恋 -koi-
「こんにちは」
旧学部棟の一角にある研究室。戸を開けて一歩中に入るなり、この部屋の主である白衣の彼――国枝浩隆の後ろ姿と、机の上に置かれた紙袋が同時に目に入った。
「やあカナちゃん。いらっしゃい」
「……なにそれ」
「ああこれ? チョコレートだよ」
そんなことだいたい想像がつくわよと心の中で毒づく。今日という日、紙袋の中で折り重なる大量の小さな包みに、途端にざわめき始めた気持ちを鎮めようと、高遠香奈は手にした鞄の取っ手をギュッと握りしめた。
「さっき葛原先生のところに寄ったんだけどね。『これを持っていけ』って今年も渡されたんだ」
「今年も、って?」
「ほら今日はバレンタインデーだろう? 先生は有名人だから、内外問わずいつもたくさん貰うみたいでね。でも甘いものが苦手だからって、毎年僕におすそ分けをくれるんだ」
「おすそ分け、ねぇ」
彼は根っからそう信じている様子だが、果たして事実だろうか。色とりどりの綺麗な包みは、勉学の師に贈るにしては少々派手すぎる気がするし、一部からは明らかに贈り主の気合いが窺える。伝聞と視認、両方をすり合わせて考察したところ、ふいにこのチョコレートたちの本当の贈り先に気がついた。
……なるほど、そういうこと。
真の目的たる人物。その本人に渡す勇気と接点が持てず困り果てた者たちが、知恵とコネクションをフルに活用した結果――最も接触する確率の高そうな人物に、恋心の配達を委託することを思いつき、そしてそれが定着したのだろう。加えて恩師からの『おすそ分け』とあらば、正面きって受け取りを拒否されることもあるまいと……まぁ、それはさすがに深読みしすぎか。
いずれにしてもと隣を伺い、そんな思惑になど一切気付いていなさそうな横顔を見て、にわかに湧いた苛立ちを言葉に含ませた。
「大変ねー。貰う代わりに、その分お返しも準備しなくちゃならないんでしょ? それにこの量、まさしく甘いもの地獄よね」
「そんなこともないさ。僕は元々お菓子の類は大好きだし、むしろしばらくの間、チョコレートの確保に困らなくて有難いぐらいだ」
そういうことを言ってるんじゃない、と天然な返しにイライラがなおも募る。そうして、鞄の中にひそませたものにひととき気をやった。
せっかく……いや、こんなことなら、もういっそ隠したまま、何事もなさずに帰ってしまおうか。そんな意固地であまのじゃくな行動にまで考え及んだその時。
「ところでカナちゃん、今日はずいぶんゆっくりだったね。バイトは?」
「え」
突然問われてぎくりとする。
実は休みを取っておいたのだ。去年の春に再会して以降、始めて迎えるバレンタインだからとひそかに期待して。けれど彼がこんな様子では、それも思い直す必要があろうかとため息をつく。
「……あのさ」
「なによ」
「その……カナちゃんは、誰かにチョコレートをあげたことってあるの?」
「は?」
思いもよらぬ問いに驚いた声を上げると、彼がはっとした顔を見せた。
「いや、いいんだ。プライベートなことだし、日本ではそんなこと当たり前なんだろうから」
「それは」
「うん、そうだよね。変なこと聞いてごめん。今の話は忘れてくれていいから!」
慌てて弁解しながら、鼻の頭を掻いたり机を無意味に撫ぜたりと、途端に落ち着きがなくなる。答えを少しためらっていると、ふと彼の耳が視界に入った。
そこだけ真っ赤に染まったそれが。
「……あたしは」
そして次の瞬間には言葉が自然に滑り出す。
「元々そういうやったり取ったりは好きじゃないから」
「え」
「チョコレートなんていつでも自分の好きに食べればいいと思うし、義理だの本命だの区別して一喜一憂したり、期待したり悩んだりとか煩わしいし、後々面倒になるのが目に見えてるもの。だいいち相手に喜ばれるとは限らないじゃない。場合によっては失礼に当たるかもしれないし。だから正直言うと、あんまり関わってこなかったの」
いかにもクールに聞こえるだろうが、実際そうしてきたのだから仕方ない。突き放すようなそれに圧されたのか、彼が少々困ったような顔を見せた。
「そうなんだ……うん、そういうきっぱりしたところ、カナちゃんらしいよね」
一応の納得を見せつつも、どこかしょんぼりと肩を落として。そのわかりやすい反応に、心が切なく震えキュッと締め付けられた。
確かに去年までなら、どこか冷めた目で今日という日を見ていた。
けれど、今年は。
たとえ煩わしかろうが、企業の販売戦略に上手く乗せられようが、そんな些細なことを厭わず突き進む、そんな乙女たちの熱意と心理を初めて理解できたような気がしたのだ。
彼に再会して改めて、自分の気持ちを知ることができたから。
だから、今年は。
「はい」
おもむろに鞄から取り出した小箱をずいっと突き出す。
「たッ、たまにはこういうのをお茶請けにするのもいいかなって」
えっ、と心底驚いたような声が返され、なぜかこちらの顔が一瞬で茹だった。
「たまたまなのよ! ホントにたまたま雑誌に作り方が載ってたから、だからその……一緒に食べようかなって……思って」
徐々に威勢が失せて、終いには恥ずかしくて掻き消えそうな声になる。無言の反応にいたたまれなくなってちらと伺うと、中身をあらためていた彼が、きらきらとその双眸を輝かせて言った。
「これ、手作りなの?」
「まあ一応ね。見た目は不格好だけど、味は多分、きっと、それなりだと思うけど」
もじもじしながらも答えると一層その表情が明るくなる。
「すごい。すごく美味しそう」
いたく感動したらしい興奮気味の声色に、どきんと心臓が大きく跳ね、急激に鼓動が早まった。
「……食べる?」
「うん!」
少年のような邪気のない反応。心底嬉しそうな、幸せそうなそれを目の当たりにしてくらりとめまいが起こった。
「い、今紅茶淹れるから! カナちゃんはそこに座って待ってて。絶対だよ!」
言い置くなり準備を始める彼。大急ぎで茶器を取り出し、ポットで湯を沸かしと、慌ただしいことこの上ない。香奈はほうっと長い息を吐くと、そばにあった椅子を引いてゆっくり腰掛けた。机に肘をついて彼の背中をぼんやり見つめながら、一人ぽそりと呟きを転がす。
「どのみち逃げられないわよ」
さっきみたいに一瞬で心を掴まれて。
きっとこれからも、何度となくさらわれる。
そんな自分で、いたいなと思う。
だから、一緒に。
ふと湧いた、ちいさな願いを抱いて。
香奈は、漂い始めた紅茶の香りを、身体いっぱいに吸い込んだ。