クロードの過去
クロードを呼び止めたのはいかにも高級そうな真紅のドレスを纏った美女だった。
「あら、クロード様。お久しぶりです。まさかこんなところでお会いするとは思ってもみませんでしたわ」
「……お元気そうで」
珍しく肩を丸め、目を伏せながらクロードが答えた。その瞳には生気がなく顔も青ざめている。
彼を庇うように立つフェリシーの表情筋は相変わらず無活動だが、ピリピリと猫が逆毛を立てているような空気を放っていた。
「えーっと、グレゴワール伯爵家のご令嬢、だったかしら? 人の婚約者を奪って奴隷としてこき使っている、なんて酷い評判を耳にしましたわよ」
クロードの瞳が一瞬怒りを帯びる。しかし、女性と目が合うのを恐れるように再び目を逸らした。
「それにしてもクロード様。覚えていらっしゃる? あなたのせいでわたくし、足に治らない怪我を負いましたの」
びくっとクロードの体が大きく震えた。
「あなたのせいで私の人生は台無しになってしまったのよ。どうしてくださるのかしら? 使用人として仕えるならこんな小娘じゃなくて、わたくしにするべきではないの?」
「それは……大変申し訳ないと……」
しぼりだすように声を出しながら頭を下げようとするクロードをフェリシーは止めた。
「クロード、謝る必要はありません。謝るのはエミリア様のほうです」
「なんですって⁉」
エミリアと呼ばれた美女の額に怒りの青筋が浮かんだ。
「エミリア・マルゴワール公爵令嬢。お忘れですか? あなたとクロードは幼い頃に決められた婚約者でした。しかし子供の頃、クロードに誘われて遊びにいった先で事故に巻き込まれ、あなたは足に重傷を負った。それはお気の毒です。しかし、遊びに誘ったクロードのせいだと彼を責め苛み、暴力を振るい、何年にもわたり身体的精神的虐待を繰り返した。彼を奴隷にしていたのはあなたのほうです!」
「なっ⁉ 相変わらず口の減らない小娘ね! あんたのせいでわたくしたちは婚約を解消しなくてはならなくなったのよ!」
フェリシーの表情筋は相変わらずピクリとも動かない。しかし、瞳は怒りの炎で揺れていた。
「どれほど酷い扱いを受けてもクロードはあなたから逃げ出せなかった。拷問のように責められ続け心を壊されたからです! だから私は国王陛下に訴えた。それだけのこと。国王陛下は怪我の慰謝料も含めて莫大な損害賠償金をマルゴワール公爵家にお支払いしました。それにご覧なさい。今は問題なく歩けるようになっているではないですか? 一生歩けないと仰っていましたのにね!」
「婚約解消されて公爵令嬢の名に大きな傷がついたのよ。損害賠償は当然でしょう! それに怪我は私が努力して必死に治したの! それが悪いっていうの⁉」
すんっとした表情でフェリシーは首を横に振った。
「全然悪くないです。おめでとうございます。でしたら、今さっきクロードに治らない怪我がどうとか言っていたのはどうしてですか?」
「うっ、それは彼のせいで怪我をした事実は変わらないのですから……」
「はいっ! それです! 大きな間違いです。そもそも怪我をしたのはクロードのせいではありませんっ! 彼は遊びに誘っただけ! 彼はなんにも悪くないです!」
「だ、だって彼が誘わなかったらわたくしは怪我をしなかったのよ」
「あなたが遊びに行かなければ怪我を負わなかったでしょうね」
「そ、それは事故が起こるなんて分からなかったし…」
「はいっ! そうですね! クロードだって同じです! 怪我をすると分かっていて遊びに誘ったわけじゃない! まさか事故が起こるなんて思わなかった。不運でしたが、彼が悪かったわけじゃないんですよ! 五年前にもそう言いましたよね? 覚えていないんですか? 記憶力が悪いんですか?」
「なっ……」
わなわなとエミリアが震えだす。
「エミリアお嬢さま……。どうかその辺で……。クロード殿下には近づいてはいけないと接近禁止命令が出されているのをお忘れですか?」
どうやって止めようと心配そうに見守っていたエミリアの従者がこそこそと彼女の耳元で囁いた。
*****
五年ほど前のことだ。
長姉のオルガ・グレゴワールが王族を守る近衛騎士団の団長代行に任命され、フェリシーはオルガに頼まれて王宮の騎士団訓練所に毎日差し入れを届けていた。
フェリシーが差し入れを届け終わり、出口に向かって歩いているところに甲高い不穏な声が聞こえてきた。
『……ちょっと、何これ⁉ わたくしが欲しいのはこんな花ではなくってよ!』
フェリシーと同じ年くらいの男女が目立たない回廊付近で言い争っている。少年は珍しい黒髪に赤い瞳。少女のほうは車輪のついた椅子……多分最近発明された『車いす』という乗り物に座っている。手には杖も持っているようだ。
『でも、今はこれくらいしか庭園に咲いていなくて……』
『わたくしはあなたのせいでもう歩けないんだから、花が欲しいとわたくしが言ったら、わたくしが喜ぶ花を見つけるまで歩き続けなさいよ!』
そう叫んだ少女は杖で少年を激しく殴り始めた。彼は諦めたように黙って打たれるがままになっている。容赦なく打ち続けるので杖の先が一瞬少年の目をかすめた。
『なにをしているのですか? 危ないから止めてください』
思わずフェリシーが女の子の杖をつかんで止めると、二人が驚いて息をのんだ。
『全然気配がしなかった……。どこから現れたの? ……いえ、そんなことより邪魔しないでちょうだい! 彼は当然の報いを受けているだけなんだから!』
『暴力は止めてください。それに彼は王族ですよね? 不敬罪に当たりませんか?』
現在の国王と息子たちは全員黒髪に赤い瞳だと姉のオルガから聞いている。
『国王陛下に見放された無能の第三王子よ! そのくせ婚約者で公爵令嬢の私に治らない大怪我を負わせたのよ! お詫びに好きにしていいって国王陛下からも言ってもらったんだから!』
自慢げに鼻をツンと上に向ける公爵令嬢は好きになれないとすぐにフェリシーは思った。
事故の経緯を聞き、少年は悪くないと確信を持ったフェリシーは理路整然とエミリアを論破した。
エミリアは怒りのあまり言葉を失って体を震わせているが、それよりも虚ろな目をして床に座り込んでいる男の子のほうが気になる。
『こっちに来て。国王陛下はあなたがどんな扱いを受けているのか知らないのかもしれない。今から会いにいきましょう』
先代と当代の国王は優秀で、その手腕で国を繁栄させたと評判だが滅多に人前に姿を現さない、謎の存在だと言われている。
(でも、自分の息子のことなんだから……)
フェリシーが少年の手を引っ張って立ち上がらせると『え?』と彼がぽかんと口を開けた。