3話 厚切りローストビーフ
なんだアレは。
カウンター席で店内をなんとなしに見回していた――いちおう断っておくが、女の子の尻を見ていたわけではない――オーガストは、ウエイトレスが運んでいる料理に視線を釘づけられる。
なんていうか、そう……
肉だ。
分厚い、肉。
外周部(『表面』ではなく、外周部だ)はよく焼けていて、内部は鮮やかなピンク色――つまり半生だ。
付け合わせなのだろう、同じ皿にはマッシュポテトと茹でた野菜が数種類。
が、注文したドワーフは野菜になど目もくれず、適度な大きさにカットされたその肉をフォークで突き刺し、ガブリ、と食べた。
そのヒゲもじゃの満足そうな顔をジッと見てから――
オーガストは、カウンター内部にいる男にたずねた。
「マスター、あの客が食べているのはなんだ?」
「『厚切りローストビーフ』ですね」
カウンターの中で手際よくカクテルを作りながら、チョビヒゲの男が答える。
細身で背が高く(ドワーフ比)白い肌をしたその男は、このビアホール『異世界』のマスターであった。
変わった料理を出し、変わった酒を出し、たまに変わったことを言う謎多き男である。
そもそもこのビアホールからして『ある日突然鉱山内に出現した』というよくわからない経緯で成立している。
だがしかし、ドワーフの男はいい酒いいメシいい女さえあれば細かいことは気にしない。
蒸し暑い表とは別世界のように涼しい店内で、注文さえすればいくらでもいくらでも冷たいビールが出てきて、このあたりでは見たことがないようなうまいメシを食べられるとあれば、店の不自然すぎる経歴などどうでもいいのだった。
マスターの不明すぎる経歴だってどうでもいい。
そんなことより今は――
「その『厚切りローストビーフ』ってのはなんだい?」
「えーと、肉をですね、巨大なブロックのまま様々な野菜を入れた汁に漬けまして、それからオーブンで焼いたものですね。一見してただのレアステーキに見えるかもしれませんが、食べてみるとあの独特の柔らかさはやみつきですね」
「よし、じゃあマスター、今日はそれと生中だ!」
「はい、かしこまりました」
マスターがカウンターに置いてある装置から中ジョッキにビールを注いでいく。
黄金の液体が七、泡が三というバランス――見るたび思う。なんという美しい仕上がりだろう。
ゴトン、とコースターとともに目の前に置かれるビール。
オーガストは把手を持ち、ジョッキとビールの重さ、そしてジョッキ自体の冷たさを楽しむようにしばし目の前でながめてから――
三分の一ほどを、一気に飲んだ。
「くううう! うまい!」
今日も労働で疲れた体に、冷たいビールが染み渡る。
オーガストが大きく息をついてほろ苦さと独特な甘さにひたっていると――
「ローストビーフになります」
コトリ、と平皿に乗ってローストビーフがとどいた。
近くで見ると、なかなかの迫力だ――たしかにステーキとは違う。平べったい楕円形のその肉は、オーガストがナイフを入れる前から肉特有のピンク色を見せつけ、彼を誘惑していた。
「っていうか相変わらずはえーなあ!」
「まあ、メニュー一覧から選ぶだけですので……」
「おう、そうか!」
「あ、それとですね。ローストビーフは付け合わせのソースが選べるんですよ」
「そうなのか?」
「はい。『グレービーソース』と『和風おろししょうゆ』なのですが」
「名前言われたってよくわかんねえな」
「『グレービーソース』というのは肉汁に調味料や酒などを加えてできるソースです。風味が豊かで、多くのローストビースに添えられる、ローストビーフソースの王道ですね」
「ほう。んで?」
「『和風おろししょうゆ』というのは、大根という野菜をすりおろしたものと、しょうゆです」
「……」
『大根』『しょうゆ』についての事前知識が必要な説明だった。
そしてオーガストに事前知識はない。
このマスターの話を聞いているとたまに思うのだが……
実は彼、あんまり料理をしないのではなかろうか……?
いやまあ、実際にすさまじい手際で料理を提供されているので、たんに説明が下手なだけだろう。
それはそれでどうかという気もするけれど……
「ま、よくわかんねえならとりあえず突っこめってな! マスター! 『和風おろししょうゆ』をくれや!」
「はい」
コトリ、とココットと瓶が置かれる。
白いココットの中に入っていたのは、陶器の白に同化してしまいそうなほど純白の、水分によってだろう、キラキラ輝く涼しげななにかのペーストであった。
ちょんと乗った緑色のものは――
「大根おろしには『ワサビ』が添えられています。ワサビは辛いのでお気を付けください」
「おう、そうか。で、こっちの瓶のが『しょうゆ』か?」
「はい。あまりかけ過ぎるとしょっぱいので、お気を付けください」
「……」
「大根おろし自体も辛みがありますので、お気を付けください」
「……これは食べて大丈夫なヤツなんだな?」
「もちろんです」
三回も『気を付けろ』と言われたのであんまり安心できないが……
ドワーフに後退という選択肢はない。
が、まずはなにもつけずにローストビーフ自体を楽しむことにする。
別に辛いのが怖くて逃げるとかではないのだ。
ローストビーフは最初からてごろな大きさにカットされていた。
オーガストはテーブルにあったフォークで一切れ突き刺す。
それだけでもわかるのは、このローストビーフの芸術的な柔らかさだ。
おおよそ焼いた肉の感触ではない――これは期待が持てそうだ。
ドワーフ特有の大口で、がぶりと肉に噛みつく。
予想通りの柔らかさ。
そして噛めば噛むほどしみ出る、濃厚な、肉のうまみ。
ジューシーという感じとはまた違う、肉汁ではなく肉そのもののうまさが唾液と混ざって口全体に広がるような、えもいわれぬ風味。
噛めば噛むほどうまい。
が、噛んでいるうちに、たしかにソースは必要かなと思った。
肉のうまみだが、肉のうまみだけなのだ。
もうちょっと塩気とかほしい――鉱山ドワーフは労働者なので、塩辛いものが好きな者は多い。オーガストもごたぶんに漏れず、塩気が好きだ。
最初の一切れを飲み込むと、オーガストは次の一切れに大根おろしとわさびを乗せる。
そしてしょうゆを気を付けつつかけて――
ふた切れ目をいただく。
柔らかさはそのまま、肉のうまみもそのまま。
そこに加わったのは、コクのある塩気とシャキシャキとした食感、それから――
「ふぐっ!? ツーンとする!? ツーンとする!」
オーガストは思わず鼻をおさえた。
そして慌ててビールを飲む。
ゴクゴクと炭酸の液体を飲めば、『ツーン』は次第におさまっていく。
プハー、と息をついて――
「いや、おどろいたな。辛いっていうか――ツーン、だな」
「ワサビの辛さはチリペッパーなどと違いますからね。なじみのない辛みだったでしょう?」
「そうだな。だが――悪くねえ。ワサビ自体にはびっくりだが、ビールと合う。特にツーンのあと飲んだビールはすごくよかった」
「そう言っていただけると幸いです」
「でもちょっと変わった辛さだってんなら、そんぐらい教えてくれよなあ」
「びっくりしていただけるかなって」
マスターは笑っていた。
この穏やかで生真面目そうに見える細い男は、冗談なのか本気なのかわからない発言をたまにする。
まあ細かいことだ。ドワーフなら気にしない。
オーガストが気を取り直しつつ三切れ目をフォークに突き刺していると――
「あー、オーガストさん、ローストビーフ食べてる!」
背後から、甲高く、どこか幼い、大人びた声(ドワーフ基準)がした。
椅子を回しつつ振り返れば――
そこにいたのは、胸元の大きく開いた、丈の長い衣装――ディアンドルをまとった、女性ドワーフがいる。
手足がぷくぷくし、胸や尻のむちむちしたナイスバディ(ドワーフ基準)のその女性は――
「ぶ、ブリギッテちゃん……!」
ビアホール『異世界』の看板娘だとオーガストが勝手に思っている美人ドワーフのブリギッテであった。
彼女はオーガストの隣にまわり、
「どう、おいしいでしょ? あたしも好きなのよ、ローストビーフ」
「そ、そうかい」
オーガストはしどろもどろだ。
その様子を見かねたのか、カウンター内部のマスターが、
「ブリギッテさん、あまりお客様を困らせないように」
「大丈夫よ! だってオーガストさんとは同い年の仲良しだもんね?」
ブリギッテがかわいくウィンクする。
オーガストは首のあたりが壊れた人形みたいにガクガクうなずいた。
「そ、そうだブリギッテちゃん、ローストビーフ好きなら、ひ、一口どうかな?」
「え!? いいの!? ねえマスター、オーガストさんが!」
きらきら目を輝かせる。
マスターは苦笑し、
「……まあ、この世界的の文化的には『アリ』なのかな」
なにかよくわからないことを言った。
よくわからないことを言われた時、ドワーフは自分に肯定的な返事だと思う習性がある。
「マスターがいいって! じゃあオーガストさん、あーん」
「あーん!?」
彼女は口を開けて待機している。
オーガストはだんだん体が震えてきた。
しかしがんばってフォークに突き刺したローストビーフを落とさないよう気を付けつつ――
ブリギッテの口に、肉を一切れ、詰めこんだ。
「もぐもぐ。うーん、おいしい!」
「……」
「ありがとねオーガストさん! あ、向こうでお客さんが呼んでるから、じゃあね!」
ブリギッテが慌ただしく去って行く。
オーガストはフォークを見詰める――それは肉をねじこむ際に、ブリギッテのプルンプルンした唇に少し触れた代物だった。
オーガストはフォークを手にしたまま――
真剣な顔でマスターへ向き直る。
「なあ、マスター」
「なんでしょう?」
「このフォーク、買い取らせてくれないか?」
「……すみません、ウチはお酒とお食事の店なので……」
マスターは苦笑していた。
オーガストはそれからしばらくねばったが――
フォークは売ってもらえなかった。