいた。


 竜の研究機関から、一通の提言書が上がってきた。


 一部の古竜が、自らの核である《炎核エンコード》を犠牲にすれば、

 対流の制御と熱力の調整が可能。

 これにより、空の崩壊は回避されうる――


 だが、それは即ち、竜の死を意味していた。

「……イルヴァにも、その役目を?」

 ジードはその報告書を、硬く握りしめていた。

「……あの竜たちは、空の意思であって、道具じゃない。“守らせる”ために、死なせるなんてこと、俺にはできない」

 彼の声は震えていた。その場にいた誰もが、答えを出せずにいた。

 

 その夜、ジードはイルヴァのもとを訪れた。

 月明かりの下、竜は静かに横たわっていた。風が鱗をなでるたびに、金属のような音が鳴る。

「……君は、知ってるんだな。あの提言のこと」

 イルヴァは目を閉じたまま、鼻先を少しだけ動かした。否定でも、肯定でもない、ただの“了解”だった。

「君の命を、差し出させるなんて、俺にはできない」

 ジードは地面に膝をついた。

「君は、俺の“力”じゃない。“仲間”なんだ。……君なしで空を守っても、意味がないんだ」

 イルヴァは、静かに顔を上げた。その目には、何の迷いもなかった。ジードの中に、また一つの問いが生まれる。

 命か、空か――

 どちらを優先することで、本当に“守る”と言えるのか。

 

「ジード=アークローン。王として、あなたは空を救う命令を出すことができます」

 研究機関の代表が、淡々と告げた。

「だが、それは命を燃やす選択だ。王は、命に命令できるのか?」

 その問いに、ジードはただ、首を横に振った。

「……命令はしない。でも、“もう一つの方法”を探す時間が、俺にはある」

 

 ジードは、アラと竜の民の長老たちを招集した。

「竜の核を使う以外に、空の流れを抑える術はないのか」

 アラは眉をひそめ、しばらく黙ったのちに口を開いた。

「……一つだけ、“禁じられた空律”がある。竜の魂と王の心を共鳴させ、“空に言葉を送る”術――、だが、それは成功すれば空を癒やし、失敗すれば王も竜も死ぬ」

 それを聞いたレイナードが叫んだ。

「やめろジード! それは“共倒れ”の賭けだ!」

「違う。“共に立つ”ための選択だよ」

 ジードの言葉に、誰もが息を呑んだ。

 

 祭壇の丘。夜、風と星々が見守るなかで、儀式が始まった。ジードとイルヴァの目が、静かに交わる。

「……行くぞ。俺の心を、君にさらけ出す。そして君の思いも、全部受け取る」

 空律の文言が、ジードの口から紡がれていく。古の響きが大気に溶け、竜の鱗が光を帯びる。

 そして――

 空が、震えた。炎の流れが止まる。狂った風が鎮まり、星の軌道が修正されるかのように、空が“正しく回り始める”。ジードとイルヴァは、まだ繋がっていた。互いの存在が、響き合っていた。

 

 夜明け。

 ジードは地面に座り込み、空を見上げていた。イルヴァが、そっと傍に身を横たえた。

「……ありがとう、イルヴァ」

 彼の声は、かすれていたが、確かだった。

「君と、“同じ空”を選べてよかった」


 空が、正しく回り始めてから、十日が過ぎた。人々は日常を取り戻し、空港には再び市が開かれ、竜たちの飛翔も穏やかなものに戻っていた。

 だが、その静けさの底に、“歪み”は残っていた。浮遊大陸の地殻には、空律が完全に修復されなかった“ひび”が残り、それが徐々に世界のことわりを侵食し始めていた。

「このままだと……五年後には、空そのものが“沈む”」

 それが、研究局の出した予測だった。

 

 唯一の手段が、提示された。 空律を“完全再定義”する。

 ただしそれには、空と直接“共鳴した存在”の記憶全てを空に転写する必要がある。転写対象の記憶は完全に消失し、“人格の芯”が書き換わる。そして、その条件を満たす存在は――この世界にただ一人。

 ジード=アークローンだった。

「つまり俺が、“ジード”をやめるってことか」

 ジードは、微笑すら浮かべていた。カミラが、怒鳴り声に近い声で叫んだ。

「そんなの、冗談じゃない。空を守って、国を築いて、人を信じてきたあんたが……その全部を、記憶ごと捨てるの?」

「……でも、“空”が俺を覚えていてくれるなら、少しは報われるかもしれない」

 レイナードが無言で立ち上がり、拳をテーブルに叩きつけた。

「お前が自分を消すっていうなら、俺が“王”になるぞ」

「それでもいい。お前なら……空を笑わせることができる」

「ふざけるな……!」

 レイナードの怒りには、どうしようもない“哀しみ”が混じっていた。

 

 その夜、ジードはひとりで空港の塔に登った。イルヴァが、黙って寄り添ってきた。

「……君と飛んだ記憶も、消えるかもしれない」

 イルヴァは、そっとその大きな頭を彼の肩に預けた。風が吹く。その風は、懐かしさと、これからの寂しさの匂いがした。


 儀式は、夜明けに行われることになった。空がいちばん澄んでいて、世界が目覚める前。その瞬間だけが、“空律の再定義”を可能にする。

 ジードは、静かに玉座を降りた。王冠をレイナードに手渡し、最後に政庁の階段を踏みしめた。カミラが、じっと見つめていた。何も言わなかった。ただ、その目が、全てを語っていた。

「ありがとう。君の言葉がなければ、俺はここまで来れなかった」

 ジードは微笑んだ。その笑みには、過去も未来もなかった。ただ、“今”だけがあった。

 

 天空の祭壇に立つ。大地が見下ろせるほど高いその場所で、ジードとイルヴァは並んだ。竜の背に乗るのではなく、“同じ高さ”に立っていた。

「ジード=アークローン。お前は、記憶を空に捧げるか」

 祭司の問いに、ジードは頷いた。

「空は、俺が守るものじゃない。俺たち全員が、生きるために“紡ぐ”ものだから」

 

 光が満ちていく。イルヴァが咆哮する。その声に、空中の律動が応える。ジードの記憶が、風となって舞い上がっていく。

 レイナードとの剣の稽古。カミラの紅茶の香り。イルヴァの背から見た、青の果て。竜の民の炎、アラの声、民の笑い。それらがすべて、空へと溶けていく。

 そして、彼は微笑んだまま、空を見た。

「……ありがとう。全部、全部、俺だった」

 その言葉が終わると同時に、ジードの目の色が変わった。深く、穏やかで、どこか――“初めて世界を見た子供”のような眼差し。

「ここは……きれいな空だね」

 彼の名前を呼ぶ者はいた。だが、彼はもう“ジード”ではなかった。ただ、“空に命を捧げた人”として、そこにいた。

 

 その後、新たな王制はレイナードが引き継ぎ、空律は安定を取り戻した。

 竜の民と王国は正式に“空の共治協定”を結び、空港の塔には、ひとつの銘板が刻まれた。


 空を守るとは、空を知ること。

 空を知るとは、共に生きること。

 空に命を捧げた、ある“王”の記憶に寄せて。

■作者コメント

この物語は、「選ぶこと」の痛みと尊さを描いた話です。

ジードの歩みを追うなかで、きっと読者自身の“選択”の記憶とも重なる瞬間があるはず。

空を見上げたとき、少しでも“あの王”を思い出してもらえたら幸いです。

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