桃太郎 異聞録
ご高覧いただきありがとうございます。
―――昔々、あるところに、お爺さんとお婆さんがおりました。
辺境の片田舎にてひっそりと、しかし穏やかな生活を続ける彼らには、立派な孫が一人。
お爺さんとお婆さんの愛を一身に受けてすくすくと育ったその孫は、近隣諸国を荒らして回る鬼たちを討伐するため、彼奴等の根城、鬼ヶ島へと向かったそうだ。
吉備の団子を腰に携え、陣の羽織をその身に纏う。日ノ本に並び立つものなしと謳われた大英雄。
―――ああ、きっと彼の者ならば、あの邪知暴虐の鬼どもを、必ずや討ち果たしてくれようぞ、と。
誰もがそう信じ、ついにはその通りに鬼を成敗して見せた、その者の名は―――
* * * * * *
「……はぁっ、はぁっ……ぐっ……あと、もう少しだ……」
傷ついた体を押して、歩き続けた。全身は鬼から受けた打撲や裂傷による痛みに苛まれ、もはや意識も朧げになっている。
それでも、一秒でも早く彼らに会いたいと。会って、この自分は立派に鬼を討ち果たしたのだと、そう伝えたかった。
だから、歩く。歩き続ける。鬼ヶ島から歩き続けて数週間、向かうときはあっという間だった道のりが、嫌になるほど長く感じる。
―――ああ、そうか。行きの時には、彼らがいたのだったな。
共に旅をした仲間たちは鬼たちとの戦いの最中、傷つき倒れていった。それを思えば涙が出そうになるが、歯を食いしばって足を進める。
「……俺だけ、生き残ってしまったな。この情けない俺を見たら、お爺さんたちはなんと言うだろうか……」
罪悪感が胸を締め付ける。足が竦む。鬼ヶ島を出た時にはあれほど待ち遠しかった再会も、お爺さんたちの家へ近づくにつれ怖くなる。
自分一人生き残ってしまったこんな情けない自分を、お爺さんたちは笑顔で迎え入れてくれるだろうか。
慚愧の念は絶えないが、それでも足は進み続ける。気付けば、視界にはお爺さんたちの家が見えていた。
お爺さんはまた、山へ芝刈りに行っているのだろうか。お婆さんは、川で洗濯をしている時間だろうか。
「お爺さん、お婆さん……!!」
視線の先に見えた人影に向けて、思わず声を張り上げる。どうやら、今日は外に出かけず、縁側で談笑しているらしい。ささやかな幸運に感謝した。
重かった足も、気づけば軽やかになっていた。相変わらず後悔の念は胸を締め付けているが、どうにも自分は思っていた以上に彼らとの再会が待ち遠しかったらしい。
無理に叫んだおかげで肺のあたりがずきりと痛むが、そんなものは気にもならない。自分はようやく、帰るべき場所に辿り着けたのだから。
* * * * * *
「……ぐアァ!!がっ……はぁ、はぁ……どう、して……?」
わからない。わからない。わからない。
なんだ、何が起きたのだ。まるで意味がわからない。
自分は確かに帰ってきた。お爺さんもお婆さんも、温かく迎えてくれたはずなのだ。
なのにどうして、自分は血反吐をはいて這いつくばっている?
―――どうして、お爺さんとお婆さんはあんなにも冷たい目で俺を見下ろしている?
「……まさか、帰ってくるとはな。こんなことは初めてだ。まったく、驚かせてくれる」
静かに響く、お爺さんの声。そこに、かつての穏やかな声色は欠片もなく。ただ、冷たさと鋭さを感じさせるだけのその声が、この耳をナイフのように突き刺した。
「まぁ、長くやっていればこのくらいの誤差もあるでしょうよ。お供がみな死んでいたというだけでも、僥倖じゃあありませんか」
言葉を返すお婆さんの口にも、こちらに対する心配は全く感じられない。その手に握られた包丁は、どうやら俺を刺し殺すためのものらしい。桃の皮をむくのにも手間取っていたような料理下手のお婆さんだったが、どういうわけか殺意を込めて包丁を握るその姿は、随分と様になっていた。
「そう、だな。やむを得んが、今回はこれで良しとしよう」
「ええ、ええ。次からはこのようなことがないよう、鬼どもの数も調整してやらねばなりませんね」
それが、ごく自然なことであるかのように、平坦に交わされる言葉。
まるで意味がわからない。この人たちは、いったい何を話している……?
「どういう、ことだッ……!なんだよ、その口ぶりは!!」
全身に鞭打つ痛みを押し殺し、声を張り上げる。お婆さんに飲まされたお茶に毒でも入っていたのか、身体は痺れて力が入らないが、かろうじて口元を動かすくらいの余力は残っていたようだ。
「長くやっている?鬼の数を調整?……なんだよ、それ。それじゃあ、まるで―――」
だが、これは身体の痛みだけではない。誰よりも、何よりも信じていた相手が、自分を殺そうとしているという現実。その痛みが、この身に耐えようのない苦痛を与えていた。気づけば、両の眼からは滂沱の涙が溢れている。
「―――まるで、貴方たちが鬼を操る元凶みたいじゃないか……!!」
絞りだされた糾弾の声。
その声を受けて、お婆さんはようやく笑みをこぼした。
「その毒……常人なら身体だけでなく思考も麻痺した廃人になっているはずなんですがね。ええ、ええ。流石、私たちの育てた子。こんなにも優秀な孫が育ってくれて、私は嬉しいですよ」
こちらを嘲り、見下すような冷酷な笑みに、かつての面影は見当たらなかったが。
「良いでしょう。せっかくここまで帰ってきたのですから、最後にご褒美をあげませんとね。殺してしまう前に、貴方の問いに答えて差し上げます」
「くく、ははははは。まったくお前は性格が悪いな。ここで一息で殺してやるほうが、まだ苦しまずに済むだろうに」
「問うたのはこの子でしょう?それに、私たちは天の御遣いとして、それを求めるものに真摯に応える義務がありましょうや」
それを聞いて、お爺さんはからからと笑う。皮肉にも、その笑い声だけはかつてを思い起こさせるようで、耳に馴染む。そんなものはただの幻想に過ぎないとわかっていても、少しばかりの安堵を覚えてしまいそうになる自分がいた。
「さて……どこから説明したものか。そうですね、まず貴方の疑問を解消するためにも、最初に結論から申しておきましょうか」
その言葉は―――
「私たちは鬼を操ったりはしていません。ただ、鬼を生み出しているだけです」
―――まるで日常の中の、何気ない会話を楽しむかのように。あまりにも自然に発せられた。
「な、に……?鬼を、生み出し───」
「そもそも」
こちらの言葉を遮るように、今度はお爺さんが口を開く。
「お前さん、鬼をなんだと思っておったのかね?人語を理解し、人間を襲い、財を略奪し、都市を破壊する。そんなものが、自然発生した生き物だとでも?」
それ、は……。確かに、考えたこともなかった。ただ、彼らは人を傷つけ、多くの悲劇を生み出した。なればこそ、ただ、倒さねばならぬと、そう考えていた。
しかし、それが彼らを生み出した何者かによる意志だったのだとしたら……いったい、自分が今までしてきたことはなんだったのだろう……?
「じゃあいったい、鬼とはなんなんだ!?貴方たちはどうやって鬼を生み出している!!?」
混乱した頭では理解が追い付かない。今の自分に出来ることは、ただその疑問を感情のままにぶつけることだけだった。
「なんだ、まだわからないのかね」
しかし、その答えもきっと頭のどこかでわかっていたのだろう。
……だって、結論なんて、最初から一つしかない。
「人のように言葉を介し、人のように道具を用い、人のように二本の足で歩き、人のように衣服を纏う。そんな生き物、最初から一つしかおらんだろうに」
―――ああ、そうだ。疑問に思わなかったといえば嘘になる。
ただ、命を奪うことを躊躇わないように、その疑問に蓋をし続けてきた。きっとそれを知ってしまえば、振るう刃に迷いが生じる。だから、自分も仲間たちも、誰もがその話題に触れることはなかった。
「アレはな、人間じゃよ。楽園の果実を喰らい、人としての理性と善性を失い、しかし天の御使いにも至れなかった出来損ない。堕ちた人間……その悪性の、成れの果て。それが、貴様らが鬼と呼ぶモノの正体じゃ」
だからこれは、自分が目を背け続けてきた現実だ。
「堕ちた、人間……」
「貴様らが鬼ヶ島と呼ぶ場所。あそこはもともと、数百年前にこの地の神様が降臨した場所でな。神はその折に、島に生えていた一本の木に祝福を授けた。それ以降、わしらが神樹と呼ぶその木には、数年に一度、見事な果実が宿るようになった。それは、我ら神に仕える者のみが長き修行と研鑽の果てに、ようやく賜ることを許される楽園の果実。唯人には触れることすら能わぬ、神の果実じゃよ」
「その果実とやらに、何の関係が……」
「果実は、口にしたものに尋常ならざる力と不老を与える神の恩恵じゃ。しかしそれは同時に、相応しくないものが口にした時に、神罰を下す禁断の果実でもある。鬼とは、果実を口にしたことで人間の枠から外れ、神罰によりその身を異形へと変貌させた罪人の姿を指すものだ。ここまで言えばわかるだろう?なんせ貴様は、既にその実を口にしているのだから」
まずい。いけない。駄目だ。この先を聞いてはいけない。
だって、その答えはきっと―――
「そう、きびだんごじゃよ。楽園の果実を用いて作られた、当代の鬼どもを滅ぼし、次代の鬼を生み出すための道具。それが、貴様と貴様の仲間たちが口にし、今も貴様がその腰に抱える、そのきびだんごじゃ」
「じゃあ、俺たちが鬼たちに抗い、奴らを討ち果たすことができたのは……!?」
「果実の力じゃ。どうだ、素晴らしかろう?ただの人間が、食べるだけで鬼すら屠る絶大な力を手に入れるのだ。まぁ、食したものは引き換えに鬼になることを宿命づけられるがの」
その言葉に。
ただ一つ、この胸に残った誇り―――勇敢に戦い、鬼たちから人類を救ったという誇りさえ、あっさりと砕け散った。
俺たちが必死に努力し、手を結び、すべてを振り絞り……ようやく鬼たちを倒した。それさえも、自分たちの実力ではなく。楽園の果実とやらの力に縋っていただけだったのだ。
自分のこれまで成したこと、その全てが地に落ちた。
だが、それでもまだわからないことがある。
そもそも、彼らはなぜこんな無意味なことをしているのだろうか。
果実を食わせて生み出した鬼を、また果実を食わせた人間に滅ぼさせ、そしてその人間もまた鬼になる。こんなことに、いったい何の意味がある?
終わりのないこの繰り返しが、いったい何をもたらすというのか。
もはや、誇りなどと呼べるものはこの身のどこにも残っていない我が身なれど。それすら知らずにこのまま鬼畜生に落ちるなど、到底受け入れられるものではない。
「何故、という顔じゃな。ふむ、確かにこの繰り返しは無意味にも思えるかもしれん。だがな、これは必要なことなのだ、何もわし等とて、ただ貴様を苦しめるためにこのような手間をかけてきたわけではない」
「ええ、ええ。とても残念ですよ。捨て子とはいえ、わが子のように可愛がってきた子供たちを鬼にするなど、胸が痛みます。いえ、いえ。嘘などではありませんよ。だってこれは、貴方たち人間のためでもあるのですから」
「ふざッ…けるな…!貴方たちがしていることは、ただ多くの人を傷つけ、怪物を生み出すだけではないか!こんなことが、何のためになるって言うんだ……!?」
身体は痺れ、息も絶え絶えな状況だが、それでも叫ばずにはいられない。
この時点で俺は、彼らを育ての親としてではなく、鬼以上に恐ろしい、討ち果たすべき敵と認識せざるを得なかった。
────懐かしい思い出は、鉛のようにこの身を重くしているけれど。
それでも。人々を傷つけ、貶めるだけの彼らが、こともあろうに"人間のために"などと、そんなことを平然と口にしていることが許せなかった。
「まぁそう結論を急くでない。貴様が鬼と果てるまで、まだ少しは時間があろう。順を追って説明してやるとも。……おうおう、随分と鋭い目つきじゃ。仮にも育ての親に向ける視線とは思えんのう」
こちらの憤怒など意にも介さぬかのように、からからと笑いながらお爺さんはずるずるとお茶を飲む。
「さて、どこから話したもんかのう……うむ、そうじゃな。やはり、事の始まりから説明するべきか」
そこからお爺さんは、まるで昔を懐かしむかのように目を細め、しわがれた声で語り始める。
「先ほど、鬼ヶ島にはかつて神が降りた、と言ったな。だが、貴様らも知る通り、現在あの島に神はおらず、鬼どもの住処となってしまっておる。……神はな、人間を好いておったのじゃ。それ故現世に降りて、人間たちに祝福を与え、共に生きようとした。じゃが……ある時、神は姿を消した」
そう語った時のお爺さんとお婆さんは本当に悲しそうで。恐らくはそれを身をもって味わったであろう彼らが、どれほどの喪失感を覚えたのかを想像させた。
「失望、したんじゃろうなぁ……神は、平和を愛しておった。何気ない日常の中で、子供たちが笑顔を輝かせ、お互いを想い、協力し合って人々が生きる、そんな平和をな。じゃがな、人間とはそう綺麗なばかりの生き物ではない。所詮は多少ばかりの知性を持っただけの畜生じゃ。いがみ、奪い、壊し、侵し、汚し、そして同族ですらあっけなく殺す。神はそれをなんとか防ごうと人々に祝福を与え恵みをもたらしたが、人間たちはそれすら利用して殺しあった。戦いの火は消えることなく続き、気付けばこの地に生き残った人間は数えるほどしかなく……神もまた、この地から姿を消していた。ああ……本当に、愚かとしか言いようがない。他の生き物と異なり知性を手に入れたはずの人間が辿る道が、こともあろうに自滅だなんて。憎しみから、欲望から、正義から、生存本能から……人間たちは、ありとあらゆる理由で殺しあった。……その結果神の寵愛を失った人類が、その後どうなるかなど気付くこともなく。
じゃから、生き残った人間たちは―――わし等は、決めたのじゃ。この過ちを、決して繰り返してはならないと」
「ええ、ええ。方法自体は簡単でしたとも。だってそうでしょう……?人間は常に殺しあう生き物なのですから。だったら、最初から殺しあうための敵を用意してあげればいい。面白いことに、それだけで人間たちはいがみ合うことをやめた。手に手を取り合って、まるで御伽噺のように協力して鬼たちと戦おうとした。ふふ、面白いものですよね」
それは、諦観から来る結論だった。
俺は、彼らの話を全て理解しきれたわけではない。ただ、彼らが人間というものを諦めてしまっていることはわかった。自分自身も、同じ人間であったはずなのに。
「それが、鬼ということか……人間を襲う、人間にとっての絶対的な敵対者が在り続ける限り、人間同士で争うことはない、と。だが、それでは争う相手が人から化け物になっただけじゃないか。結局戦いは続き、誰かが犠牲になる」
「いえ、いえ。だからこそ、貴方たちがいるのですよ。多くの人間たちを脅かし、犠牲を生み出す鬼と戦うことができ……そして最後には生贄としてその命を散らす、貴方たちがね。確かに、このやり方では犠牲がなくなることはないでしょう。しかしそれでも、全てが失われることに比べれば小さなものです。それに、生命が増えすぎるというのも問題でしてね。増えすぎた命は、資源の枯渇を生む。そうなる前に、ある程度の人間を間引くことも大切なのですよ」
「鬼たちが暴れ、ある程度の間引きができた頃に、わし等は丁度よい幼子を見繕い、鬼を倒すための戦士として育てる。あとはそやつにきびだんごを使って力を与え、同時に各地の有力な戦士たちを巻き込み、鬼と諸共に滅んでもらえば万事解決、というわけじゃ。不思議なことにな、そうなると人間たちは鬼の被害から立ち直るために力を合わせようとする。これからは平和な世が訪れるのだと、そう口を揃えてな。じゃがそんなものはまやかしにすぎん。数十年もすれば、記憶は薄れ、また人間どもは過ちを繰り返そうとする。そうなれば、ほれ、また人間たちを団結させるための敵が必要となるじゃろう?今度は鬼を倒した戦士たちが鬼として復活し、また必要なだけの間引きを始める。鬼の数が足りなければ、そこらの捨て子にでも果実を与えて殺せば良い。わし等はな、そうやってこの繰り返しを続けてきた。気が遠くなるほどの年月、鬼と人間の殺し合いを生み出し続け……そうして、今の世の安定は保たれている。人類がこの星に生まれて数千年というが、その歴史の中において、これほど長く、安定した繁栄を手にした国はなかろうさ」
彼らは、こんなことを何十回も続けてきたのだという。俺が成長して鬼を倒すまでの年月を考えれば、これまでの繰り返しで途方もない時間が経過していることは想像に難くない。
ならば当然、彼らは人間としての寿命をとうに終えているはずだ。
それでも彼らが生き続けているというのなら、答えは一つ。
彼らもまた、楽園の果実を食したのだ。その結果彼らは不老の力を得て長き時を生き続け―――その果てに、狂ってしまった。
彼らは既に人間ではないのだろう。鬼の姿こそしていないものの、その在り方は既に歪んでしまっている。だって、願ったはずの平和な世界を、彼らは諦めてしまった。
今の彼らはただ、形だけを取り繕って人間というエサが滅びないように停滞をもたらしているだけだ。飽きるほどの長い年月を経て心を麻痺させた今の彼らにとって、犠牲となる俺のような人間を眺めて嗜虐心を満たすことが、ささやかな楽しみになっていたのだろう。
―――それこそが、彼らが最も忌避したはずの人間の残虐さだと気付く心さえ失って。
彼らの理想、それそのものが根底から間違っているとは思わない。
争いのない平和な世界……それは、誰もがこうであってくれたら良いと夢見る理想だ。
だが、そんなものは決して叶えることはできない。だから彼らは、人間たちをこの繰り返しの中に閉じ込めることを選んだ。選んでしまった。
決して滅びることはなく、しかし同時に救われない犠牲を生み出し続ける世界を。
それは、前進ではなく停滞を。変化を拒み、永遠を願ったが故の選択だ。
それが間違っているのか、そうでないのかは俺にはわからない。
俺は彼らに育てられ、鬼を倒すための戦士となり、そう請われた通りに鬼を倒した。
この広い世界を、そのほとんどを知ることもなく、ただ"鬼が人々を苦しめているから倒す"などという甘い言葉に酔いしれていただけだ。
そんな俺が、この世界の何を語れるというのか。
だから、彼らのその願いが、今の停滞した世界が正しいものであったのか。それを判断する資格は、俺にはない。
……共に旅をした仲間たち。人々を苦しみから救い、戦おうと自ら決意した彼らならば、その答えを出せたのだろうか。ただ流されるままに剣をとった俺のような道化とは違って。
俺が生まれ育ち、鬼を倒すために旅立ったこと。
各地の戦士たちと仲間になったこと。
戦いに敗れた仲間たちがいずれ鬼になること。
これまでの出来事は、いずれもお爺さんたちの目論見通りでしかなかった。
彼らにとって誤算だったのは、俺が生きたまま帰ってきてしまったことだけだ。
事実、鬼たちとの戦いの中で俺は何度も死にかけた。
無様にも生き残ってしまったのは、俺がまさに命を散らすその瞬間に、その身を擲ってでも助けてくれた仲間たちがいたからだ。
死の覚悟など、何度したかだってわからない。それほど、あれは絶望的な戦いであった。
俺は彼らの犠牲の上に生きている。全てを失ったこの俺に、唯一拠り所があるとしたらそれだけだ。俺は彼らに生かされた。だからこそ、どんな無様を晒すことにことになってでも、生きてお爺さんたちのもとに帰るのだと、そう気力を振り絞ってこられたのだ。
今はもう、それすらも意味があったのかわからないけれど。
……それでも。それでも、全てを諦めて、投げ出してしまえない自分がいるのは何故だろう。
だって、心は既に折れている。身体はもう動かせそうにない。かろうじて口元だけは動かせたとして、これ以上彼らと言葉を交わして何の意味があるだろう。
だから、自分に出来ることなどもう何もない。あとはただ、このまま鬼となり果てるその時を待つだけ。そう、そのはずだ。
……そのはずなのに。
頭の中で声が響く。こんな愚かな自分を大将と呼び慕ってくれた、彼らの声だ。
何もない自分と違って、彼らには帰るべき故郷があった。守るべき家族があった。見届けるべき未来があった。……その誇りを胸に懐いたまま、こんな自分に後を託して笑いながら死んでいった。
どうして、彼らは笑っていられたのだろう。身体中ボロボロになって、血塗れになって、酷いときは身体に穴が開いていたり、下半身が丸ごと吹き飛んだりしたこともあったのに。
それでも、彼らはいつだって笑いながら死んでいった。『後は託した』と、祈るような声で告げて。
数人が犠牲となった後。野営の準備を共に行っていた相方に、尋ねてみたことがあった。仲間たちの中でも最も調子がよく、けれど剣の腕は誰よりも確かだった、周囲から"猿"と呼ばれていた男だ。
『何故貴方たちは笑って死ねるのだ。死ぬのが怖くはないのか?』
そう尋ねた俺に、彼は心底可笑しそうにケタケタと笑って答えてくれたことを覚えている。
『そりゃあ怖いさ、誰だって死ぬのは怖い。でもな、大将。ここにいるのはどいつもこいつも、鬼どもの恐怖にただ怯え、引きこもっていることを良しとしなかった阿呆どもだ。せっかくなら最後にひと暴れやってやろうっていう馬鹿どもだ。そんな連中が、最後にブルって死んじまうわけにはいかねぇだろ?だから俺らは笑うのさ。命を散らす、その瞬間までな』
彼らは信じて、託していった。自分が倒れても、仲間がその想いを背負い、戦ってくれると。
彼らが抱えていた、帰るべき故郷への想いも、守りたかった家族への願いも、叶えたかった未来の夢も、全て背負ってやると誓いを立てる。誰が始めたのかもわからないが、そうやってみんなで弔ってやるのが死人が出た時の決まりだった。
背負ってくれる仲間がいるから、自分たちは後を託して死ねるのだと。
どこまでも気高く、いつだって楽しそうに笑っていた。
そう、死に行く彼らに自分は約束したはずだ。『貴方たちの想いを最後まで背負う』と。
……こんな無様を晒しても。彼らの戦いに泥を塗ることしかできない弱い自分でも。
彼らに託された想いだけは、踏みにじらせるわけにはいかないと思った。
それは強い意志によるものでもなければ、決死の覚悟でもない。言ってしまえば、ただの意地だ。ただ、彼らと過ごした時間がお爺さんたちの掌の上で踊らされていただけの、無駄なものであったなどという現実を認めたくなかったというだけ。
そんなちっぽけ意地が、最後の最後で自分に諦めることを許してくれなかった。
彼らの想いを託された自分が、こんなところで死んでいいわけがない。例え死ぬとしても、恐怖も、悔しさも、惨めさも、少しだって認めてやるものか。最後は彼らと同じように笑って死んでやる。膝を屈して、絶望に飲まれながら死んでいくなど―――そんな許し難い裏切りを、認められるわけがない!
「く、はは……あはははははは!」
そう思うと、自然に笑みがこぼれてきた。
そうだ、笑え……!歯を食いしばれ、口角を上げろ。どんなに無様でも笑い続けろ!
『貴方たちの想いを最後まで背負う』……こんな何もない自分だけれど、その言葉だけは嘘にしてしまわないように。
「……なんだ、気でも狂ったか?」
お爺さんが、訝しげに問いかける。彼らの孫として過ごした中では見ることのなかった、冷徹な瞳。それにも、もう怯む必要はない。
「ああ、気ならたぶん、最初から狂ってたさ。……それを、思い出しただけだ」
お爺さんたちへの愛情も信頼も消え失せたとしても、共に戦った仲間たちから託された想いがある。その未練を次の誰かに託すまで……託された自分が死ぬなど許されない。
―――だから、受け入れる。
俺は―――俺"たち"は、こんなところで終わるわけにはいかない。そのためなら……
「なぁ、最後に一つ、教えてくれ。そんなことを繰り返し続けて、結局神様は一度でも戻ってきたのか……?」
「―――ッ!!」
それだけは、聞かれたくなかったのか。
二人はまるで鏡合わせのように、同じタイミングで顔を歪めた。しわだらけだった顔が、より一層くしゃくしゃになっているのが見て取れる。
その反応だけで、答えはわかった。いや、きっと聞くまでもなくわかっていたことだ。質問をしたのは、ただの確認に過ぎない。
先ほどの話を聞いただけでも、彼らがその神様とやらに焦がれていることはよくわかった。全てを失った彼らが願ったのは、人類の継続などではなく。ただもう一度、胸を張って彼らの神を迎えてやりたいと……人間の愚かさに失望し、この世を去った神様に、また人間を好きになってもらいたいと。そんなささやかで傲慢な願いだったのだろう。
けれど、神はもう二度と彼らに応えることはなかった。それはきっと、彼らにとって何よりも耐え難い苦痛だったはずだ。それを受け入れられず、無意味と知りながら繰り返し続けることしか出来なかったことが、彼らにとっての地獄だった。
「……そうか。いや、その答えがどうであれ、俺に貴方たちが正しいとか間違ってるとか、そんなことを言うつもりも、その資格もない。ただ……俺の答えは決まった。悪いなお爺さん、お婆さん。どうやら、俺は貴方たちの望み通りにここで死んでやるわけにはいかないらしい」
「ふん、もはや指先一つ動かせぬ状態で何ができると……」
―――瞬間、一閃。
倒れ伏した状態から勢いよく跳ね上がり、腰に差した刀を居合の要領で振りぬいた。
「……!?」
横一文字に刀を薙いで、眼前にいたお婆さんの身体を両断した。
とっさに手に持っていた包丁を盾にしようとしたようだが、そんなものは障害にもならない。鬼の身体すら貫いた剣閃は、油断しきっていたお婆さんの身体を過たず切り裂いた。
「貴様、何をッ!?いや、それよりもなぜ動ける!?毒の効果は、まだ十分に続いていたはずだ!!」
眼前で行われた蛮行が信じられないのか、お爺さんはこれまでの落ち着き様からはかけ離れた取り乱しようだった。
……何百年もこんなことを繰り返し、生き永らえておきながら。それでも、死ぬのは怖いらしい。
そう思うと、なんだか酷く滑稽に思えてきた。出来損ないの神様を気取った、その末路がこれか。
「別に、そう不思議がるほどのことじゃないさ。毒はまだ身体に残ったままだ。"人間のままの俺だったら"、今も床に這いつくばっていた」
「な……に……?」
そうこぼしたお爺さんを見据え、再度刀を振るう。必死に距離をあけようと足掻いていたようだが、"鬼の脚力"の前に、そんなものが意味を成すはずもない。
一瞬で距離を詰めた俺は、そのまま刀を袈裟切りの要領で振り下ろし、お爺さんを肩口から綺麗に切り下した。
眼下に転がる二人の身体を睥睨する。
二人とも間違いなく致命傷だ。
そのあまりにもあっけない幕切れは、少しばかりの寂寥感を懐かせる。
ふう、と一つため息を吐くと、刀に付着した血液を振り払い納刀する。
―――その時。背後から、聞こえるはずのない声がした。
「……なるほど、あえて人間としての自分を捨て鬼と化すことで、毒の効果を打ち消したわけですか。ええ、ええ。そうですね、人間ではない鬼に人間の毒など効くはずもない。私たちとしたことが、そんなことを見落とすなんて……まったく、耄碌したものです」
「……驚いたな。身体を両断されても死なないのか、貴女は」
語りかけてきたのは、お婆さんだった。身体は真っ二つに分かれ、引きちぎられた胴体からは大量の血と臓物が溢れている。それでもどういうことか、彼女は顔色一つ変えずに微笑んでいた。
そんなお婆さんとは対照的に、同じように倒れ伏したお爺さんが言葉を発することはない。彼も同様に意識を保って入るようだが、先ほど切られた際に肺を潰されたためか、声にならない声をぜえぜえとあげたまま、こちらを射殺さんとばかりに睨みつけているだけだった。
お婆さんはそんなお爺さんの心情を代弁するかのように怒りを込めて、けれど同時に愉悦を滲ませながら言葉をつづけた。
「いえ、いえ。流石にこうなってしまってはもはや生き永らえることは不可能ですよ。貴方が屠ってきた鬼たちも、不死身ではなかったでしょう?しかし……まったく、愚かなことをしたものです」
「別に、大したことじゃないさ。貴女たちが教えてくれたのだろう?俺はどのみち鬼になると。そう自覚したのなら、あとは進んで受け入れるだけで良かった」
「いえ、いえ。そういう意味ではないのですが。やれやれ、そんな風に育てた覚えはなかったのですがね……まったく、どこでこんな無茶を覚えたのやら」
まったくしょうがないなぁ、とでも言うように穏やかに笑うお婆さんの笑顔は、不思議と晴れやかで。そんなお婆さんが地に伏せ、血を流しているその光景が、この胸を締め付けた。
―――もはやそんな心すら残っていない、鬼となったはずなのに。
俺がしたことは至って単純。彼らの話から、俺の身体が鬼と化しつつあるのを知ったのだから……あとはただ、それを積極的に受け入れてやっただけだ。
人間であることを捨て、不可逆の変質を受け入れる。自分が自分でない化け物に代わっていく感覚というのは、どうにも変な心地ではあったが……あのまま何もできずに殺されるよりは余程よかった。……いや、仮に人間としての肉体を滅ぼされたとしても、俺の身体はいずれ鬼として復活したのだろうが。それでも、ただ流されるだけの運命を受け入れるのではなく、自ら運命をつかみ取ることを選びたかった。
その結果が、この中途半端に自我を残した鬼化だった。やがてこの残った自我も消え果て、他の鬼のように破壊衝動に飲まれるのだとしても、今この一時は紛れもなく自らの意志で動くことを選び、不条理な運命を与えたものを切り払った。
俺が鬼となり果てる結末に変わりはないが……それでも、これで今後お爺さんたちが鬼を生み出し続けることはもうないだろう。
ならばこれは、彼らが予定していたものとは違う……俺自身がつかみ取った結末だ。
「本当に愚かな子ですこと……わかっているのですか?貴方は結局、この後鬼になるのですよ?貴方だけではない、この先貴方が共に旅をした中で果実を口に入れた者たちを含めて、多くの者達が鬼となり……その時、貴方のように鬼と戦う者はいない。いや、仮にいたとして、楽園の果実が……きびだんごがない以上、鬼に対抗することは不可能でしょう。そうなれば、人間たちが最後の一人になるまで、鬼は……貴方は、人間を虐殺し続けることになる。貴方が選んだのは、そういう道です」
その声は、まるで他人事であるかのように突き放す、嘲笑を含む声音だったけれど。
……どこか、真摯な想いを感じさせた。
彼女は今、どんな思いでその言葉を発しているのか、それはわからない。
彼らの操り人形でしかなかった自分には想像もつかないような長い年月を経て、こうして死に直面している今を、彼女はどう受け止めているのだろう。……そんな延々と続く益体もない考えを、かぶりを振って打ち消した。彼女らの手を振り払い、切り捨てた自分が彼らを理解しようなどと考えるのは、きっとおこがましいことだと感じたから。
「いいや、それは違うさ」
だから、俺が彼女に告げるべきなのは……この先に待ち受ける未来への、俺なりの答えだ。
「確かに鬼は強いし、人間は愚かかもしれないけれど……それでも、きっと最後には人間が勝つ。鬼になった俺を殺して、仲間たちの想いを未来に託してくれる人間がきっと現れる」
「馬鹿な、どうやって……」
「そんなもの、簡単だろう?仲間と力を合わせて、だよ。俺たちはそうやって鬼を倒してきた。なら、次の"誰か"にそれができない道理はない」
だから俺は、鬼として、俺を殺しに来る"誰か"を待ち続けるだけでいい。
……そうすれば、俺が最後に見るのは、きっと人類の希望になるはずだから。
「それはきびだんごの……楽園の果実の力があってこそのものです。ただの人間がいくら束になったところで、鬼に敵うはずが……」
「いいや、勝つさ。……ああ、そうだ。結局、果実の力なんて些細なものだったんだ。俺たちが鬼に勝てたのは鬼より強かったからでも、鬼より速かったからでもない。追い詰められて苦しかった時も、仲間を失って心が折れそうになった時も、前を向いて立ち上がれたのは果実のおかげなんかじゃなかった。確かに果実は俺たちの力を引き上げていてくれたのかもしれないが……それでも、俺たちが鬼に勝てたのは、どんな時でも支えて、共に歩んでくれた仲間がいたからだ。果実なんて、それに比べればほんのおまけでしかない。だから俺は、次に鬼と戦う人間たちも同じように立ち上がれるって信じられるんだ」
「……ふ、ふふふ……仲間だの信じるだのと……なんとまぁ青臭いことを……ええ、ええ。本当に愚かな子です。今更そんな儚いものに縋って鬼になろうだなんて……ああ、まったく虫唾が走る。それを踏みにじってきたものこそがお前たち人間だというのに……」
力なく笑うお婆さんの目は、既に光を失っていた。これだけ血を流しているのだ、もう長くはもたないのだろう。
「……ですが、ええ。好きになさい。どんな結末になろうとも、それは貴方が選んだ道ですから。私たちも……地獄から見守っていましょう……」
その言葉を最後に、お婆さんは動かなくなった。
見れば、お爺さんも既に事切れている。
「ああ、見守っていてくれ。お爺さん、お婆さん……」
俺は彼らを許すことはできない。こんな悲劇を招いたことも、俺を騙して殺そうとしたことも、仲間たちの戦いを踏みにじったことも。……けれど、彼らが最初に願った平和への祈りそのものは、きっと間違いじゃなかった。彼らが失意のうちに選んだ道は、確かに人間同士の争いをなくしたし、鬼との闘いを除けば人々は健やかな日常を過ごしている。
彼らの行いは決して正しいものだったとは言えないけれど、全てが過ちだったとも俺には言いきれない。だから俺が彼らを殺したのは、ごく個人的な理由によるものだ。
俺が選んだこの道の、その先に何があるのか、何が待ち受けているのか。
それはまだわからないけれど。
……ああ、大丈夫だ。人間は何度だって立ち上がれる。
だから待ち続けよう、その瞬間まで。俺を殺しに来る戦士。鬼を打ち倒す人間の希望。
―――それはきっと、とても素晴らしい結末だと信じて。
その日を最後に、俺は―――■■■■■は、人間としての生を終え。ヒトを喰らう、鬼となった。
* * * * * *
―――昔々、あるところに、お爺さんとお婆さんがおりました。
辺境の片田舎にてひっそりと、しかし穏やかな生活を続ける彼らには、立派な孫が一人。
お爺さんとお婆さんの愛を一身に受けてすくすくと育ったその孫は、近隣諸国を荒らして回る鬼たちを討伐するため、彼奴等の根城、鬼ヶ島へと向かったそうだ。
吉備の団子を腰に携え、陣の羽織をその身に纏う。日ノ本に並び立つものなしと謳われた大英雄。
―――ああ、きっと彼の者ならば、あの邪知暴虐の鬼どもを、必ずや討ち果たしてくれようぞ、と。
誰もがそう信じ、ついにはその通りに鬼を成敗して見せた、その者の名は―――
* * * * * *
……ああ、待っていた。鬼となり果て、人としての記憶も失い、もはや破壊衝動に飲まれ殺戮を繰り返す我が身なれど。
鬼を殺し、平和を取り戻さんとする戦士。
あれなる者は長き旅路の艱難辛苦をものともせずに、襲い掛かる鬼どもを打ち払い、仲間とともにこの鬼ヶ島まで辿り着いてみせた。
……間違いじゃなかった。もう、思い出すこともできないけれど。
俺が信じたものは、間違いなんかじゃなかった。それが、この胸の裡を喜びで満たしてくれる。
だから戦おう。あの時信じた通りに。
この命が尽き果てるとき、この眼が最後に映すものこそ……
忘れるものか、見失うものか。
あれこそまさしく、人類の希望。
「―――ああ、待っていたぞ、桃太郎……!!」
というわけで桃太郎ではなく、モモタロサァンに倒される鬼さんのお話でしたとさ。
最後までご覧いただきありがとうございました!
ちなみにこの後はモモタロサァンに倒されて何故か記憶と人格を取り戻した鬼男くんと実は女の子だった桃太郎ちゃんのハートフルラブコメをしてすったもんでイチャラブハッピーエンドになります(適当) ヤッタネ!