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花影と雪

作者: 風待紫翠

 それは、とても寒い日だった。

 屋敷は朝から宴会騒ぎで、民たちの間には祝いの言葉が飛び交っていた。

 姫はこれ以上ない最上の着物に袖を通し、何人ものお付きのものを連れて、父君と姉君たちに最後の挨拶を交わした。赤い着物は、降り始めた雪にひどく映えた。

 そろそろ屋敷を出ようと戸へ向かったとき、そこに置かれていたものを見つけた。

 鮮やかな椿は、姫の着物と同じくらいに鮮やかで、同じくらいに美しかった。姫はぼんやりと、数日前に屋敷の近くの丘で椿が花開こうとしているのを見たのを思い出した。

 なんだかおかしくて、笑ってしまいそうになる。やがて、侍女のものが呼びにきたので、椿を名残惜しそうに見つめてから、豪奢な車へと向かって歩き出した。

「あれは、誰。なんだかきらきらしていてとっても綺麗だね」

 町をゆっくりと進んでいく車からは、民の様子がよく眺められる。たくさんの人々が祝いの言葉をかけ、手を振って笑っていた。

 幼子が車を見て目を丸くして、母に尋ねる。

「あの車には、姫様が乗っていらっしゃるのよ」

 母は車に向かい手を振りながら、笑顔で答えた。

「姫様は、どこへ行くの」

「姫様は、とても遠いところへ行くのよ」

 車から覗いていた姫は、不思議そうにする幼子と目が合った。

「姫様は、どうして遠いところへ行くの」

 幼子はまたも母に尋ねた。

「幸せにおなりに行くのよ」

 車はゆっくりと進んでゆく。姫は幼子から目を逸らした。

 やがて車は、町を抜けて森の中へと入って行った。

「姫様、わたくしたちがお供できるのは、ここまででございます」

 森に続く道はだんだんと細く険しくなってゆき、これ以上は車が通れそうになかった。

 幼い頃から仕えてくれていた侍女たちが揃って頭を下げるのを見て、姫は言った。

「見て、この着物」

 侍女たちは頭を上げると、姫の方を見つめた。

「私がこれまでに着た中で、一番素晴らしいわ」

 侍女たちの返事を待つでもなく、続けた。

「こんなに素晴らしい衣装が着られるのだもの、私は今この国で一番幸せだわ」

 姫は微笑んだ。侍女たちの間に漂う沈黙を最初に壊したのは、姫に一番長く使えていた侍女だった。

「ごもっともでございます。姫様は幸せにおなりに行かれるのです」

 その返事に満足して、姫は頷いた。

 侍女たちはまたもそろって頭を下げた後、車と共に来た道を戻って行った。

 姫はただ一人、先へ続く道を歩いていた。辺りはすっかり暗くなり、鳥や獣の声が響く。

 険しい道の終わりを、美しい着物を引きずりながらなんとか乗り越えた先には、切り立った崖があった。姫君は崖の端に進んで行くと、遥か下を見下ろした。真っ暗な湖が広がっていた。

 顔を撫でた冷たい風に、ふと姫は思いついて空を見上げた。そこには無数の星と、眩いほどの満月が浮かんでいた。小さくついた息は、寒さと暗い夜空のせいで真っ白だった。

 姫は満月を見て、幸せそうに微笑んだ。

 思えば、月はずっとそばにあった。今この瞬間も見守ってくれている。


 それは、薄が生い茂る頃だった。

 数か月後に控えた祝いの日へ向けて、着々と準備が進められていた。

 姫は、身の回りが贅沢で素晴らしいものに塗り替えられてゆくのを見ていると、気分も晴れるようで、好ましく感じていた。

 ようやく仕上がった赤い着物に袖を通して、鏡を覗いた。侍女たちからの賞賛の言葉を受けて、満足そうに微笑む。鏡の隣には最近お気に入りの花瓶に、菊の花が活けられていた。

 姫はいつものように戸に視線をやり、わざとらしくため息をついてみせた。

「あの人はまた来ないのね。全く、私の付き人だというのに酷いものだわ」

 彼もまた、侍女たちと同じように賞賛の言葉をくれるだろうと思っていたのに。姫は少し悔しく思った。

 髪を梳かしていた一人の侍女が答えた。

「彼はもう貴女の付き人ではありません」

 姫は、思わず驚いてすぐに返事が返せなかった。

「そうだったわ」

 やっとの思いで絞り出した言葉に、自分でも悲しくなる。そうだ、彼はもう傍にはいないのだ。私が呼んでも答えてはくれないのだ。

 やがて屋敷を出て行く姫に、お付きのものを減らしておくようにと父君が命じたのは数日前だった。

 姫の元からは、幼い頃から仕えてくれていた数人の侍女を除いて、皆が暇を出された。

 彼は、一の姫たる姉君の付き人になったという。

 姫は開いていた戸から、丘を覗き見る。そこには予想通りたくさんの菊の花が並び、更けはじめた夜空には美しい満月が浮かんでいたが、期待していたものはなかった。

 姫は、なんだか大きな喪失を覚えてしまって、静かに俯いた。先ほどまで気分を晴れやかにしていた鮮やかな赤は、もう今となっては慰めにならない気がした。


 それは、虫の声が響く頃だった。

 姫は、二年後に控えた自分の運命を嘆き、丘の草花に囲まれて、一人膝を抱えていた。

 満月の日は、苦しくなる。かつて愛したその月は、今となっては自分を縛り付ける重い枷でもあった。

 ふと、誰かが近づいてくるのに気が付いて、姫は息をひそめた。これでも一応姫君なのだ。真夜中に一人で屋敷を抜け出したと発覚すれば、お付きの者たちが何を言われてしまうことか、と姫はひどく緊張しながら草陰に身を隠し、音のした方をそっと眺めた。

 その人影が誰であるかを認めると、姫は安堵の息をついた。

「ああ、驚いた。お前だったの」

 緊張とは異なる意味で声が震えそうになる。先ほどまで泣いていたことを、この男にだけは知られたくなかった。

「こんな遅くにどうしたの。もう皆とっくに寝静まっていて、こうして歩き回るのなんて私とお前くらいだわ」

 辺りには人の声も明かりもない。ただ真っ暗な空が広がり、ぞっとするような明るすぎる月が浮かんでいるだけだった。

 微笑んでみせようとして、そしてそれは出来そうもなかった。姫は男の目線を追って、自分の格好に気が付いた。

 誰にも会わないだろうと思っていたから、酷い恰好だ。心を占める思いがあまりに大きくて気が付かなかったけれど、よく考えれば夏とはいえ冷える格好だった。

 男は何も言わずに近づいて、自分が着ていた羽織を姫にかけた。姫は自分を包んだ暖かなものに気が付いて、そっと目を逸らした。

 それから何を言うべきかしばし逡巡した後、

「ありがとう」

 と一言だけ絞り出した。

 本当に、偶然出会っただけなのかもしれない、と姫は感じた。彼もこの丘の拠り所にしているのではないか、なんて一瞬でも思ってしまったことがなんだか虚しく思えた。どうしようもない寂しさに、姫は思わず笑ってしまいそうになった。

 けれど残念なことに、顔に出てしまったのは笑いではなく涙だった。

 姫は心配そうにのぞき込もうとする顔を避けて、伸ばされた腕を振りほどいた。知られてはならない、と思った。

 後ずさり、そして踏み外した。肩に掛けてくれた着物は姫には長すぎて、その裾に足を取られた。男は姫が倒れ込むより早く腰を抱えた。

 避けていたその目線と思いきりぶつかってしまって、姫は零れかけた嗚咽を、言葉を、飲み込み切れなかった。

 男は姫を抱きしめると、落ち着かせようと背中を撫でた。ああ、私はこの手を知っている、と姫は思った。幼い頃に、まだその本当の苦しみなんて知らないでいられた頃に、それでも苦しくて、悔しくて、誰かに一緒に悲しんでほしくて、私はこうしてこの丘に一人でいたのだ。

 その時も慰めてくれたのは彼だった。当たり前だ。他の誰も、私には気づかないのだから。だからこそ、私はとても嬉しかったのだ——幼い二人が必死に手を伸ばし合ったって、何も変わらないのに。

 あまりの懐かしさに、その苦しさに、姫は今度こそそのまま倒れ込んだ。男の方へ思いっきり身体を預けると、彼はしばらくその重さを受け止めようとして、そして姫がそれを望んでいないことに気づくと、そのまま一緒に地面の上に転がった。

「ああ、おかしい。私もう何もかもおかしいわ」

 今度こそ笑うことができたようだったけれど、その笑い声はどこか乾いていた。

 涼しい風が過ぎ去り、姫と男が倒れ込んだ草花から、一斉に蛍が飛び去った。

「ねえ、見て。なんて綺麗なの。……私の知らない美しいものは、この世界にまだたくさん溢れているのでしょうね」

 姫が何を言っても、男はとうとう最後まで何も言わなかった。

「良いわ。それでもお前、来てくれたもの」

 姫はもう充分だと思った。私の人生に価値があったとしたら、それは彼と過ごした時間だ。だったらやっぱり、あれは間違いなく運命と呼ぶべきものだったのだ。

 私が二度とここへ戻ってこられない遠い遠い場所へ行っても、彼は私を想い続けてくれると姫は確信していた。


 それは、毎日のように雨が降り続く頃だった。

 姫は屋敷から、丘が雨で濡れて行くのを眺めていた。

 なんとなく気分が沈むのは、この季節のせいだけではない。彼のせいだと姫は思った。彼に直接問い詰めようとしても、どうしてかなかなか話す機会に恵まれない。ほんの少し前までは、わざわざ呼ぶまでもなく、必要としたその瞬間に彼は私の側に来てくれたのに。

 普通であればこの位の年齢になると、皆きちんと大人として扱われるようになり、ある程度自分で行動するようになると言う。姫は自分がそうあれない理由を知っていたし、その自由と引き換えに自分が姫君と呼ばれ生活の保障のされていることは分かっていた。

 しかし、自身がこうしてほとんど屋敷とその周りしか知らずに閉じ込められて過ごす反面、彼は今までと変わりなく暮らしているのだと思うと、なんだか置いていかれてしまったような、変な焦りを覚えた。

 それだけならまだしも、彼にはここ数日明らかに避けられているように思えた。

 とはいえ同じ屋敷で暮らしているのだ。父君に呼ばれたりして顔を合わせることはあった。そんなとき、姫は以前と同じ微笑みと共に彼に話しかけるのに、彼は以前よりずっと素っ気ないのだった。

 変わらず雨が降り続いていたある朝、姫は屋敷から丘を眺める背中を見つけた。姫はなるべく足音を立てないように近づくと、その背中を軽く押す。

「やっと捕まえたわ」

 姫は喜びで満面の笑顔を彼に向けた。

「私、一人で寂しかったのよ。だってお前くらいだもの。私とどうでもいいおしゃべりをしてくれるのは」

 それから、響く雨音につられて、彼が眺めていた丘に視線を向けた。丘を満開の花が埋め尽くしていた暖かな日を思い出しながら、姫は言った。

「酷い雨ね。花は落ちたでしょうね」

 しばらく二人で丘を眺めていたが、彼はやがて口を開いた。

「また咲くよ」

「そうね、でもまた暖かくなるまで待たないと」

「冬にも花は咲く」

 彼が言わんとしていることになんとなく察しがついて、姫は小さく頷いた。

「お前、最近私を避けているでしょう」

 姫は、視線は雨で濡れた丘から逸らさずに、ようやくその本題を切り出した。

「別に、避けていたのではありません」

 彼がまた他人行儀な口調で返したのを聞いて、思わずため息をついた。今度はしっかり彼を見つめると、もう一度訪ねた。

「まるで父君や姉君と話しているときのようだわ。お前が今話しているのは、私なのよ。……お前までそんなに他人行儀にしたら、私は一体誰とおしゃべりができるの」

 彼は自分に向けられた視線から目を逸らすことはなかった。

「姫様」

 思い返せば彼が自分をそう呼んだのは、これが初めてだった。姫は非難の声をあげた。

「お前、私に叱られたいの」

 姫が声を荒げても、彼は澄ました顔だった。

「大人になった男女が、馴れ馴れしくしていてはいけないのです」

「……そんな、だからってお前は、私の名をもう呼んではくれないというの」

 姫は自分で言った言葉にぞっとした。彼が呼んでくれなくなってしまえば、もう自分の名を呼んでくれる人は、この世に一人としていなくなってしまう。

「名には力があるものです。軽々しく呼び合ってはいけないと」

 彼のその言い方で、姫は彼が誰かに釘を刺されたのであろうことが何となく伝わった。

「知っているわ。大人は夫婦でもない限り異性の名を呼びはしないと、私も教わったわ」

「姫様は数日前に、正式に大人の女性だと認められたのですから」

 なるほど、確かに彼が自分に寄らなくなってきたのは、その辺りからだろうと思った。

 姫は頭の中では納得したが、心では全く納得できなかった。だから、言ってやったのだ。

「分かったわ。お前、私の名を二度と呼ばないというのね」

 彼は姫の問いに頷いて答えた。

「だったら、呼ばなくて良いから、一生覚えていなさい。……お前も忘れてしまったら、誰も私の名を知らないことになってしまうわ」

「前に約束した」

 間をあけずにすぐに返された口調は、聞き馴染みのあるものだった。

 姫はその答えに満足すると、ふとあることを思いついた。

「私が成人したというのなら、お前だってそろそろでしょう。決めたわ。お前が私のことを名で呼んでくれないというのなら、私だってお前のことこれから名で呼んであげないわ」

 彼はしばらく何も答えないでいた。相変わらず澄ました顔はそのままだったが、もう長いこと一緒にいる姫には、彼が何か考え込んでいるのであろうことはよく分かった。

 やがて彼は、

「分かりました」

 と一言だけ答えると、その場を去って行った。

 その晩、姫が雲の隙間に見える満月を見上げていた時のこと、視界の端に鮮やかな紫が映った。

 思わず寄って持ち上げると、それは丘に咲いている紫陽花だった。これまで、毎日会いに来てくれていたことの代わりなのだろうと、姫は思った。

「ありがとう。綺麗だわ」

 それから彼は、一晩も休むことなく、姫の元に花を摘んで行った。


 それは、柔らかな日差しに鳥が謳う頃だった。

 人々は季節の訪れを喜び、祝い、皆どこか浮かれていた。

 姫はその日、久しぶりに父君に呼ばれ、一緒に過ごしていた。母を亡くし、引き取られるようにしてこの屋敷にやってきた姫は、父君と一緒に過ごしたことがほとんどなく、家族と一緒にいられる嬉しさで、いっぱいだった。

「父君が私をお呼びだから、少し行ってくるだけよ。約束するわ、明日はお前と一緒に過ごすし、明後日もその次も、私達はずっと一緒よ。だから、今日だけどうか我慢してね。寂しい思いをさせてごめんなさい」

 少年は何も言わずに、ただ頷いた。それを見た姫も、満足そうに頷き返すと、数人のお付きのものとともに、父君のもとへと向かった。

 夜も更けた頃、姫は一人で屋敷の側にある丘に咲いた花々に囲まれて泣きじゃくっていた。

 彼といつも一緒に過ごしていた場所だった。毎日ここでどうでもいいおしゃべりをするのだ。姫でありながら、屋敷を抜け出しても大して心配をしてもらえないからこそ、実現できる幸せな時間だった。

 姫のその姿に気が付いて、少年は慌てて姫の元へと駆け寄った。

「……どうしたの」

 何があっても、何を言われても、いつでも笑っている姫が、泣いているのを見たのは本当に久しぶりで、少年は内心でとても焦りながら、ようやくその一言を声に出した。

 姫は泣いてばかりで、答えを返すことはなかった。

 しばらく泣いて、そして姫はまだ泣いたまま、少年へ手を伸ばした。

 伸ばし返された手をしっかり握りしめた姫は、それでもまだ怖くて、今度はその手を引っ張った。少年は引っ張られるまま、姫の方へと一歩進み出た。姫は自分からも少年の側へ寄ると、その身体を抱きしめた。

「いいわね、お前はここにいられて」

 涙が混ざった声で、心から羨ましがるような、あるいは何の感情も持たないような声で、姫は言った。

 少年は何と返したものか分からなかったから、言葉を返す代わりに、姫の身体を抱きしめ返した。姫は酷く震えているようだった。

「あの湖を知っているでしょう」

 あの湖——少年はすぐに何のことか分かって、頷いた。

「あそこには、神様が眠ってらしているの」

 彼は、その話も聞いたことがあった。その神様がいるから、この町は豊かなのだと、大人たちが話していた。

「私達にとって、とっても大切な神様なのよ」

 姫は言う間も、ずっと涙が止まらなかった。嗚咽の合間に、必死に息を整えながら、話し続ける。

「百年に一度、とても幸福な女の子だけが、その神様に会うことができるんだって。その幸福な女の子は、満月の日に生まれた子で、この町の姫でなければならないんだって」

 少年は何か恐ろしいことを聞かされるような気がして、身体を固くした。

「私……私ね。とっても寒い日に生まれたの。雪が降り積もる日で、辺り一面真っ白だったって、母様言ってたわ、私とっても小さかったけど、覚えているのよ」

 少年は、これまで何度も聞かされた姫が夢見るように語った母の話をすっかり覚えていた。そう、姫が生まれたのはとても寒い雪の積もった日だった。そして、

「……眩しいほどの満月が、その雪を照らしていて、綺麗だったって」

 姫は無理に笑おうとして、そしてそんなことは到底できそうになかった。

「私、十年後にその神様の元に行くんだって。父君が今日、おっしゃったの。……そのために、私を引き取ったんだって」

 少年は姫を抱きしめる腕に力を込めた。彼女がこのまま消えて行ってしまう気がして、恐ろしくなった。

「皆言うのよ。おめでとうございますって。あなたは幸せにおなりに行かれるのですねって。恵まれて、幸福で……でも、私、知っているのよ」

 冷たい風が吹いた。

「……皆、私は神様の元へ行くんだっていうけど、それはつまり、あの湖に」

 姫はそこで一度言葉を切ると、唇を震わせたまま、どうにか続きを言おうとして、そして出来なかった。次から次へと、いくつも大粒の涙が頬を伝って行く。

「嫌だ、嫌だ。私、死にたくない」

 少年の身体に縋って、姫は泣き続けた。

「一緒にいるって言ったのに。私たち、ずっと一緒にいようって」

 少年は目の前の少女の言葉をようやく現実のものとして受け止め出した。抱きしめる腕が震えるのが、彼女が震えているのではなくて、自分が震えていたからだと気が付いた。

「私は死んで喜ばれて、そして今まで同じように死んでいった何人もの女の子たちと同じように、伝説になって終わってしまう。残るのは幸福な少女だけで、皆私がここに生きていたことを忘れていく」

 何も答えない少年の瞳から、涙が零れ落ちた。

「私を、椿を覚えていて。私がここにいたことを、お前だけでいいから覚えていて。お願い。私を一人きりにしないで」

 もうほとんど悲鳴のようだった言葉に、少年は何度も頷いた。

「一緒にいる。ずっと一緒にいる。だって約束したのに」

 震えて泣きじゃくっていた二人の周りには、ため息が出る程鮮やかで美しい花たちが咲き乱れていた。


 それは、とても寒い日だった。

 姫は父君につれられて訪れた湖で、自分と同じくらいの背丈の少年に出会った。姫は思った。彼は私だと。これはきっと運命で、ずっと前から定められていたに違いない。手を差し伸べなければならないと思った。

 彼は酷く汚れていて、そして姫が差し出した手を怖がって避けた。

 大人たちは、何やら難しい顔で話し合っていた。

「こんな場所に子どもが一人でいるなんておかしい。関わらないべきだ」

「そもそも、みなしごなど連れて帰ってどうするつもりだ」

 まだ五つだった姫にも分かるような、酷い言葉は、誰かの、

「あの湖の側にいたんだ。きっと神様の思し召しに違いない。連れて帰らなければならない」

 という一言で、あっという間に静かになった。

 行くあてのなかったその少年は、姫の屋敷に連れてこられて、姫のお付きのものとして、働かされていた。何を話しかけても無表情で、扱いに困り果てられたその少年は、身綺麗にさせたら、それなりに美しい容姿をしていた。

 少年は周りの人間とほとんど関わることを望まず、話しかけられたときだけ話し、命じられたことだけに従った。姫は思った。やはり彼はきっと私と同じなのだと。

 ある日のことだった。いつもと同じように、大人たちに言われたことだけを淡々とこなしていく少年の姿がいつからか見えなくなって、姫は不思議に感じていた。

 ほとんど話したことはない。けれど、彼を最初に見つけたのは自分で、だから気にかかったのかもしれない。

 なんとなく、どこか確信めいたものを覚えて、姫はすっかり日も暮れたなか、町のはずれの森を駆けた。彼がいるのはきっとここだと思ったのだ。数日前に出会ったこの場所だと。

「だめよ!」

 姫が必死に差し伸べた手は、なんとか少年の腕を掴んだ。

 力の限り引っ張って、冷たい地面に二人で転がった。姫は少しだけ身を乗り出して、はるか下を見つめる。どれほどかも分からないほどの距離の先に真っ暗な湖があった。

「……どうして」

 それまで無表情だった彼は、そのときようやくはっきりした表情を見せた。それは困惑のようだった。

「ここだろうなと思ったのよ。なんでかは分からないけれど」

 姫はなぜか酷く泣きそうな表情で、少年を抱きしめた。

「もうおかしくなってしまいそうなほど、辛いことって確かにあるけれど。それでも生きていればきっと良いことがあるって」

 姫は思った。大人たちは彼を神の思し召しだなんていうけれど、きっとこの少年は偶然ここにいただけだったのだ。偶然、あんな真夜中に、極寒の中、一人でこんな切り立った崖の上に。……今でこそ姫と呼ばれて屋敷で暮らしているけれど、母と二人で貧しい暮らしをしていた方がずっと長かった姫には、それがどういうことなのか、分かってしまった。

「私と同じね。私もひとりぼっちなのよ。もう誰も、私を見てはくれないの」

 真っ暗な森の中に、冷たい雪が降り出した。姫はそのあまりの冷たさに、抱きしめる腕を少し強めた。

「私はあのお屋敷で、迷惑な存在なの。私知っているのよ。……母様がいれば、私普通に幸せでいられたのに。こんなところで、姫なんて呼ばれて。誰も私の名前、呼んでくれなくて」

 そのとき、姫は涙の合間に赤い光を見つけた。何度か瞬きを繰り返し、それははっきりとした形を表した。

「椿」

 懐かしい、もう二度と聞くことができない声を思い出しながら、姫は言った。

「私、椿と言うの」

「……椿」

 ただ姫にされるがままになっていた少年は、そのときようやく言葉を返した。

 姫は少しだけ笑うと、ふと思いついて尋ねた。

「ねえ、あなたは何という名なの」

「……月」

 少年は静かな声で答えた。

「月というの。いい名前ね」

 姫はそう言いながら、思わずつられて空を見上げた。満月だ、と思った。

「私は月が好きよ。だって月ってどこにいても付いてくるのよ。私がどこか遠い遠い場所へ行っても、月は変わらずにずっと傍にいてくれるの。ああ、そうだわ。母様は言ったわ、寂しいこと、辛いことがあったら空を見てごらんなさいって。そこには月があるから、決して独りぼっちじゃないって」

 姫は眩しいほどの満月を眺めて、そしてもっと良いことを思いついた。

「そうだ、一人で辛いときは月を見上げてお互いを思い出すことにしましょう。そうしたら、私達ずっと一緒よ」

 少年は、姫がしたように腕を伸ばして、姫の身体を抱きしめた。

「ずっと一緒にいましょう。私達、もう二度とひとりぼっちにならないように」

 彼は、静かに頷いた。


 それは、とても寒い日だった。

 姫は冷たい風を頬に受けながら、これまで見た中で一番美しい満月を見上げていた。最後に見るのがこの月で良かった。そういえば、あの日も満月だった、と姫は思った。私はあの日、彼と一緒にこの月を見上げて、そしてずっと一緒だと約束したのだ。

「お前、どうしてここにいるの」

 待ち望んで、待ち望んで、そして一番会いたくなかった人に腕を取られて、姫は振り返りもせずに言った。

「貴女が……椿がずっと一緒だと言ったから」

 ああ、おかしい。もう、何もかもどうでもよくなって、試すように姫は笑った。

「そう、そうなの。それならあなた、どこまで一緒に来てくれるの。月」

 雪はやまない。姫はずっと幼い頃、私はここで彼に出会い、一緒にいようと誓ったのだ。

「最後まで、永遠に」

 抱きしめた腕は、もうずっと知っていたものだった。

 姫は思った。確かに、私は幸福な女の子だったのだ。

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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