前世の夫
エルネストとマリーはすぐにテランス青年との面会を手配してくれた。二人は彼を連れてわざわざ『縁』まで来てくれるという。その日は店を休業にすることに決めた。
「でも二人だけでお話しされたいですわよね? 私とエルネストは誰も邪魔が入らないように店の方でお待ちしていますわ。フェリシーさんは個室でテランスさんとゆっくりお話しなさってください。時間を気にする必要はありませんから」
二人きりで会うのはやはり緊張する。同じ部屋にいなくても扉を開けばすぐそこに信頼できる人達がいてくれるというのは心強い。
「フェリシーさんは個室で待ってらして。いらしたら私がご案内しますわ」
「ありがとうございます」
マリーの優しい心遣いが嬉しい。有難く彼女の言葉に甘えることにした。
前世の夫隆之が好きだった冷たいほうじ茶ラテを個室のテーブルに用意したフェリシーは意味もなく立ったり座ったりを繰り返す。
「こちらですわ」
しばらくするとマリーの声が聞こえて、ゆっくりと個室の扉が開いた。
「えっと、テランス、といいます」
軽く会釈するテランスは金髪に薄茶色の瞳が爽やかな好青年である。マリーは励ますようにフェリシーに微笑みかけるとそのまま個室から出ていった。
帆もない小さな子船で海洋のど真ん中を揺られているような不安な気持ちに陥った。どうしていいか分からなくてその場で立ち尽くすフェリシーにテランスはにっこり笑って「どうぞ座って」と声をかける。どちらが店主だか分からない。
言われるがまま腰を下ろすとテランスが感激したように「これはもしや……ほうじ茶ラテ?」と呟いた。
その言葉を聞いただけで分かってしまう。彼は間違いなく隆之だ。フェリシーの瞳からあっという間に涙がとめどなく流れ落ちた。彼は躊躇しながら手をそっと伸ばしてフェリシーの頭を撫でた。
「……ゆかり、だよな?」
涙が止まらず声が出ない。必死でコクコクと頷いた。
「ごめん。俺が事故ったせいでゆかりまで死ぬ羽目になった」
フェリシーは大きく目を瞠った。
「ち、ちがうわっ……ご、ごほっ……私があんなふうに嫉妬して喧嘩しちゃったから、あなたが運転に集中できなくて……」
泣きながら話そうとしたのでむせるフェリシーに隆之、いやテランスは困ったように眉根を寄せた。こんな表情も前世で何度も見たことがある。
「ゆかり、いろいろ整理しよう。ホントのこと言うと、俺はあの時ゆかりにやきもち焼かれて嬉しかったんだ」
「えっ!?」
「ゆかりはあまり大袈裟に愛情表現をする方じゃなかっただろう? だから……わざと元カノからの他愛のないメールを見せたりして。子供っぽいな。すまなかった。喧嘩して気を取られたから事故に遭ったっていうのは絶対に違う。あれは純粋に運が悪かった……というか俺が不注意だったんだ。ゆかりは何も悪くない。それを伝えたかった」
「そ、うだったの?」
「ああ」
テランスは大きく首を縦に振った。
「最近、エルネストさんの小説をたまたま見かけて……。というより今の俺の奥さんは本が好きでね」
「あ、結婚していたのね?」
照れくさそうに頭を掻きながら彼は笑った。
「ああ、去年結婚したばかりなんだ。もうじき子供も生まれる」
彼の満ち足りた顔を見てフェリシーは心の底から祝福する気持ちがこみあげてきた。決して強がりではない。
(そうか……。私は彼に幸せでいてほしかったんだ。それを確かめたかったんだ)
「幸せそうで良かった。本当に嬉しいわ」
フェリシーは彼のために微笑んだ。これまでは笑うことに罪悪感がつきまとっていた。これからは素直に嬉しい時に嬉しい顔ができるような気がする。それを見てテランスの顔が急激に赤くなり、頭を掻きながら早口で語りだした。
「……奥さんは幼馴染で、俺の前世の話も知っているからさ。日本の料理みたいなのが書かれているよって教えてもらって。肉じゃがとかみたらし団子とか、著者は絶対前世日本人だろう!って確信したね。俺の好物ばかりだったから『もしかしたら?』って思い切って出版社に問い合わせたんだ。問い合わせて良かった。ずっと、ゆかりに謝りたかった。それが一番の心残りだったんだ」
「私も! 私もずっと謝りたかった。私もそれが心残りだったの!」
今なら分かる。以前コレットがフェリシーの魂の色を教えてくれた時、ひらがなを書いてくれた
『この交差とぐにって曲がっているのはもしかして『さ』? 『あ』いえ『め』かしら? 『ん』? 『い』それとも『こ』? これは『な』に見えるわ。どういう意味かしら? 文字はこれだけ?』
コレットが描く文字を見た時のことを思い出す。
魂の中に漏れ出していた文字は……。
(なんであの時分からなかったのかしら? 『ごめんなさい』ってずっと言いたかったんだわ)
「本当にごめんなさい! 隆之が今幸せそうで私も嬉しい! どうか奥様とお子さんとお幸せにね」
「ああ、ありがとう。ゆかりも……って今の名前はなんていうんだっけ?」
「フェリシーよ」
「そうか、いい名前だ。この料理屋で日本の料理を作っているのか?」
「うん。とても楽しいわ」
「ゆかりは……幸せかい?」
「ええ! とっても!」
テランスが帰るのを見送った後、フェリシーはふっと緊張の糸が切れて膝から崩れ落ちそうになった。
「危ない!」
背後からマリーの声がする。
「お嬢さま、大丈夫ですか?」
同時に馴染みのある声と力強い腕が自分を支えてくれた。
(……クロード? 帰ってきてくれたの? ああ、クロードの腕だわ)
そのままフェリシーは意識を手放した。