恋 -ren-
「ただいまー」
午後8時。帰宅後リビングに向かうと、黒いエプロンを着けてキッチンにいた夫――浩隆に出迎えられた。
「お帰り。思ったよりも早かったね。石沼君との勤務後デートは楽しめた?」
「うん。なんかお土産も貰っちゃったし」
「よかったね。夕食は?」
「あ、済ませてきたから。それより、なにしてたの?」
手に持った調理用のボウルに視線を向けると、ああこれねと小さく笑う。
「持ち帰った仕事を片付けていたら、急に甘いものが食べたくなってさ。戸棚から板チョコを見つけたんだけど、そのまま食べるのも味気ないから」
いいながらキッチンカウンターの上のバットに視線を移す。
「これトリュフ? もしかして作ったの?」
「ああ。ネットでレシピを検索したら、意外と簡単そうだったんでね」
いよいよ自作に手を出したか、と半ば呆れ、半ば感心する。スイーツ男子もこのレベルまでくれば大したものだ。
「カナちゃんが帰ってきたら、一緒にたべようと思ったんだ」
その言葉を受けてはっとし、咄嗟に手にしていた紙袋に気をやる。少し迷った後、諦めてカウンターの端にそれを置いた。
「どうかした?」
「ううん、なんでもない」
そう? と首を傾げつつ、彼は耐熱ガラスのボウルをシンクに置く。ふとその親指の腹に、縁に残っていたチョコレートがひとすじついたのが見てとれ、反射的に思いついた。
「あ、待って」
近づいて、蛇口に伸びかかったその手を掴む。
「ん? なに?」
「せっかくだから、味見させてよ」
「え」
戸惑う声をスルーして、言うなりそれを直接舐め取る。直後舌の上に乗った濃厚な甘さ。そしてふんわりと口の中に広がり、鼻から抜けていった独特の香りに、使われた隠し味を察して顔を上げた。
「ねぇ、もしかしてこれって日本……」
得意げに放ち答えを待つつもりだったのだが、間近に見たその表情に動きが止まってしまった。
「ヒロ?」
「え? あ……っ」
かちあった視線に慌てて口元に手をやり顔を背ける彼。その赤みの増すばかりの面に驚いて問うた。
「ちょっとどうしたの? 熱でもあるんじゃ」
「違う、なんでもないよ! なんでも……ないから」
慌てて返される弁解と共に、目許に垣間見えた強い恥じらいにピンとくる。
もしかして。
状況と照らし合わせて確信を得ると、途端に香奈のうちに悪戯心が湧き上がってきた。滅多に訪れない優位性に気を良くして、思わず口元に笑みが浮く。
「……ねぇ、ヒロ」
「なに?」
「もう一口、食べたいな」
上目遣いに、いかにも可愛らしく演じながら覗き込む。すると彼がいよいよ困ったような反応を示した。
「いや、でも」
「おねがい」
あくまで畳み掛け、意地悪に追い詰める。それを受けてこれ以上ないくらいに――それこそ茹だったかのように染まる肌。そこにとてつもない艶を感じながら、内心にんまりとほくそ笑み、陥落の瞬間をじっと待った。
「……じゃあ」
少しかすれた、弱々しい声。
「なあに?」
「あと一口だけなら」
言いざま、バットから小振りな塊をひとつつまみあげる。
「これでいい?」
「ありがと」
にっこり優雅に微笑んで返しながら、彼の手に自分の両手を重ね合わせて引き、顔に近づける。
「いただきまぁす」
そうしてことさらにゆっくりとかじりつく。歯を立てる際に意識して――必然を装いながら――指先を唇で掠めると、触れるか触れないかの刹那に、彼の手がひくりと反応したのがわかった。
「……っ」
「ん、やっぱり美味しい」
無頓着と無邪気さを被せ、続けざまに三度同じように唇を寄せる。みたび繰り返された反応に、胸に湧く甘露をも同時に味わった。
「もう、いい?」
「だぁめ。それも」
逃げようとする手を強く握り止め、人差し指に溶け残ったチョコレートを再び舐めとると、明らかな鋭い息が彼の唇から洩れ出した。
「ヒロ?」
試すように言いつつ、最後残った親指に狙いを定めて――完全なる勝利を覚ったその瞬間。
彼が突然自分の顎を引き、親指の腹に残ったそれを唇に押し当てるや、そのままするっと横に引く。まるでルージュのように乗った芳醇な香り。驚いている間に強く抱き寄せられると、次いでやわらかに唇が重ねられた。
いやそのまま舐めとられる。薄い皮膚の上を走ったあたたかな体温と生々しい感触に、体中の血が瞬間的に沸いたような気がして、頭のなかが真っ白になってしまった。
「……大丈夫?」
どのくらいの時間が過ぎたものか。誰あろう彼の声で我に返るや、身体から一気に力が抜けてしまい、咄嗟にその胸にしがみつく。顔に膨大な熱を宿しながら、見越されていたのか、しっかり支えられるようにして身体を包みこまれた。
「どうしたの?」
「あ、別に、なんでもっ」
先程までと立場は一転。からかう余裕まで感じられる、楽しげな声色に少し悔しくなる。けれどそんな怒りも、頬に触れた髪から漂う香りにすぐさま失せてしまった。
「カナちゃん、聞いてもいい?」
「え?」
「お土産ってなに?」
耳元でひそりと囁きかけられてぞくりとしつつ、しばし回想する。
親友の由梨亜との仕事帰りデートの最中、彼女から勧められたショコラティエの一品。そして渡された小さなプレゼント。
『素敵なバレンタインの夜を』
含みを持たせた去り際の台詞に、ふと彼女の策略を覚った気がした。
「もしかして、チョコレートかな?」
それもある。
だけどきっと、それだけでもなくて。
答えに窮していると、彼がくすりと笑った。
「今度は僕にも食べさせてね」
次いだ誘惑。甘やかなそれに心底うっとりとして。
「……うん」
素直に頷き、腕を彼の背中に回す。
そうして心の中で降参を告げると、総てを委ね静かに目を閉じた。
『My dear Valentine.』