エンゾ
アルローの街は荒れていた。
バリエ侯爵領の領都なので人口が多く商業も栄えているはずだ。しかし、街ゆく人たちの表情は暗く、怯えたように下を向いて急ぎ足で歩いていく人が多い。
御者に馬車を今夜の宿泊場所に連れていくよう頼み、フェリシーとクロードは護衛の騎士ドニと共にジローを捜しに街へ出た。
住所を頼りに歩いていくと、どんどんさびれた風景が目の前に広がっていく。
人の住んでいない廃墟のような建物。何をするでもなく路上に寝転がる人々。ぼろきれをまといやせ細った子供たちが疲れ切った眼差しで呆然と座り込んでいる。
思わず『これで食べ物でも』と財布を出そうとするフェリシーをクロードは止めた。
「お嬢さま、それでなくても俺たちはこの辺で浮いています。金を見せたら『我も我も』と集まってきて身動きが取れなくなるでしょう。あるいは襲われるかもしれない。俺とドニだけだと守りきれない危険性があります」
護衛騎士のドニも同意するように頷いた。
「そ、そう……ね」
辛そうに子供たちに視線を向けながらも何もせずに通り過ぎると、ジローの住所を書いた紙を見ていたクロードが狭い路地を指差した。
「お嬢さま、多分この路地です」
「分かったわ」
そういいながらもゴクリと唾を飲み込んだ。
思っていたよりもずっと過酷な環境に衝撃を受けつつ、フェリシーはその路地に足を踏み入れた。
隙間風が入るようなボロボロの廃屋の中にも人が住んでいるようだ。路地には誰の姿もないが、建物の中から密かにこちらの様子を窺っているような気配が感じられた。
「ここ、ですね」
しばらく歩いた後、クロードが立ち止まったのはやはり廃屋のように見える建物だった。しかも入口の扉が壊れている。誰かに壊されたように大きな穴が開いていて、そこをボロボロの布で隠しているだけだ。
「誰か住んでいるのかしら……」
心配そうにフェリシーが中を覗き込んでいる間にクロードが大きな声を出した。
「すみませーん! どなたかいらっしゃいませんか⁉」
ガタン
建物の中で音がした。しかし、誰も出てこようとはしない。じっと息をひそめている感じが伝わってくる。
(怖がって隠れているのかも……)
「あの、怖がらなくて大丈夫です。私たちはジローさんの友人で王都から来ました」
少しの沈黙の後、建物の中の空気が動いたような気がした。ふと見ると扉に張られた布の隙間から小さな両目がフェリシーたちを見つめていた。まだ子供だ。
「こんにちは。ジローさんに会いにきたんだけど、君は弟さんかな?」
クロードがしゃがみこんで笑顔を見せると、小さな両目が突然潤みだして涙がほろほろと溢れだした。
「ど、どうしたの? ジローさんは?」
「あんちゃんは……あんちゃんは姉ちゃんと一緒に連れていかれた……」
「誰に⁉」
フェリシーの鋭い口調に少年はびくっとする。怯えた眼差しを見て反省して優しく言い直した。
「ごめんなさい。驚かせるつもりはなかったの。良かったら出てきてもらえる? 話がしたいの」
少し躊躇した後、少年は布をはぎ取って表に出てきた。十二~三歳くらいだと思うがガリガリに痩せている。
「とりあえずゆっくり話ができるところに行きましょう」
「あ、待って! 母ちゃんが……病気の母ちゃんが死にそうなんだ! 薬も食べ物ももうなくて……」
「え⁉」
薄暗い建物の中から微かに饐えた匂いが漂ってくる。扉の向こう側に床に横たわっている人の輪郭が見えた。
「ドニ! お願い、お母さんを馬車で教会に連れていって!」
この世界では庶民の治療を受け入れてくれるのは一般的に教会である。しかし、少年の顔が青ざめた。
「駄目だ! 教会は奴らの息がかかっていて、母ちゃんを受け入れてくれないよ!」
「奴らって……? ジローさんが借金していた相手?」
少年の顔が強張り目尻から一粒の涙が頬を伝った。
「もしかしてあんちゃんにお金を貸してくれたお姉さんですか?」
「そうよ。何があったの?」
「あんちゃんはちゃんとエンゾに借金を返したんです。それなのに『期限切れだ』とかいちゃもんをつけてあんちゃんと姉ちゃんを無理やり連れていって……」
「エンゾっていうのが借金取りね? どこに連れていかれたのか分かる?」
「……最近、エンゾたちが根城にしているのは街の娼館か教会か……領主様のお屋敷、えっと、お城じゃなくてお館って呼ばれているところです……。そのうちのどれかかも……。おいらは何もできなくて……怖くて隠れているしかできなかった。うっ……」
「怖いのは当然よ。それにお母さんを今までちゃんと守っていたんでしょ? よくやったわ。あなたの名前は何というの?」
「ぐすっ、トビ―といいます」
両手で目をこすりながらぽろぽろと号泣するトビーの頭をそっと撫でるフェリシー。
「……領主の屋敷にまで出入りしているとなると、この街で余程の影響力を持っているのね。危険だわ」
しばらく考えた後、フェリシーは鞄から紙を取り出して簡単な手紙を書いた。
「ドニ、急いでお母さまとトビーをここから避難させてほしいの」
「お嬢さま、避難といっても……」
「ここからバール男爵領の領都までは馬車で十五分くらいよ。そこで領地管理人のベルナデット様とオレール様にこの手紙を渡してちょうだい。きっとあの方たちなら受け入れてくれるはずだわ」
「で、でも、そうしたらお嬢さまの護衛が……」
「クロードがいるから大丈夫! ねっ、クロード?」
「いや、まぁ、ドニが戻ってくるまでの間くらいは何とかできるだろうけど、できるだけ早く戻ってきてくれると有難いよ。お嬢さまは無茶をしがちだから」
苦笑いするクロード。
「分かりました!」
母親を毛布で包み、ドニはトビーを連れて急いで去っていった。
「さて、お嬢、これからどうしますか? とりあえず今夜の宿に行って、そこで休みましょう。作戦会議もしないといけないし」
「そうね。まずはエンゾとかいう人のことを調べて対策を……」
フェリシーが言いかけた時に背後から「俺がなんだって?」という低い声が聞こえ、振り向く間もなく口に布を当てられた。
強い薬の匂いと共に意識が朦朧としてくる。隣にいるクロードも同様に背後から羽交い絞めにされ口元に布が当てられているのが見えた。
「……くっ、おじょうさ……ま」
そのまま視界が真っ暗になった。