回復
「んっ、はっ、やめてくれ! ごめんなさいっ!」
嗚咽するように叫んでガバッと跳ね起きると、クロードは荒い息を吐きながら「夢か……」と裸の胸を押さえた。
久しぶりにエミリアに従属させられていた頃の夢を見た。
「目の前にするとまだ怖いか……。情けねえな」
悪夢のせいで酷く汗をかいたようだ。体中がべたべたで気持ち悪い。
クロードはグレゴワール伯爵家の使用人部屋に住んでいる。質素で狭いが個室で浴室もちゃんとついているのが有難い。
タオルを掴んで浴室に向かう。桶で水をくんで頭から浴びるとすっきりと目が覚めた。
「はぁ、またお嬢に助けられたな」
最初にフェリシーに救われたのはクロードが十五歳の頃。フェリシーは当時十三歳くらいだった。
「年下の女の子にすっかり助けられて……。自分では何もできなかった。父上に見捨てられて当然だ。ははっ」
自嘲しながら清潔でしわ一つなくアイロンがけされた着替えに腕を通す。
あれから五年。
グレゴワール伯爵家で暮らすようになってからもフェリシーには迷惑をかけっぱなしだった。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」
寝台でシーツにくるまり蹲るクロードを、フェリシーは無理に引っ張り出すようなことはしなかった。
丸まって気づいたら眠ってしまったクロードが目を覚ますと、寝台の脇に椅子を置いて読書をしているフェリシーと目が合った。
「目が覚めた?」
「…………」
黙ってまたシーツの中にくるまり蹲る。失礼な態度を取ったと思うが、フェリシーの表情は一向に変わらない。だまって本を読み続けている。
そんなことを何度か繰り返していたらクロードのお腹がぐぐぅと大きな音を立てた。
「お腹空いた? ちょっと待っててね」
フェリシーが持ってきた皿の上には謎めいた三角形の物体が三つ並んでいた。黒い紙のようなものまで貼りついている。
「なに? これ?」
生まれて初めて見る奇妙な形状に慎重にならざるを得ない。
「おにぎり。美味しいのよ。騙されたと思って食べてみなさい」
「ど、どうやって食べるんだよ?」
フェリシーは能面のような顔のまま三角形の物体を鷲掴みにするとむしゃむしゃと食べ始めた。ほかほかの湯気が立ちのぼり美味しそうな魚の匂いも漂ってくる。
ごくりと喉を鳴らすとクロードも手を伸ばしておにぎりと呼ばれる物体を食べ始めた。
「…っ、うまっ、おいし……」
真っ白い小粒のコメはツヤツヤ光っていて歯で押しつぶした時の食感が堪らない。コメの微かな甘みと中に入っているピンク色の魚のしょっぱさがぴったり調和していて、食べるのが止まらなくなった。
気がつくと二個のおにぎりを完食したクロードに「はい、これ」とフェリシーが水のグラスを差し出した。
喉が渇いていることにも気がつかなかった。一気にぐいと水を飲み干すと体が満足したと言わんばかりに落ち着いた。
「お、おいしかった……」
呆然と呟くと「良かったです」とニコリともせずにフェリシーは食器を下げようとする。
(気を悪くさせてしまったかもしれない……怒られる⁉)
パニックになったクロードは床に這いつくばり「ごめんなさいっ、申し訳ありません!」と叫んだ。
予想外の行動だったがフェリシーの顔色は変わらない。
「止めてください。私に謝る必要ありません」
「で、でも、怒らないで……。ぶたないで」
「落ち着いて聞いてください。私は絶対にあなたに危害を加えません。大きな声で怒鳴ったり、叱りつけたりすることもありません」
静かなフェリシーの声がクロードの芯に届いた気がした。思わず視線を上げて彼女の顔をまっすぐに見つめた。が、以前エミリアの顔を見ただけで、鞭で打たれたこともあり慌てて目を伏せる。
「大丈夫。目を逸らす必要はありません」
穏やかな落ち着いた声と話し方が体の奥深くにしみこんでいく。クロードははぁっと息を吐いた。
「あなたはあんな暴力的な罰を受けるような悪いことは一切していません」
「で、でも、僕のせいでエミリア様が怪我を……」
「あなたのせいで事故が起こったわけではありません。あなたが責任を感じる必要はないのです」
クロードが心的外傷を克服するためにフェリシーは同じ言葉を何百回と繰り返さないといけなかった。
心と体の傷が癒されていく過程は単純なものではない。しかし、フェリシーやグレゴワール伯爵家の人々はクロードが自信と健康を取り戻すために根気強く回復の手助けをしてくれた。
「特にお嬢にはもう頭が上がらねーな」
そう呟くとクロードは鏡に映った自分を見る。
あの頃に比べたら圧倒的に背が伸び、鍛えているので筋肉もついた。成長し大人になっていろいろなことができるようになった。
(もう大丈夫だ。俺は強くなった。簡単に傷つけられたりしない)
自分に何度も言い聞かせる。
国王が第三王子をグレゴワール伯爵家に住まわせていることで多くの憶測を呼んでいることは知っている。
なかにはクロードがエミリア・マルゴワール公爵令嬢との婚約を破棄しフェリシーと結婚するつもりだと信じている者もいる。
(莫迦げてる。お嬢が俺を男として見るはずもないのに……)
ずきっと胸が痛んだ。狂おしいほどの想いが体に渦巻いている。
フェリシーには人の嘘や隠し事が分かる。
だから切なすぎる恋心を冗談のように軽くフェリシーに伝えることが癖になった。
隠そうとするときっと本気だとバレてしまうから。
本気だとバレたらきっと傍に置いてもらえなくなるから。
彼女には既に心に決めた人がいるのだ。
自分の気持ちが報われることがないのは重々承知している。
「お嬢はその人を見つけるために料理屋をやってるんだからな。俺はただお嬢の幸せのために応援するだけだ!」
そう自分に言い聞かせるとクロードは部屋の扉を開けてフェリシーの元に向かった。