第九十三話
二振りの刃が、稲妻めいて左右から迫る。
赤天派の剣は、それを堂々と右の刃を叩き落す。
その反動で揺らいだ左の刃をくぐり、ユーグの懐へと踏み込む。
太陽のように悠然と立ち昇るような剣が、フォルセウスより放たれた。
しかし陽炎が、切り裂かれるような手応えが赤天派の剣に返る。
余裕をもってユーグはその剣を避けて、フォルセウスの背後を取った。
背中越しに、心臓を貫く突きの軌道。
それをフォルセウスは、振りかぶって背に回した刃で防ぐ。
その防御を見もせずにやってのける剣腕にユーグが瞠目した。
フォルセウスの剣が、捻られる。
それで突きの形だったユーグの剣勢がねじれて、耐えるために右足裏を踏みしめた。
停止ともいえぬ、そんな停止の一瞬。
振り返り様のフォルセウスの横薙ぎの一閃が走った。
今度はユーグの見躱しに余裕はない。
ぱっと、腹が横一直線に裂かれる。
臓腑には、届いていない。
フォルセウスが追撃に一歩を踏み込みむ時間で、ユーグは百歩を駆け巡って撹乱の動き。
その残影が二十を数えてフォルセウスを取り囲んだ。
本当にユーグが増えたと見紛う壮観。
しかしフォルセウスはひしひしとその肌に殺意の冷風を感じていた。
その方向へ、ただ戦意の熱風と共に剣を放つのみ。
「そこだ」
邪を断つ、輝かしいほどに真っ向の剣筋。
それでまたぱっと血が咲く。
ずざ、と。
致命傷を避けたユーグが砂浜に転がった。
右腕が手首から肘にかけて裂けている。
振るえる右手は、それでも剣を手放さない。
「……よく、お前を転がしていたのを思い出す」
憎々し気にユーグが吐き捨てる。
「あの頃、お前の黄天派武術に追いつけずに必死だった」
「あんな児戯」
「今のお前の技よりも、遥かにマシだ」
「この……!」
ユーグが激情のまま、手数を増やす。
嵐のように連鎖する二振りの剣は、一手が人を粉々にする威力を秘めていた。
それが雨のように連綿と繰り出され続ける。
力強さと速度の極致。
ベルゼブブの使徒が到達すべき剣術の粋だ。
しかしそれをフォルセウスは最小限の動きで防ぎ続ける。
そして連撃の呼吸の隙間を突くように、ただ一振りだけで切って落とす。
今度はユーグの左肩が裂けた。
「おおお、おおおおお!!」
それにもひるまずに、がむしゃらにユーグは攻めた。
血が足りなくなっていく。
痛みが増していく。
あれほど村々を食い散らかして蓄えた力が、みるみる消耗されていく。
なのに届かない。
全て見透かされているようだ。
高みから、何もかもを俯瞰されているような。
フォルセウスという男はいつも懸命にひた走り、人を追い抜いてゆく。
そして気遣うように振り返っては、優しい眼差しで後続を見守る。
その眼差しが、いつも癇に障っていた。
この男には適わないという現実を突きつけられるようだった。
ただそれが快くないというわけではなかった。
全てに負けていたわけではなく、その鼻を明かすのもユーグは楽しいと感じていたと言える。
フォルセウスもその負けん気を歓迎していた節がある。
しかしそれもメルルナという女で狂った。
神の道が揺らいだ。
手に入らない。
望んでも、この恋ばかりは手に入らないのだ。
フォルセウスに斬られてしまうという確信。
手に入らないという確信。
身を焼く恋の焦燥感と、それを失う恐怖感でユーグは道を立ち止まる。
そしてフォントノワの戦いが始まる。
ベルフェゴールの使徒の悪夢めいた剣と出会った。
顔面をすら切り裂かれ、その剣筋を最期に己は死んだと確信した光景。
そこで途切れた意識の記憶を、今なお夢に見る。
人間としての感情や思考、機微それらことごとくを打ち棄てた圧倒的な強さ。
その無機質な剣筋に追い詰められる恐怖と、そして羨望。
これほどの強さがあれば、思い煩いなどなく生きていけるのだろう。
それほどに人を棄てているならば、苦悩に苦しむこともないのだろう。
……ああ、そうなりたい。
フォントノワの戦いでの傷が癒えてすぐに、教会から脱した。
人を棄てる方法を、あのベルフェゴールの使徒と同じようにはできぬと薄く予感する。
アスモデウスの使徒にも、メルルナという引け目があり選択できなかった。
人に、与え続けてきた。
それが美徳であり、神の愛に沿った行いだと信じていた。
ならば奪う。
奪い食らう。
そんな発想がユーグはベルゼブブの使徒の門を叩いた。
やがてメルルナと親交が生まれる。
あれほど恋焦がれていた女が、教会を棄てただけでようやく手に掴めるようになったのだ。
つまり、そうか。
棄てることは、正しいのだ。
こうして確信と共に晴れやかにベルゼブブの使徒を邁進する。
人を食い、メルルナと交わり、教会者の血をベルゼブブに奉げた。
棄ててゆく。
棄ててゆく。
もっと、もっと棄てよう。
もっと棄てねば。
嗚呼、そうだ。
メルルナをすら棄てれば。
そこでメルルナが失踪する。
フォルセウスの仕業だというのは、直感していた。
しかし確証もなく、導師の昇格がかかった微妙な時期だった。
煩悶として何年かを過ごす。
やがて導師となり、メルルナの足取りをたどる。
そしてララというメルルナの弟子の働きによって、メルルナも棄てることができた。
そして手に入れたのは、ふたつ目のダァト。
これであの時のベルフェゴールの使徒を越えた。
超えたはずだ。
さぁ次に棄てるものは。
ああ、そうだ。
フォルセウスという男に対する執着。
メルルナを長く監禁したという怒り。
かつての友情と尊敬や嫉妬と嫌悪感。
尽く、縁を断ち切って棄てなければ。
だというのに、嗚呼、フォルセウスという男はこんなにも強い。
もうどれほどの赤天派の剣を肉体に受けたか。
血みどろになりながら、ユーグはフォルセウスへと剣を突き付ける。
ともすればかつてフォントノワの戦いで死に瀕した時と同等級の傷を負っているかもしれない。
それでも怨讐をたたえた双眸でフォルセウスを睨みつける。
ずっとユーグに冷静に対処し続けてきたフォルセウスも、幾度斬りつけようともひるまないユーグに、気圧され始めていた。
冷や汗が、その巌のような顔に浮かんでいる。
ならば俺が追い詰めているのだろう。
これで正しい。
これで正しいのだ。
全てが肯定された心地で、ユーグが踏み込んで二振りの剣を手繰る。
衰えぬ剣速。
フォルセウスの捌く技量もまた衰えない。
だというのに、
「……むぅ?!」
ぴっ
と、フォルセウスの頬に一筋の傷。
見切ったはずのユーグの剣の切っ先が、触れた。
当のユーグは、フォルセウスの一打でまた砂浜を五歩後退している。
大きくのけぞっていた姿勢が、ゆっくりと正されてゆく。
その顔は、希望に満ちた道を噛み締める様に進んでいく宗教者のものだ。
己の選択が間違いではなく、正解を確信しているもの。
「……まさか」
ふたつ目のダァトを、掌握しかけている。
この戦いが、ユーグの良い修行となっているのか。
その側面も、あるだろう。
だがそれ以上に、何か精神的な境地に至っている気配があった。
膨大な力に圧迫された不快感に苛んでいたユーグの顔は、今はむしろ晴れやかだ。
己は正しい。
己はなすべきをなしている。
その強固な意志が、ふたつ目のダァトの手綱を握っているのだろう。
フォルセウスは自分が気圧されていた事実が、ユーグにその確信をさせたのだろうと悟る。
心の戦いで、上回れたということ。
ユーグが二振りの剣を構えた。
これ以上ない鬼気を纏い、流血にまみれていながらその顔は法悦に満ちて輝かしい。
ゆくぞ
そんなユーグの言葉が、聞こえる一瞬があった気がした。
ユーグが消えた。
フォルセウスが、威厳に満ちた一振りを横薙ぎに放つ。
肉を斬り、骨を断つ音。
左腕が、宙を舞った。




