前世日本人
国王からの使いがやってきた時、新しく王宮の馬屋番になったリックは熱心に馬のブラッシングをしているところだった。
「国王陛下がお呼びです。今すぐ着替えて謁見室に来てください」
「え⁉ お、俺が? 何かしてしまいましたか?」
折角得られた良い仕事を失うかもしれないと顔を青ざめさせたリックだったが、使いの人間は安心させるように笑った。
「別にお叱りを受けるわけではありません。むしろ最近馬の調子が良いと陛下は喜んでおられました。着替えも用意しましたから、体を清められる場所に案内しますよ」
「あ、ありがとうございます!」
彼の後について歩きながら『どうして俺なんかが呼ばれるんだろう』とリックはしきりに首をひねっていた。
***
「よく来たな。無礼講だ。楽にしろ」
緊張しすぎて歩くのもままならないリックがブリキの兵隊のように足をかくかくと折りながら近づいていくと国王が苦笑いを浮かべた。
「お、おそれながら……きょうえつしごくにぞんじます……」
リックは自分が何を言っているのかも分かっていない。ただ、少しでも間違えたら頭と胴体が切り離されてしまうのではないかという恐怖しかなかった。
「陛下、国王陛下からいきなり楽にしろと言われても無理です」
思いがけなく可憐な声が聞こえた。国王の隣に紫水晶のような瞳の若い女性と黒髪の少女が座っている。
(国王陛下には妃がいないと聞いていたけど、非公式に若い愛人でも囲っているんだろうか?)
などと不届きなことを考えていたリックを国王は睨みつけた。
「この二人は俺の娘のような者だ。おかしな妄想は止めろ!」
(え⁉ 今俺声に出していたっけ?)
パニックになったリックに国王は不敵な笑みを浮かべる。
「臣下の考えていることくらいは分かるものだ」
「……お、おそれいりました」
とにかく平伏して時間をやり過ごそうと思っていたのに紫水晶の娘が口を開いた。
「かしこまらなくて結構です。ここは私達しかおりません。どうか顔を上げてこちらの席にお座りください」
恐る恐る顔を上げるとむっと唇を引き結んだ国王がしぶしぶと頷いた。
「で、では失礼いたします」
丸いテーブルを囲み、国王に正対する形で腰を下ろすとリックはそわそわと身じろぎをした。
「今日はわざわざ来てくださってありがとうございます。私はフェリシー・グレゴワール伯爵令嬢です。実はどうしてもあなたにお聞きしたいことがありまして……」
紫水晶の娘が真剣な顔で訴えるのをリックは不思議な気持ちで受け止めていた。
(伯爵令嬢がこんなに必死になるようなことを平民の俺が知っているというのか?)
「突然のことで申し訳ありません。あの……こんなことをいきなり尋ねられて困ると思いますが、あなたには前世の記憶がありますか?」
「前世の……記憶?」
途端に視界がぐるぐると回るような気がした。当たり前だが、そんな質問はこれまで一度もされたことがない。「何故そんな質問を?」と聞き返すのも不敬罪になりそうで怖い。それに国王に対して嘘をつくのは得策ではないと瞬間的に判断する。
数秒の間に様々な思考が脳をよぎったが、リックは正直に話すことが最善だと結論づけた。
「はい。……ございます」
それを聞いた若い女性……フェリシーはハッと表情を強張らせた。
「もしかして日本人の方ですか?」
今度はリックが驚いて口をぽかんと開く。
「え⁉ はい……そうです。前世で日本人でした」
「隆之? 隆之なの?」
突然フェリシーの瞳が潤んだ光を帯び、リックは大きく目を見開いた。
「たかゆきってどなたですか? ……あなたも前世で日本人だったのですか?」
「……ということは隆之ではないということね?」
「はい。前世では小谷誠人といいました」
「そう……。他に日本人としての前世を持つ人に会ったことはない?」
「ございません。このような話をしたのも初めてでございます」
「そう……」
力なく肩を落とすフェリシーが気の毒で何の役にも立てない自分が情けなかった。
「隆之さんという方を捜しているのですね? そもそもどうして私に前世の記憶があると分かったのでしょうか?」
今度は国王と黒髪の少女が顔を見合わせた。
「これは極秘事項だ。絶対に他人に漏らしてはならぬ。良いな」
「はっ、承知つかまつりました」
『言っても誰にも信じてもらえないだろう』と思いながらリックは跪いて誓約した。
「俺は人の魂の色が分かる。そしてお前たちのような前世の記憶がある者は特徴的な文字が周囲に浮かび上がって見えるのだ」
「文字……?」
「そうなんです。私の周囲にも文字……ひらがなが浮かんでいるようです」
「ひらがな? 俺……いや、私の回りには一体どんな文字が?」
国王はじっとリックの周囲を見つめた後、紙を取り出して文字を書き始めた。リックとフェリシーは国王の書いた紙に目を奪われる。
「『ん』かしら? あとは『の』……『か』?」
一緒に紙を覗きこむと、リックにはすぐに意味が分かった。分かってしまった。リックの双眸から噴き出すように涙が溢れ出る。
「だ、だいじょうぶですか?」
心配そうに尋ねるフェリシーにリックは何度もコクコクと頷いた。
「そ、それは……『かのん』です。俺の前世の娘の名前です」
その場にいた全員が息をのんだ。ようやく泣き止んだリックがぽつりぽつりと語り始めた。
「前世で俺は趣味で釣りをしていました。娘のかのんを連れてよく釣り船に乗っていたんです」
リックはフェリシーから手渡されたハンカチで再び目を押さえる。
「あの日は早朝から海が荒れていました。でも、天気予報や波浪予測を調べて大丈夫そうだ、と出航したんです。でも、幼い娘は置いていくべきでした。船の揺れがかなり酷くて……。ライフジャケットを着用していましたが、娘が海に投げ出されてしまったんです」
「まぁ……」
フェリシーが口元を手で押さえた。
「俺も慌てて海に飛び込みました。何とか娘を救出して船に引き揚げてもらえたのに、俺がドジってしまって……。莫迦ですね。俺は不注意でライフジャケットをちゃんと付けていなかった。泳いでいる途中でジャケットが外れてしまったんです。それでそのまま流されて……死にました。娘の泣き声が聞こえてきたのが切なくてね。娘が助かったのは何より嬉しい。でも、父親の死の責任を感じさせてしまっていたらどうしようとか、酷いトラウマになっただろうなとか……。こんな莫迦な俺のことなんか気にすることないって言ってあげたかった。それが……唯一の心残りです」
しんみりとした雰囲気の中、国王が口を開いた。
「お前にとって一番の心残りが魂の色の中に漏れ出しているということか?」
「そう、かもしれません。あなたの文字は何なのですか?」
「……」
黙り込むフェリシーを見てリックは慌てて両手を振った。
「す、すみません。無神経なことをお聞きしました。どのような事情があるのか分かりませんが、いつか隆之さんが見つかることをお祈りしています。お役に立てず申し訳ありませんでした」
「いいえ、こちらこそありがとうございました。……今の人生はお幸せですか?」
リックは大きな笑顔を見せた。
「はい。これでも妻と子供が三人います。かのんのことは忘れませんが、今の家族を大切に守りたいと思っています」
「そうですか。良かった。どうかお幸せにね」
「はい!」
そう言って深くお辞儀をすると、リックは馬小屋に戻っていった。