第三十六話
岩陰で、本当に帰ってきたのかと驚くジェラールとララに対して、メルルナの語調は落ち着いたものだ。
「アスモデウス様へ、祈りを奉げていただけですわ」
「その祈りは、この聖なる山からは届かぬであろうに」
柔和な、憐憫が溢れた言葉がフォルセウスから零れた。
「フォルセウス様は、アスモデウスの使徒らの山に囚われたとして、祈りませぬか?」
「なるほど。祈るだろうな」
「同じことですわ」
「助けてくれとでも、祈っておったか」
「フォルセウス様が、アスモデウスの使徒にいらっしゃいますように、と」
「……それができれば、私はとっくにお前の所へ走っている」
フォルセウスの声には、深い苦渋が滲んでいた。
「ねぇ、フォルセウス様、本当に、本当にわたくしを想っていらっしゃるならばこの戒めを解いて、ご一緒に駆け落ちいたしましょう。ふたりでどこか遠くで、つつましく暮らしますの。毎夜、毎夜、熱くあつぅく、愛し合いましょう」
「メルルナ、私を困らせないでおくれ」
「フォルセウス様、愛しております。お慕いしておりますわ。ねぇ、フォルセウス様」
甘く甘い女の媚びが、蜜のようにとろりとしたたる声だった。
盗み聞いているジェラールの耳が溶けそうになり、思考が鈍りそうになる。
直にささやかれているフォルセウスは、心地よい蜜毒にまみれる心地だろう。
「メルルナ」
だというのに、フォルセウスが声音には確たる己があり、溺れていないことを示していた。
「お前の弟子が、入り込んでいるようだ」
「まぁ」
「まだここは見つかっていないだろうが、念のため今日はここで番をする。この媚香の毒を止めろ」
「フォルセウス様、嬉しゅうございますわ。この媚香は、女の昂ぶりに応じて滲んでしまうもの。わたくしの想いの丈です故、抑えるなんてできませんわ」
いじらしく胸をときめかせているような仕草をするメルルナを、フォルセウスは冷たい目で見ている。
いや、冷たい中に灼熱のような情動が、こっそりと覗くジェラールには見えた。
「ねぇ、フォルセウス様、髪を梳いてくださらないかしら?」
「……分かった」
フォルセウスが鉄格子の隅に鍵を差し込む。
それで扉のように、鉄格子に設けられていた枠の一部が開く。
持ってきていた桶と一緒に中に入ると、中の湯でメルルナの体を丁寧にぬぐい始めた。
メルルナも慣れたように、衣を脱いで裸身になる。
白くきめ細かい肌と、豊満で官能的な肉付きの体が灯りに照らされて実に淫靡だ。
フォルセウスの手つきは、父が幼子を慈しみながら洗ってやるような懇切丁寧な手つきだった。
その女らしさを凝集したような曲線をぬぐい終えれば、机から櫛を取り出してメルルナの背後に座る。
そして優しい指使いで、メルルナの長い髪を手入れしはじめた。
「フォルセウス様、わたくしの弟子は誰が来ているのかしら?」
「ララという名が挙がっている」
「弟子の中でも、聡い子ですわ。きっとわたくしを見つけて、連れ出してくれるでしょう」
「絶対に、お前を逃さん。手放してなるものか。会合から帰ったら、警備を密にして絶対に捕まえてやる」
「そうなさったら、わたくしと同じ牢に入れてくださいまし。ララと慰め合いとうございますわ」
「いいや、首を打って焼き滅ぼす」
その手つきの優しさが一切滞らぬまま、決然とフォルセウスは言い放つ。
「アスモデウスの使徒も、ベルゼブブの導師も、ベルゼブブの使徒も、全部……全部を殺し尽くし、お前が奪われる憂いを根絶させる。メルルナ、メルルナ、お前を奪わせん……逃さんぞ……愛している、愛している」
「はい、存じ上げておりますわ、フォルセウス様。わたくしも、あなた様を愛しておりますとも」
髪を梳く手が止まった。
フォルセウスが後ろからメルルナを強く抱きしめて、振り向かせる。
そのまま、噛みつくように唇を重ねる。
「嘘だ。お前はユーグになびく。お前はユーグを想っている。あいつには、あいつにだけは絶対にお前を渡さん。渡さんぞ、私のメルルナ」
「わたくしは今、あなた様の腕の中ではありませんか」
「だが心は違う」
「こんなにもお慕い申し上げておりますのに。こんなにも心を、開いておりますのに」
ささやきながらメルルナが淫靡に股を開く。
下品な仕草だというのに、これ以上ないほどに男の本能を燃やす媚態であった。
フォルセウスは火が付いたようにその体をむさぼり始める。
メルルナ、メルルナと切々と幼子のように繰り返し、メルルナはその頭を慈母のように撫でる。
男と女の匂いが立ち込め、媚香が満ちてジェラールはめまいを覚えた。
フォルセウスとメルルナの交わりは、黎明にまで続いた。




