お相手への条件
扉をノックして個室に入るとベルナデットは胡散臭そうにフェリシーを見つめた。
無遠慮な視線を感じながらも、フェリシーは無表情で持ってきた真っ赤な液体の入ったグラスをテーブルにそっと置く。
「ロゼラティーです」
「ロゼラティー? 聞いたことないわね」
「ハイビスカスに似た花のお茶です。栄養もあるので体や美容に良いとされています」
「へぇ、美容にも?」
「ビタミンCやクエン酸が豊富に含まれ消化促進に効果があり利尿作用もあるのでむくみにくくなります。眼精疲労にも効き、肌の調子も整えるとも言われています」
「へ……え?」
口調がモノトーンで突然早口になったのでベルナデットは呆気にとられたようにフェリシーを見つめた。
「よく分からなかったけど、ま、いいわ」
早速一口飲んでみたベルナデットが「あら甘酸っぱくて美味しい」と呟いた。
「それは良かったです。こちらの飲み物は当店からのサービスになります。お相手の方が遅れるそうなので、飲み物を楽しみながらお待ちください」
「なんですって⁉ 私を待たせるなんて何様のつもり⁉」
「お客様です。……ところでこちらが本日の昼食のメニューになります」
ベルナデットの怒りなどどこ吹く風と無視しつつ、テーブルに料理の内容が書かれた紙を広げるフェリシー。
「ねぇ、そんなことより! ねぇ、聞いてるの? ……まぁ、いいわ」
声を荒げても動じないフェリシーに諦めたようにベルナデットはメニューを覗きこむ。
「ビーフストロガノフって何? 食べたことないわ」
「ハーブと赤ワインに漬けこんだ牛肉と野菜を長時間煮込んだものです。サワークリームをかけて、刻んだパセリを混ぜた熱々のバターライスと一緒に召しあがっていただきます」
「あら? 美味しそうね。でも、高いんじゃないの? 私はお見合いしてやっているんだから当然お相手持ちでご馳走していただけるのよね?」
「いえ。それはお二人で話し合って決めてください。当店は関与いたしません」
「な、なななによ! 客にその言い方! 失礼じゃない⁉」
「私は敬語を使っていますし事実を述べているだけです。失礼には当たりません」
ベルナデットはぐっと言葉に詰まる。
「で、でも、いきなり割り勘なんてあり得なくない? お相手だって男性としてご馳走したいって思うものじゃなくて?」
「当店には関係のないことです。お二人で話し合ってください」
「だって! 私は花で例えるならまだ蕾、たった十七歳の乙女なのよ! 相手はもう四十代のおじさんでしょ⁉ 若い女性と食事できるだけでも有難いと思うべきじゃない?」
大層な剣幕だがフェリシーは顔色一つ変えない。
「お相手が四十代なのはあなたがそう希望されたからです。年齢と食事の料金を払うことに何の関係があるのでしょう?」
真剣に分からないというように首を傾げるフェリシー。ベルナデットの顔が真っ赤に染まった。
「し、失礼ね! そりゃ確かに私がそう希望したけど……それにはいろいろ事情があって……」
もごもごと口ごもるベルナデットにフェリシーが尋ねた。
「ご馳走してほしいなら、ご馳走してくださる方、と希望の条件に書けば良かったじゃありませんか?」
「そ、そんなの常識で考えて……!」
「常識? 私が以前住んでいた国では屋敷に入る前に靴を脱ぐのが常識でした。常識というのは個人の経験に左右されるもの。そんなものを主張されてはお相手の方も困るだけでしょう」
「うっ……」
ベルナデットは言葉に詰まった。
「ところでベルナデット・バール男爵令嬢」
「はいっ⁉」
フェリシーの声色が変わり、思わずベルナデットの背筋がまっすぐに伸びた。
「当店では偽名でお見合いを申し込んでも問題がないと掲示板に注意書きがあります。それなのにわざわざ本名で申し込まれた。そして条件は四十代の男性。それだけでしたね?」
「はい……それが何か問題なんですか?」
挑戦するように顎を上げるベルナデット。
「ご存じないようですが私も貴族です。グレゴワール伯爵家の四女です」
「え⁉」
ベルナデットの顔が青ざめた。自分より格上の貴族令嬢だと知り、これまでの言動を振り返ったのだ。
「……た、たいへんもうしわけありませ……」
立ち上がってお辞儀をするベルナデットにフェリシーは「座ってください」と簡潔に告げる。
「この店は身分を隠して経営しています。ここでは貴族の格など関係ありません。本題から逸れるので座ってください」
借りてきた猫のようにすっかり大人しくなったベルナデットはすとんと腰を下ろすと俯いて深くお辞儀をした。
「無礼な態度を取り、大変申し訳ありませんでした。まさか伯爵令嬢がこのような平民向けの店にいらっしゃるなんて……。一体どうして……?」
「本題に関係ない話はいたしません」
フェリシーはぴしりと釘をさす。
「ベルナデット様、私も貴族ですからあなたに婚約者がいらっしゃることは存じております」
ベルナデットの肩がびくりと揺れた。顔色が紙のように白くなる。
「……ど、どうして?」
「それはこちらの台詞です。店内の注意書きに既婚者、婚約者や恋人のいる方、遊び半分の方、真剣に成婚を目指していない方は申し込みができないとあります。当然、読まれましたよね?」
「は、はい……」
「婚約者がいながら何故こちらに申し込んだのか、明解な説明を求めます」
「そ、それは……その、いろいろ事情が……」
「注意書きをご覧になりましたね。ルール違反の申し込みにはどんな罰でも受ける覚悟が必要だと。事情を説明しなければ、バール男爵家及び王宮へ通報させていただきます」
「待って、それは困ります。両親や叔父様にご迷惑をおかけしてしまう……」
「…………」
フェリシーがじっとベルナデットの瞳をのぞきこむと、彼女は諦めたようにはぁっと息を吐いた。
「私の婚約者には他に好きな方がいます。実は内々のことですが両家の間で既に婚約は解消されているのです。私は結婚したくないので、酷い醜聞を起こせばまともな縁談なんてこなくなるし両親も諦めるかと……」
「なるほど。それでわざわざ派手な服装で不愉快な貴族令嬢をアピールしてご自身の悪評を広めようとなさったのですね?」
「はい、私は生涯独身で構わないと思っているので……」
「そうですか。お相手を四十代男性にした理由は?」
「それは……⁉ なんとなくです……特に理由はありません」
ベルナデットの頬が赤らんだ。
「…………」
フェリシーが黙ってベルナデットを見据える。
紫水晶のような瞳に見つめられてベルナデットは不思議と美しい彫像――女神の像と向かいあっているような錯覚に陥った。心に隠した欲など簡単に見透かされそうだとベルナデットの瞳が不安で揺れる。
「ご、ごめんなさい! 私が愚かでした。こんなふうに多くの皆様にご迷惑をおかけすることになって本当に申し訳ありません!」
詫びながら彼女の目に涙が滲んだ。
「泣く必要はありませんわ。これを使ってください。事情を伺っても?」
表情は変わらないが心なしかフェリシーの口調が柔らかくなった。彼女から手渡されたハンカチで目元を拭きながらベルナデットは話し始めた。
「私の母は後妻です。亡くなった先妻のバール男爵夫人には足の不自由な弟がおり、現在も当家に同居しております。私にとっては血のつながらない叔父ですが、幼い頃から忙しい両親に代わり兄や私の面倒をずっとみてくれていました」
フェリシーがわずかに頷いた。それに勇気を得たようにベルナデットは話し続ける。
「叔父は足が不自由で厄介者の自分は結婚などすべきでないと今でも独身のままバール男爵家で父の領地経営を手伝っております。叔父様はとてもお優しくて頭が良くて、父も助けられています。最近、父は叔父様を領地管理人に任命しました。来月にも領地に向かい王都を離れることになります」
「なるほど」
「……私は叔父様を愛しているんです。男性として」
「あら」
ベルナデットの頬がリンゴのように赤く染まり、微かだがフェリシーの瞳に光が灯った。