たったひとつの大嫌い
「わたし、ずっとあなたのことが嫌いでした。付き合ってください」
……これを聞いたとき僕は三重の意味で驚いた。
季節は春。
僕、神坂忠は高校二年生になったばかり。
新しい年度を迎えて心機一転がんばろう!
……なんて気分でもなく。
ただ、ぼうっと。
死なない程度に生きていた。
そんな、ありふれた四月に事件は起こったのだ。
その日、僕はひとりの女の子に呼び出された。
場所は、とある公園。
始業式が終わって帰ろうとした僕に、彼女が言った。
「このあと指定した公園まで来てください。告白しますので」
……正直、僕は怖かった。
そもそも彼女とは、きょうクラス替えで知り合ったばかり。
一年生のときに何回か学校ですれ違ったことはあったと思うけど、少なくとも僕にそんな記憶はない。
進級して新しいクラスのみんなに自己紹介をするときも、僕は無難に「神坂忠です。よろしくお願いします」と言っただけ。
僕は顔も平凡で成績も普通。スポーツができるわけでもないし、人付き合いは最低限。
どこにも告白される要素がない。
のこのこ公園まで顔を出したら、怪しい商売でも紹介されるのではないだろうか。
しかし彼女を無視するのも心苦しい。
彼女は自己紹介のとき、みんなにこう言っていた。
「春村千流です。わたしは、みなさんのことが好きです」
もちろんみんなは、彼女……春村さんの冗談と捉えて優しく笑っていたけれど。
どうしてか僕は、その言葉は彼女の本心なんじゃないかと思った。
もし彼女が純真な思いから僕を呼び出し、僕がそれに応じなかったら。
僕は最低な人間で間違いない。
それで僕は、彼女の指定する公園に向かった。
すでに春村さんは公園に来ており、そこに植えられた桜のそばにたたずんでいた。
公園にいたのは彼女だけで、ほかに人影は見当たらなかった。
「春村さん」
僕が名前を呼ぶと、彼女は振り返った。
改めて、その姿が目に入る。
つやのある髪に、薄赤い桜の花びらがすべっていく。
肩まで伸ばした黒髪のすきまから、小ぶりの耳がわずかにのぞく。
細く整った眉の下で、長いまつげが瞳をおおう。
鼻筋は落ち着きのある曲線をえがき、淡い桃色のくちびるがその下に続いている。
顔全体の輪郭が、やや丸みを帯びながら。
わずかに紅潮するほっぺたを囲む。
……僕はそのとき、初めて春村さんをきれいと思った。
一対一で同年代の女の子と向かい合うのも小学校低学年のとき以来だから、多少の補正はあるのだろうけど。
ともあれ僕に声をかけられた春村さんは、大きな瞳を少し細め、ほほえんだ。
「神坂くん、来てくれてありがとう」
しっとりとした声が両耳に届く。
笑顔を作りながら、僕は言葉を継ぐ。
「僕も気になったから……それで春村さん。僕を呼び出したのって」
「言ったとおり告白です。学校だとはずかしくて……人のほとんど来ない、この公園に来てもらったんです。聞いてくれますか」
「うん」
このとき風が吹いて、彼女の制服と髪を揺らした。
すでに地面に落ちていた桜の花びらが宙に浮き、僕らのあいだを通り過ぎた。
僕は、どきどきした。
春村さんの目はうるみ、そのほっぺたは赤みを増している。
互いの顔が近づく。
彼女から桜のようなにおいがして、僕の鼻孔の奥を刺す。
こういう経験のない僕にも分かった。これは、もはや怪しい商売の話ではない。
彼女は本気で僕に……告白しようとしている。
僕の心臓が、ばくばく鳴った。
あたりに大音量が響いているんじゃないかと心配になるくらいに。
次の瞬間。
彼女の淡い桃色のくちびるが動いた。
「わたし、ずっとあなたのことが嫌いでした。付き合ってください」
これが、僕……神坂忠が高校二年生の春に遭遇した事件の始まりだった。
「ん……? は……? え……?」
意味が分からず、そんな言葉が口をついて出る。
いっそのこと怪しい商売の話でもされていたほうが、まだ理解できた。
目の前の女の子……春村千流は前かがみに僕のほうに身を乗り出し。
上目づかいに顔を赤らめながら、自分の左右の手をぎゅっとからみ合わせていた。
もしかして聞き違いかと思った僕は、震える声で春村さんに頼んでみる。
「あの、よかったら。もう一度いい?」
「わたし、ずっとあなたのことが嫌いでした。付き合ってください」
聞き違いじゃない!
どういうこと……?
本気ではずかしそうな彼女の様子を見る限り本心ではあるのだろう。
いや、それでも春村さんの言葉には、おかしいところが三つある。
三重の意味での驚き……僕はそれを頭のなかで整理する。
対する彼女は僕から少し顔を離し、うつむき加減に言う。
「それで、返事は……」
「春村さん」
僕は深呼吸をして、体内の空気を入れ換え、気持ちを落ち着ける。
「ちょっと僕、混乱してるんだけど三つ聞いていい?」
「なにを知りたいんです。年収ですか、家族構成ですか、前科持ちかどうかですか」
「どれも違うよ。春村さん、告白って言ったよね」
「はい」
「普通、告白って、その……まあ僕も漫画とかの知識しかないけど……あれって『好きだから付き合いたい』という気持ちを意中の人に打ち明けるものだよね。でも春村さんは、僕のこと『好き』じゃなくて『嫌い』って」
「そうですよ、嫌いですよ。それと、わたしは神坂くんに『嫌いでした』と伝えましたが、『それは過去形で今は好き』という意味でもありません」
「……それが分からない。嫌いって思うのは別にいいんだけど、なんでわざわざ僕に伝えたの? これが質問のひとつめ。いや、おこってるわけじゃなくて、普通だったらそういう気持ちって好意以上に心のなかにしまっておくものだと思うから」
「実は簡単な話です」
そのとき彼女はあごを上げ、真正面から僕を見た。
「わたしがこの世で嫌いになったのが、唯一……神坂くんだからです」
風に揺れる黒髪を押さえつつ彼女は続ける。
「覚えていますか、わたしが自己紹介で言ったこと」
「確か……『わたしは、みなさんのことが好きです』だっけ」
「その言葉どおり、わたしはこの世に生きる全てのものが好きです。人だけじゃありません。人以外の動植物……微生物……果ては、ただの土くれに至るまで」
そんな彼女のしっとりとした声を聞きながら、僕は背筋に冷や汗がつたうのを感じていた。
だいたい……堂々と愛を語るやつは高確率で、ろくでもない。
逃げようかとも本能的に思った。でも、できなかった。
それが春村千流の本心だと僕の心がさけんでやまなかったから。
彼女は続ける。
「なのに、好きになれない存在を初めて見つけてしまいました。それが神坂くんです。とくに理由は、ありません。『一目ぼれ』って知ってますよね。それの逆バージョンと思ってください。わたしは神坂くんを一目見て、嫌悪の底に落ちました。神坂くんはわたしの特別です。この気持ち、伝えないまま死ねません!」
「いつから? 春村さん、僕のこと『ずっと』嫌いだったとも言ったけど……僕らって、きょうクラス替えで知り合ったばかりだよね」
「神坂くんのことは入学式のときにちらりと見てから、わたしが一方的に目を付けていました。あ、もちろんストーカー行為なんてしてません。たまにすれ違ったときに不自然にならない程度に顔を見るくらいでした。ずっと気になってたんです。でも今までは告白する勇気がなくて……だけど今回せっかくクラスが一緒になったから『心機一転がんばろう!』と思って」
そう言って春村さんは、自分の小さなこぶしふたつに、ぐっと力を込めるのだった。
「それで神坂くん、聞きたいこと、あとひとつはなんですか」
「春村さんが僕に嫌いと伝えた理由も、それがいつからかも分かったけど……なんでそれで『付き合う』ことになるの? 僕だったら嫌いな人と付き合うなんて嫌だけど」
「そうですか?」
彼女は少し目を閉じて考える。
「わたしにとって好きな人はたくさんいますが、嫌いな人は神坂くんだけ。だったらそんな特別な人と一緒になりたいと思いません?」
「分かるような、分からないような」
「神坂くんは、わたしと付き合いたいですか。最初は、お試しでいいです」
「僕は」
再び心臓が高鳴り始める。
目の前の彼女は僕に嫌悪をいだき、付き合いたいと思っている。
対して僕は彼女をどう思っているのか。
桜の花びらが舞うなかにたたずむ春村さんは、きれいにみえる。
その考えを全て理解できるわけではないけれど、まっすぐに気持ちを伝えてくれたのは嬉しかった。
彼女は僕を嫌いと言う。でも態度からして僕をさけているような感じは、しない。
きっとそれは誰にも理解されない気持ち。
そんな春村さんの「特別」を僕は無下にしていいのか。
いや、そういうのは、ずるい。
そもそも、僕はどうしたいのか。
死なない程度に生きること……それが僕の幸せだ。
その最低限が満たされている以上、誰かと特別に付き合う必要もない。
僕にとって春村さんは、きょう知り合ったばかりの女の子で。
正直、明確な好意も嫌悪も……それどころか無関心さえ向けられない。
ただ、彼女の気持ちを聞いて、「どちらかと言えば好き」と思い始めていることも事実。
けれどそんな中途半端な気持ちで付き合っていいのか……。
気付けば僕は、そういったことを口に出して。
春村さんに伝えていた。
彼女は、ほっぺたに小さなえくぼを作って答える。
「直接、言ってくれてありがとう、神坂くん。もちろん、その気持ちで、わたしは嬉しいです。中途半端に好きな状態で付き合うのが駄目なら、嫌悪で付き合おうとするわたしのほうが、もっと駄目ですよ」
そして軽く腕を組んで、隣の桜の木を見る。
「最初から百パーセントの気持ちなんてありえません。小さなきっかけから小さなものを積み上げて、互いに互いを少しずつ好きになったり嫌いになったりすればいいんだと思います」
僕は、彼女の言葉にはっとする。
「そっか……お試しってそういう意味。だったら、ちょっと変な関係だけど春村さんと」
「嬉しい……」
ここで春村さんは、腕をほどいて手を胸に当てた。
ほてった彼女……いや僕らの顔の前に桜の花びらがひとつ舞った。
「じゃあ正式に」
「いや待った」
僕は右手をわずかに挙げた。
「このままだと、ちょっとずるい。春村さんじゃなくて……僕が。だって春村さんはちゃんと気持ちを伝えたのに、僕のほうがその気持ちにかこつけて流されるまま付き合うというのは卑怯な気がする」
「神坂くん、誠実ですね」
「いや……僕のモットーは『死なない程度に生きること』なんだ。無難な道を……波風が立たないように動いているだけかもしれない。でも、もしかしたらそれ以外の気持ちもあるかもしれない。だから伝えるよ」
改めて僕と目を合わせる彼女を見ながら、僕は高鳴る鼓動のなかで。
伝えた。
「僕も春村さんと付き合って、僕らがこれからどうなっていくかを知りたい」
「はい! ……では手始めに互いを下の名前で呼び合いませんか、忠くん。あ、でもわたしのほうは『さん』を付けないでください」
「分かった。春村さんの名前は千流……だったよね。でも、はるむ……千流」
「なんですか、忠くん」
「もっと砕けた感じで話していいよ。同じクラスなんだし」
「いえ、わたしは敬語を続けます。やっぱり忠くんのこと嫌いですので」
「そっか」
……こうして僕らは公園からそれぞれの家に帰り、次の日から奇妙な付き合いを始めることになった。
今、思い返すと、本当に僕があんなことを言ったのかと不思議に感じる。
いつもだったら彼女の話を適当に流して、すぐに離れていたように思うけれど。
もしかして僕は彼女に「一目ぼれ」をしたのだろうか。
そういう経験がないから、これが「一目ぼれ」と気付いていないだけなのだろうか。
なんにせよ僕も僕の気持ちを伝えたことは事実だ。
僕が嫌いだから付き合いたいという女の子、春村千流に。
あれから……。
僕はどんどん彼女を好きになって。
彼女は僕をどんどん嫌いになった。
僕らはそういう関係を深めていった。
でも千流は僕を嫌いになるほどに、僕との付き合いをより大切にするのだった。
それが幸せだと彼女は言った。
そして僕の「好き」が「大好き」になって。
彼女の「嫌い」が「大嫌い」になったとき。
僕らは結ばれた。
あの四月の出来事……僕らにとっての事件が起こらなければ。
けっして成立しなかった関係性。
僕らは、もう、あのころの場所を離れ。
遠いところに暮らすようになったけれど。
今も四月になるとあの公園で桜の花びらが舞って。
僕らの知らない誰かの、誰にも理解されない気持ちを。
見届けているのだろうか。
(わたし、あなたのことが大嫌いになりました。こんな気持ちは、今まで持ったことがありません。ほかのどんな気持ちよりも特別で、幸せです)
それを聞いたみんなは「大好き」の裏返しだと思ったみたいだけど。
僕は、それが本当の「大嫌い」であることを知っている。
季節は春……。
その「大嫌い」に、「大好き」を。