第九十一話
一晩中、馬を走らせていた。
直感がある。
奴は聖ミカエルの山に向かっているという直感。
聖ミカエルの外套を羽織った私ならば、止められるが故。
そんな計算の上で成り立つものではなかった。
ずっとメルルナを監禁していた私をきっと許さない。
そんな話だ。
馬は、半日で潰れた。
その頃にはもう、明るくなっていた。
近くの町で馬を買い、また走らせる。
ジェラールは、追ってくるだろう。
因縁を主張しあっても平行線だ。
ならば強引な術しかない。
何事も、それしかできないと苦笑してしまう。
メルルナにしても、そうだ。
駆け引きも手管もない。
焦がれる想いに狂って監禁をした。
不器用な武辺者では、そんな無粋な手段を講じるしか思いつかなかった。
そうして捕まえていたこの三年は、夢のようなものだったのだろう。
蜜に浸る、醜い夢。
骨まで己を腐らせていたのを、ようやく省みる。
目は覚めた。
アスモデウスの使徒、メルルナの弟子に起こされたというのが、業腹ではあるが。
目が開き、見えるのはユーグの憤怒と嫉妬だった。
メルルナを独占した時間に、奴は数多の感情を燃やしている。
己もまた、そうであるから。
一度、改めてぶつけ合うしかない。
奴もそう思っているという、確信がある。
だから私は行くのだ。
場所などふたつしかなかった。
聖ミカエルの山か、メルルナとユーグが密会をしていた場所。
しかし私という男と腹を割ってぶつかる場合、聖ミカエルの外套は切り離すまい。
ならば、聖ミカエルの山しか考えられなかった。
アスモデウスの使徒の拠点を出て二日目に、ある村に立ち寄った。
尽くが、食らいつくされた村だった。
食料は無論、人すらも。
地獄の跡だった。
フォントノワの戦いを経験したフォルセウスを愕然とさせるものではない。
しかしかつて友だった男がやったというのは、言葉にならない心情がこみ上げてくる。
斜に構えるところのある男だった。
ひねた態度で人に接するのを、よく見ていた。
だがそれでも、人々が神の教えの下で安らかにいられるようにいつも心を砕いていた。
フォルセウスが知る限り、黄天派として人を癒す技を出し惜しんだことなど一度もない。
何度か疲労困憊で動けなくなったユーグを世話した覚えもある。
「まずは我が身を慈しめ」
寝台の上のユーグに、そう言った記憶があった。
「慈しんでいるとも。他者へ施しを与え、心楽しくある。これ以上、俺に対する報いはあるまい」
やつれた顔色で穏やかに微笑むその姿は、鮮明に脳裏に焼き付いている。
「お前もそうだろう?」
そして、そんな信頼を言葉にされた。
「天主より常人以上の力を預かったのだ。それを誰かのために惜しむべきではない」
返した言葉に、ユーグは満足そうにしていた。
結局、ユーグは奪い尽くす怪物と化し、自身はメルルナのために力を尽くすようになってしまった。
道を外したのだ。
今、天主の道へと還るために、十字を切って馬首を返す。
「すまぬ。弔う時間が惜しい。ユーグを斬ることで、慰めとさせてもらう」
犠牲者の冥福を祈り、北へ向かった。
これまでに馬を二頭潰している。
そんな強行軍の甲斐は、あった。
森を抜ければ、小高い丘に出る。
緩やかな稜線を下れば、海へと出る風景。
そして海に浮かぶ、聖ミカエルの山。
アヴランシュの町から続く道があり、そこを通る人々が小さく見えた。
砂浜へと、馬を走らせる。
修行に適した場所だ。
そこで駆け、そして仕合った。
黄天派の武術に、よく転がされて砂を噛んだものだ。
潮風を頬に受けて、やがてさざ波の音が聞こえてくる。
枯れ木のような男が、立っていた。
波打ち際で、聖ミカエルの山を眺めている背中。
「待たせた」
その背に、馬上から声をかける。
ユーグが、振り返る。
その顔は憔悴の色が濃い。
「お前はいつも遅いのだ」
「そうだな」
「そのくせ、先に進んでいた者達を追い抜く」
「そうかな。一心不乱に、行動をしているだけだ」
「三年も、隠しおおせるとはな」
「……」
ばさり
ユーグが、一枚の外套をフォルセウスに投げた。
真紅の外套。
聖ミカエルの外套。
「これは……」
「お前は、完膚なきまでに殺す」
ユーグが昏い声を零す。
「胃の中に、まだメルルナがいる気がするのだ。とっくに俺の血肉になった。なのに、まだ胃にへばりついている。だがメルルナだけじゃない。お前も俺の腹の中にいる感触がぬぐえん。お前が穢し尽くしたメルルナを、腹に納めたからお前がいる気がするのだろう。気持ちが悪い。嗚呼、気持ちが悪い灼熱感が、ずっと凝っているのだ……今すぐにも吐き出したい。気持ちが悪い。胃を吐き出して洗ってしまいたい。お前が三年間、凌辱し尽くしたメルルナにへばりついた汚物が、俺の胃を荒らしている。最低な気分だ。もう、メルルナとふたりきりにしてくれ。お前を、完全に消失させたい。完全なお前を、排除すれば、きっと吐き気も収まる」
そうすると吐き気が楽になる、というようにユーグが天を仰ぐ。
フォルセウスが、聖ミカエルの外套を纏った。
「そうか」
フォルセウスも、剣を抜いた。
「私にそれを治してやる術はない。ただ、ベルゼブブの使徒は斬るだけだ」
ユーグが、低い声で嗤う。
そして二振りの剣を引き抜いて両手に握った。
「その決意を、メルルナに突きつけていればな」
「私は……いつも、遅い。そうだろう」
「そうだな」
剣と剣が、打ち合わされた。




