ハムくん
「え⁉ えええ⁉ は、ははくしゃくけ?」
ジローが驚きのあまり混乱している。クロードも衝撃を受けて目を丸くした。
「お、お嬢さま、いきなりそんな! 何を言い出すんですか⁉」
「ちょうどオルガ姉さまが屋敷の警護を強めたいっておっしゃっていたのよ。ジローさん、あなた強いのよね?」
「えええ? お嬢さまって……伯爵家のお嬢さまだったんですか⁉ どうしてこんな庶民向けの店なんて……? 慈善事業ということですか?」
「いろいろ事情があってね。それより、腕に自信はおありですか?」
「あ、えっと……はい、強い、と思います。素手で熊を倒したので熊男と呼ばれるようになりましたし」
「素手で⁉ なるほど、わかりました」
まだ混乱しているジローをなだめるようにフェリシーはゆっくり説明する。
「これは秘密なのですが、私はグレゴワール伯爵家の娘です。用心棒というか屋敷の警護を増やしたいと思っていたのでジローさんにお願いしたいのです。詳細は後ほど改めてお話ししますが、お給料の前借りも可能です。借金はいくらですか?」
ジローの顔がハッと真剣になる。
「お嬢さま、いくらお優しくてもそれはいけません。施しは受け取れません」
「施しではないわ。借金を返すまではタダ働きになるっていうことです。住み込みで三食はつけますがお給金はしばらく無しですよ。屋敷の力仕事などもお願いすると思いますがそれでもいいですか?」
「それは……もちろん、俺にとっては願ったりというか……」
彼の青ざめた顔が徐々に血の気を取り戻していく。それと同時に両目が潤みだして、ゴンっとテーブルに額をぶつけた。
「お嬢さまっ!! ありがとうございます! なんでも、どんな仕事でも喜んでやります! この御恩は一生忘れません!」
どことなく複雑そうな顔をしていたクロードだったが、諦めたようにため息をついた。
***
「本当にありがとうございました!」
大きな笑顔で手を振ってジローは故郷に戻っていった。借金を返済したら王都に戻ってきてグレゴワール伯爵家で働くという。
フェリシーは自分の貯金をジローに貸した。
「俺が貸すって言ったのに」
クロードは不満そうだ。
「いいえ。私の勝手でしたことだから。クロードに迷惑をかけるわけにはいかないわ」
幸い、アリーヌもジローを雇い入れることに賛同してくれた。ちょうど男手が欲しいところだったと他の使用人も喜んでいる。これまでフェリシーの推薦で雇われた使用人に間違いはない。
***
「でも、わざわざお嬢さまがアルローの街まで行くなんて……」
ジローを見送った後、フェリシーとクロードも急ぎバリエ侯爵領に向かっている最中だ。揺れる馬車の中でクロードは不満そうな顔をしている。
「ジローさんがお金を返しても相手はあの手この手で妹さんやジローさんを離さないかもしれないわ。とても厄介な相手の気がするのよ」
「どうしてそんなにジローさんに入れ込むんですか?」
「どうしてって……困っている人がいたら助けたいと思うものじゃない? ジローさんじゃなくても同じことをするわよ? クロードだってそうじゃない?」
「うっ……まぁ、そう……かも」
「それにヤクザみたいな連中って言っていたし、娼館が増えているなんてバリエ侯爵だって困るでしょう?」
「だから夕べ父上に手紙を書いたんですか?」
「国王陛下には報告しないと」
「だったらせめて父上の返事を待って……」
「手遅れになって妹さんが娼館にさらわれてしまったら? ジローさんが囚われてしまったら? アリーヌ姉さまが腹心を同行させてくれたし、なんとかなるわよ」
「腹心っていっても……。ネズミくんですよね? 彼?」
「あら、失礼ね。彼はハムスターのハムくんよ。とても頭が良くて人語だけでなく外の動物とも意思疎通ができる逸材なんだから!」
旅支度で軽装のフェリシーの膝の上には小さなケージがあった。餌と水と小さなハムスターが入っている。賢そうな澄んだ瞳のハムくんがケージの扉を開けてクロードに向かって小さな手を振った。
「え……⁉ まさか人語を話せたり……?」
思わず手を振り返したクロードが尋ねると、フェリシーが真面目な顔で答えた。
「するわけないじゃない。発声器官が違うんだから」
「そりゃそうですよね」
「クロードは随分荒唐無稽なことを考えるのね」
「いや、自分でケージの扉を開けられる上に人語が分かるハムくんだって十分荒唐無稽ですよ⁉」
アリーヌが用意してくれたのはグレゴワール伯爵家の家紋入りの馬車で、御者も護衛の騎士もつけてくれた。おかげで安心して旅ができる。
「お嬢さま、まだ先は長いので少しお休みになったらどうですか?」
「そうね。今はどのあたりかしら?」
「もうすぐバール男爵領に入ります」
「あら⁉ もしかしたらベルナデット様が住んでいらっしゃるところ?」
クロードは窓の外を見ながら「そういえば」と呟いた。
「バール男爵領とバリエ侯爵領は隣同士ですね。互いの領都も近いので交流が盛んだと聞いたことがあります」
さすが王子として教育されただけのことはある。
『縁』を通じて結ばれたベルナデット・バールとオレール・ダビはバール男爵領の領地管理人として領都に住んでいるはずだ。
「お嬢さま、目的地まであと一時間くらいです。仮眠を取ったほうがいいかもしれませんよ」
「そう? じゃあ、クロード、隣に来て? 肩を貸してくれない?」
「か、かた⁉ そんなお嬢さまの隣なんて恐れ多くて……」
「あら、顔が赤いわよ? クロードこそ熱があるんじゃない?」
「い、いや、大丈夫です。ではお言葉に甘えて……」
クロードが狭い馬車の中を移動してフェリシーの隣に座ると、彼女はハムくんのケージを向かいの座席に置き、揺れで落ちないように周囲を鞄や布で固定させた。
「ありがとう、クロード。クロードも良かったら寄りかかっていいからね?」
頬の赤味が抜けないクロードの肩にフェリシーは遠慮なく頭をのせる。クロードの体がカチーンと固まった。
「あ、やっぱり居心地悪い? クロードが疲れちゃうんだったらやっぱりいいわ」
「いえ! 大丈夫です。どうか遠慮なくお休みになってください!」
「本当に? なんだか緊張しているみたいだけど……」
「平気なんで。お嬢さまは遠慮せず眠ってください」
「そう? じゃ、お言葉に甘えて」
馬車の揺れとクロードの逞しい肩に身をゆだねながら、うとうととまどろむ。そんなフェリシーの寝顔をクロードが切なそうに見ていることには気がつかずに……。