第三話
剛拳がそのみぞおちへと走る。
だがジェラールには届かない。
まるで幻のように、拳が届く前に姿が消えた。
いや、風のような身ごなしで躱し、その背後に立っていた。
ジェラールの右手が、そっと静かな所作で兄の背中に伸びる。
それを兄は、逃げるように身をひねってなんとか逃れ、ジェラールから距離を取る。
態勢を正してジェラールへと向きなおれば、その顔には驚愕が張り付いていた。
「な、何者だ貴様……!」
「巡礼中の旅人です」
「せ、赤天派か! いや、その身ごなしは黄天派……」
「どちらも、手ほどきを受けた程度の技ですが」
控えめな謙遜の面持ちで、ジェラールが緩く首を振る。
兄が、拳を構えた。
腰を深く落とした、重厚なたたずまいは山を思わせる。
高い練度のベルゼブブ式拳術である。
ぴたりと拳をジェラールに向けて隙が無い。
ジェラールも拳を構えた。
黄天派拳術の構えである。
ベルゼブブ式拳術に比べれば、そのたたずまいの武威は薄い。
しかしひとたび動き出せば、飄然とした拳勢は速度に秀でる。
ジェラールが使えば、消えたと見紛うのは先刻の通りだ。
双方、構えたまま闘志を高めてゆく。
やがて、兄の輪郭を超えて燐光がちらちらと漏れはじめた。
悪魔の使徒達の超人的な力の源。
オウルである。
オウルが漏れているということは、対峙する緊張で心が揺らいでいる証拠だった。
つまり修行不足ということだ。
汗が、ベルゼブブの使徒の額から流れて顎を伝い、落ちる。
瞬間、ジェラールが走った。
まるで、疾風。
目にも留まらぬ速さだが、ベルゼブブの使徒はかろうじてその気配を捉えていた。
背後。
弟を仕留めたのは、背中の急所を突いた一手だった。
同じ技で来るという勘も手伝い、兄は肘を迅雷の如く後方へと突き出した。
手ごたえは、ない。
「主よ、この者よ哀れみたまえ」
ジェラールの声は前からだった。
背後に置き去りにした気配を囮として、正々堂々と前から不意打ちをする。
次元違いの速さだった。
黄天派武術、すなわち大天使ラファエルを模した武術の真骨頂である。
「ま、待て! あの女は……」
なにか、言いつくろおうとする途中。
ジェラールの拳がその胸を打つ。
それで兄の意識が途切れた。
大地に転がる屈強なふたりの男達を悲し気に見下ろし、ジェラールは十字を切った。