第九十六話
ばぢん
と、何かが弾けるような音がした。
それと共に、猛烈にジェラールから禍々しいまでのオウルが噴き出すではないか。
ゆっくりとした所作で、立ち上がろうとする。
その動きに生理的な嫌悪感を覚えて、ユーグが大きく飛びのいた。
例えば百足が蛇行する動き。
例えば蜘蛛の脚の蠢き。
例えば墓地から這い上がってきた屍の歩み。
そんな想起が凝集して脳裏を駆け巡る、不吉な不気味さ。
気づけばたたずむジェラールが、飛来した剣を手にユーグを眺めていた。
じっとりとした、湿った眼差し。
死魚の双眸、死人の表情。
まるで死生の境界の向こう側から、現世を覗き込んでいる亡者のよう。
亡者が、剣を構えた。
両手で握った柄を顔の高さまで持ち上げて、切っ先は天を向く。
その剣勢はおぞましいほどの虚無。
生者の力強さや活力は皆無であり、脱力しきった四肢はまるで病人のような脆さを思わせる。
だが見よ、その頭上には天使の光輪が浮かんでいるではないか。
ユーグは戦慄する。
まさに十年前に出会った、あの剣。
あの剣鬼。
機械仕掛けの凶剣の、剣勢である。
「本当に、貴様だったのか……」
先程の破門という一言が鍵だったのだろう。
ベルフェゴールの使徒としてのオウルを、師匠がマナで縛り付けていたのをそれで解放した。
無論、破門の一言には特定のマナを込められていたのは疑いようがない。
今、教会者として破門されたジェラールという男は、ベルフェゴール式剣術を振るうのに何ら斟酌を必要としなくなったわけだ。
「……」
自分自身で戸惑うほどに、ユーグの裡を昂る気持ちが満たしていく。
あの日、塗りつぶされた恐怖を打破できる今という機会に。
畏怖し続けた存在に再び出会えた歓喜に。
二振りの剣を、ユーグも構えた。
「十年前の悪夢を、払拭させていただく」
張り詰めた弦のよう。
フォルセウスと対峙した時、それ以上の精神状態でユーグは剣気を整えた。
天へと、ふたつのダァトから漏れる光が立ち昇る。
鋭さを増す剣気が、やがて臨界点へと達すれば。
疾る。
最高の剣勢。
双つの切っ先は、音速を越えた。
だがそれよりも早く、ユーグの眼前には切っ先が突き付けられていた。
いや、切っ先がそこの置かれていた。
「!?」
踏み込めば、顔面が貫かれるという死地。
寸前で、身をひねりすり抜ける。
ふたりともに無傷のまますれ違えば、同時に振り替える。
ユーグの目には、ジェラールの動きは緩慢そのものだ。
超人の反射神経から見て、視界に収まっている物体の動きが鈍っているわけではない。
おそらく常人からしても、ジェラールの動きは遅い。
だというのに、目にも留まらぬ動きをしているユーグよりも、先に剣を構えてくる。
稲妻めいて双剣を左右から斬り込めど、ジェラールは心臓に至る急所を既に切っ先で指し示していた。
このまま斬り込めば、致命傷を先に受けると判断して、またすれ違った。
「ば……馬鹿な……!?」
剣の間合いに届かぬ位置へと、迅速に逃げ込んだユーグが愕然と冷や汗を流す。
十年前の剣筋を研究しつくした。
あの頃のジェラールの剣速では、絶対に追いつけないはずの剣速を手に入れたはずだ。
あの頃よりもこの剣鬼は速くなっているのか。
あの頃のジェラールを、超える剣術で攻めたはずだ。
あの頃よりもこの剣鬼は強くなっているのか。
これまでの全てが徒労だったのか。
そんな絶望がユーグの脳裏を塗りつぶす。
「導師ユーグ!」
「導師ユーグ!」
そこへ、人の波が押し寄せる。
屈強な男達が、二十人程。
砂浜へ雪崩れ込んできては、ユーグを守るように囲んでしまった。
「探しましたぞ!」
「探しましたぞ!」
「よもやこのような深手を! 何故我らに一言もなく!」
「よもやこのような深手を! 何故我らに一言もなく!」
両脇を支えるのはガズーとダズーの兄弟だ。
二十人に及ぶベルゼブブの使徒達が、一斉にその目をジェラールに向ける。
「まさかこの男が導師ユーグをここまで!?」
「まさかこの男が導師ユーグをここまで!?」
「いや、フォルセウスの畜生が死んでおる。おそらくふたりの激闘の後、ふたりがかりで不意打ちしたのであろう、そうであろう」
「いや、フォルセウスの畜生が死んでおる。おそらくふたりの激闘の後、ふたりがかりで不意打ちしたのであろう、そうであろう」
さらにその眼差しは馬上のギィにも及んだ。
ギィはそんな敵意を向けられても涼し気な様子だ。
「導師ユーグ、ご安心めされい。あの男には何度も煮え湯を飲まされましたが、この数ならば圧殺できましょう!」
「導師ユーグ、ご安心めされい。あの男には何度も煮え湯を飲まされましたが、この数ならば圧殺できましょう!」
「さぁ皆の者、かかれ!」
「さぁ皆の者、かかれ!」
「待て……!」
ガズーとダズーの大音声と共に、ユーグの制止の声がかき消されてしまった。
二十人を超える人の津波がジェラールに襲い掛かる。
「ジェラール、既に破門されたお前はベルフェゴール式の剣術を使ってしまっている。私が手伝うことは、できんぞ」
「……」
ギィが馬上から声をかける。
それをジェラールは、虫でも見る目で一瞥する。
「……お世話に、なりました」
しかし、一瞥だけではなく。
そんな地獄の底からどうにかこの世に届いたような声が、小さくだけ零れた。
そして、ジェラールがベルゼブブの使徒達の人波に身を投じた。
すぅ
と、隙間を縫うような足取りであった。
地を滑るような足運び。
死者の頼りなさでふらつく身ごなしだというのに、一斉に斬りかかり突きかかってくる幾重もの剣が当たらない。
宙に舞う木の葉を、無理に掴みかかってもくるりと逃げてしまうような不気味な軽やかさ。
そしてゆるり、ゆるりと剣が振り回される。
はたから見れば笑ってしまうほどの緩慢さ。
だというのに、切っ先を向けられた誰一人としてそれを躱す事ができなかった。
ある者は凍り付いたようにその刃から逃げられず。
ある者は一見、その刃に身を投げたかのように。
ある者はまるで交通事故の如く剣とぶつかって。
ひとり、またひとりと血を撒いて倒れていく。
まるで幽鬼が剣で生者を撫で、そのたびに魂が奪われるかのような光景。
かつて十年前にフォントノワに現れた地獄の再現。
「うう、うおおおお!!」
その恐怖の光景に、ユーグが絶叫してジェラールへと飛び掛かる。
恐慌したかのような剣勢。
最高潮の完成度に至っていた、先程と比べれば無様ですらある剣筋である。
だがそれをジェラールはいなす剣技で応じた。
ぎぃん
鉄が打ち合う音。
「!?」
ユーグが、瞠目する。
防御をすらせずに、急所を刺し貫いて殺す剣ではなく。
初めて剣が打ち合った。
見れば、既にベルゼブブの使徒をひとり惨殺している。
だがそれで悟った。
いかにジェラールとて、この人数に取り囲まれてしまえばユーグを捌くための注力が減じるのだ。
まだ十五人はいるベルゼブブの使徒達が、零になれば勝ち目はなくなる。
今。
今、攻めねば再びあの悪夢に飲み込まれる。
ユーグが獣のような咆哮と共に、ジェラールへと斬りかかる。
嵐のように連鎖する二振りの剣。
それが雨のように連綿と繰り出され続ける。
ジェラールはその剣撃に、大きく意識を裂いて応じてしまう。
そして周囲から突き出されるベルゼブブの使徒達の剣に、四肢が突き刺さる。
ベルゼブブの使徒達は、斬りかかるでなく突き出すだけですら良かった。
それでジェラールが自ら刺さってくれるのだから。
いよいよ、ユーグの剣すらジェラールの肉体に届き始めた。
強く、なっている。
ジェラールは感じていた。
ユーグ自身が辿り着いたダァト、メルルナを食って得たダァト、そしてフォルセウスのマナ。
これがユーグの中で混沌と溶け合っているのを。
もしもそれをユーグが掴んだ時。
勝ち目がなくなるだろう。
そこまで思考が結論しても、ジェラールの感情は死んだままだった。
命を失う恐怖もなく。
数に恃まれた悔しさもない。
ただ今ここにいる全ての敵を殲滅するための機構として、動いている。
それはなんのために?
ユーグを止めるために。
それはなんのために?
ユーグにこれ以上罪を重ねさせないために。
それはなんのために?
己の贖罪のために。
それはなんのために?
……ああ、ひとつ、約束をきちんと果たさないといけないのですよ。
助けて欲しいと請われて、分かりましたと言いましたから。
ララ殿を、助けると最初の最初に。
だから。
ユーグ殿に食い散らかさすわけには、参りません故。
ジェラールの双眸に、そんな光が宿る。
宿ってしまう。
それは、ベルフェゴール式剣術における雑念でしかなかった。
「しまっ……!」
「もらった……!」
周囲のベルゼブブの使徒達すら察する、ジェラールの隙。
そこに殺到する、剣、剣、剣。
ジェラールの対応は、間に合わない。
「そこまでですわ!」
潮風に乗って流れてくる甘やかな匂い。
それと共に、ジェラールを守るために飛び込む影が、幾重もの。
剣を持つベルゼブブの使徒達の腕を掴んでは極めてゆく勇姿は、全て女だった。
「ジェラール様、助勢に参りましたわ」
「はは……」
その可憐な笑みに、ジェラールが苦笑する。
ララ率いるアスモデウスの使徒達が、ジェラールを守るように構えを取る。




