消えた令嬢
ベルナデット・バール男爵令嬢の元婚約者というアルノー・ルブタン子爵令息が『縁』に現れたのは冬の寒い日のことだった。
「あの、すみません……」
忙しそうに給仕していたクロードが速足で入り口にいるアルノ―を迎えた。
「いらっしゃいませ。申し訳ありませんが現在満席で……」
「いえ、ベルナデット・バール嬢から紹介されてきたんですが、ご相談させていただきたいことがありまして」
クロードは鳩が豆鉄砲を食らったような顔になったが、すぐににこやかに応対した。
「あと一時間ほどで営業が終わりますので、その後にまた来ていただけますか? もしくは寒いですが裏庭で待っていただいても……」
「えっと、どうしようかな……」
そう呟きながら会計デスクの脇に置いてあるお見合い掲示板を興味深げに見つめるアルノー。
「お見合いをご希望でしたら今すぐ個室をご案内してそこでお待ちいただけますが……?」
店の方針で、個室は見合い関係か迷惑客を隔離するなどの特殊事情でのみ使用することにしている。
「似たようなものかな? 助かります。ありがとうございます」
***
アルノーは個室で姿勢よくお茶を飲みながら静かに閉店を待っていた。
「お待たせしてすみません!」
クロードとフェリシーが入室するとアルノーは温和な笑みを浮かべてお辞儀をする。
「いいえ。こちらこそお忙しい時間に突然押しかけて申し訳ありませんでした」
「良かったらこちらをどうぞ」
クロードが差し出したのは紅茶と白いアイシングのかかったレモン形のクッキーである。たっぷりのバターと甘さ控えめの生地にレモンのしぼり汁と削った皮を混ぜて焼いたサクサクのクッキーだ。
「これは……美味しいですね。レモンをこんなふうにお菓子に使うなんて知りませんでした」
「お嬢さまお得意の焼き菓子なんですよ」
誇らしげなクロードに冷ややかな視線を向けるフェリシー。
「そんな本筋から離れた話はいいから」
「へいへい。すみませんね。自慢のお嬢さまの自慢くらいさせてくださいよ」
くすっとアルノーが笑った。
「ベルナデットの言っていた通りだ。グレゴワール伯爵家のフェリシー様は表情筋が死んでいるけれどクロード殿とのやり取りが面白いって」
「まぁ、ベルナデット様がそんなことを言っていらしたの。表情筋が死んでるって……どういうことかしら? 筋肉の細胞が死んでいたら私は喋ることもできなくなってしまうけど……?」
真面目な顔で首を傾げるフェリシーにクロードとアルノーが声を合わせて爆笑した。
「お嬢、気にしないでください。多分褒め言葉ですよ。そこがお嬢さまのいいところなんですから」
「すみません。ベルナデットはフェリシー様に大切なことを教えてもらったと感謝していましたよ」
「それなら良かったですわ。それで本日はどのようなご用件ですの?」
アルノーがこほんと咳払いした。
「ご存じのように僕はベルナデット・バール男爵令嬢の元婚約者です。婚約解消の理由はお互いに別に好きな人がいたから、というのはご存じですよね?」
フェリシーとクロードが頷いた。
「僕はベルナデットとは幼馴染で仲は良かったんです。恋愛対象としては見られなかったけど、良き友として好意を持っています。だからわざわざ婚約解消をするまでもないと最初は思っていたのですが……」
「どなたかに恋、してしまったのですね? 婚約を解消せざるを得ないほどに?」
「はい。レオンティーヌ・バロワンという方でとあるパーティで出会いました」
「パーティ? どのようなパーティですの?」
アルノーの頬が赤くなった。
「決していかがわしいパーティではないのですが……。参加者が仮面をつけて誰だか分からないようにするという趣向だったんです」
「仮面パーティ……。主催者はどなたですか?」
「いや、それは……」
「いかがわしいパーティでないのなら問題ないのでは?」
「まぁ、そうですね。参加者も多かったですし……。アスラン伯爵家で行われたパーティです。主催もおそらくそこかと」
クロードが顎に手を当ててうんうんと頷いた。
「なるほど……。そのパーティでレオンティーヌ嬢と出会い、恋に落ちた? そういうことですか? いや~ロマンチックですねぇ」
軽い口調のクロードにアルノーの頬が紅潮する。
「はい。仮面をつけていましたが僕もレオンティーヌも本が大好きで……。とても話が弾んだのでその時に名前を教えあって、僕の連絡先を渡したんです。あと職場が王宮図書館だということも伝えました」
「王宮図書館に勤めていらっしゃるのですね?」
フェリシーが質問するとアルノーは瞳を輝かせながら答えた。
「はい! 僕は子供の頃から本が大好きで! 天職だと思っています」
「彼女から連絡がきてお付き合いするようになったんですか?」
「……僕はお付き合いしていたつもりでした。パーティの翌日王宮図書館に来てくれたんです。週に二~三回、僕の昼休憩の前に来てくれたので一緒にランチを食べたりして……。お互いの好きな本の話をして、とても楽しかったんです。それが……」
アルノーの表情が曇った。
「僕とベルナデットの婚約解消が決まって、僕がレオンティーヌに告白したんです。そうしたら……」
「「そうしたら?」」
「レオンティーヌが消えてしまいました」
「消えたってどういうことだい?」
クロードが首をひねるとアルノーの顔から生気がなくなった。
「レオンティーヌ・バロワンという人間は存在していないようなのです」
フェリシーとクロードは顔を見合わせた。