89「オトモダチ作戦」
パッと真っ赤な血が視界に広がった。
転がりながら後先考えず跳ねた。
ユキトラの俊敏さは想像以上のものだ。
万が一でもラナに近づけさせるわけにはいかない。
咆哮を上げながらユキトラに襲いかかった。
伸ばす。
腕を伸ばす。
首根っこを引っ掴んでぶん投げた。
満身の力を込めた俺の技にさしものユキトラも抗することができない。
彼方にあった大木の幹に身体を打ちつけると昏倒した。
積もった雪がどさどさとユキトラの身体を覆い尽くした。
「そうだ。ラナは」
ヴィオレットが駆けて行った方向を見た。
雪面はなにもないのでラナとそれを追うヴィオレットの姿が見渡せた。
ヴィオレットが制止の声を張り上げているが混乱状態になったラナはただ逃げることで精一杯の様子だ。
マズい。
この先には小川がある。
ラナの小さな姿が間道を逸れてゆくのがこの位置から分かった。
新雪で埋もれているため足元の状況などまったくわからない。
この寒さの中で冷たい水に落ちればラナの年齢ならば生死にかかわるだろう。
ブルトーザーもかくやという勢いでラッセルをはじめた。
頼む、間に合ってくれ――!
目の前では紫のマントを翻したヴィオレットがラナと距離を詰めてゆくのが見える。
雪を蹴り飛ばすのももどかしい。
あと、ちょっと。
あと、もう少し。
小川のあった地点にラナが差しかかった。
「止まれーっ!」
あらん限りの声で吠えた。
「てやっ!」
同時に追っていたヴィオレットが両手を差し出してラナを抱きかかえようと跳んだ。
ナイスだ。
が、予想とは裏腹に。
仔トラを抱えていたラナはぴょーいとばかりに素晴らしいジャンプで小川を飛び越えて対岸にあった木の根元に着地する。
「うゆ?」
ラナは暴れる仔トラを抱っこしたまま首だけこちらに向き直った。
「あー」
ホッとした瞬間にヴィオレットの姿が雪の中に埋没した。
ああ、つまりは――。
小川の上に張った薄皮の氷を踏み抜いて落ちたんだね。
「じゃなくてだ!」
俺は急いで極寒の小川に落ちたヴィオレットの救出に向かうのだった。
当然のことながら、この季節にずぶ濡れになるという行為で騎士ヴィオレットはもろに体調を崩し、その日のお昼には熱を出して寝込むこととなった。
「へっちょいっ!」
ことの発端はラナが不用意にロムレスユキトラの仔に触れて母親トラの逆鱗に触れたことにあった。
無論のこと、仔トラちゃんはそうっと母親トラの横に返しておいたので、俺たちが危険に晒されることはもうないだろう。
世の中ラブ&ピースだぜ。
「ごめんなしゃーい」
「まったく。たまたまクマキチさまが気づいたからよかったものの。不用意に森の動物に触れちゃダメだってあれほどいっておいたでしょう」
「ふえぇ」
ルルティナは無論のことラナの余計な行動を叱ったものの、ヴィオレットのラナを助けようとした犠牲的な行動にとまどっている様子だった。
さもありなん。ルルティナは徹底しての人間嫌いであり、彼女の中でロムレスの騎士などは残虐極まりない人物でなければならないのだ。
一方、ルルティナを除けば、失敗したけれども我が身を顧みずラナを救おうとしたヴィオレットの英雄的行為はほかの姉妹たちに受け入れられたらしい。
熱を出して昏々と寝入るヴィオレットを囲んでアルティナや三つ子ちゃんたちは懸命に看病を行っている。
てか、アルティナは火で炙った燻製肉をぐいぐいと横になっているヴィオレットの口元に押しつけている。
そ、それはどうかと思うぜ。
「リリティナ。そういえばヨーゼフにわけてもらった薬はまだ結構残ってたっけ?」
「ええ、クマキチさま。彼女が回復するためには充分過ぎるほどですよ」
俺はシロクマになってから風邪ひとつ引かない強靭な肉体だし、ルルティナたちも健康優良児なので基本的に病気とは無縁だ。
はじめてコイツが役に立ったなぁ。
俺はリリティナが微笑みながら手渡してきた薬箱を開けると、薬の残量を調べた。
これらはアルムガルドの街でしか手に入らない、僻地では貴重なものだ。
紙に袋詰めされた薬はどこか漢方薬を思わせる。
ヨーゼフに聞いた話では、なんでもこれらは王家御用達の錬金術士が調合した薬で、並の市販品とは違って抜群の効き目があるそうな。
「とりあえずヴィオレットのおかげでラナがどぼんしなくてすんだんだ。彼女は命の恩人さ。俺たちでつきっきりで看病して元気にしてあげなくっちゃあな」
「ラロおせわするよっ」
「ラナはごおんをかえすよっ」
「ララもがんばるぅ」
三つ子ちゃんたちはおおっとちっちゃな拳を突き上げると、妙な踊りを踊りながら寝入っているヴィオレットをぐるぐると回り出した。
呪いの儀式かな?
「うるさいからやめる」
アルティナがラララ三姉妹のおでこを順番にぴしぴし叩いて踊りを強制的に排除した。
わけのわからん行動を取るからこの子たちは要注意だなぁ。
「……それにしたって、なにもこのニンゲンをここまで厚遇しなくったって」
ルルティナはどうしても納得でないのか、いつもとは違ってみんなの輪から外れて唇を尖らせブツブツとつぶやいている。
うーん、あんまりよくない兆候だけど、こればっかりはどうしようもないよね。
俺個人としては、ヴィオレットはお間抜けなだけであって害はないと思うんだけどね。
早朝からいろいろなことがあったが、とにかく大事はなくてよかったよ。
俺は就寝したみんなの健やかな寝息を聞きながら、ひとり囲炉裏の前に腰を据えてゆったりともの思いに耽った。
パチパチとほのかに灯る炭の赤さを見つめながら、棒の先で灰を弄ぶ。
本当ならゴホゴホと咳をするヴィオレットの寝場所は分けなければならないのであるが、この極寒の季節にそんなことをすれば病状が悪化するだけだ。
俺としては感染しないことを祈るばかりだぜ。
ゴソゴソと毛布が動く。リリティナだ。
「クマキチさま。寝つけないのでしょうか?」
「んん。いやさ、ちょっとシロクマなりに来し方行く末を思っていたのさ」
「ふふ。それでは、よき妻である私がそんな旦那さまのためにお茶を淹れますね」
サラッと爆弾発言はやめていただきたい。
そんな男心を知ってか知らずか。
リリティナは手早く湯を沸かし、お茶の用意をはじめた。
彼女が淹れたのは普通にグリーンティーだ。
西洋風な世界だから紅茶かと思いきやそんなことはなかったぜ。
「あちち」
「ふうふうしましょうか?」
「いや、平気だよ」
「そうですか」
杯とにらめっこしている間に、リリティナは空いている俺の左手を取って肉球マッサージをはじめた。
デッカい俺の手のひらの裏にある真っ黒な肉球は分厚いタイヤのように固くなっている。
ルルティナは香油を自分の手にまぶすと、ひとつひとつ丹念に俺の肉球を揉み解す。
なんともいえない心地よい感覚にこの身をゆだねる。
ああー、気持ちいいんじゃあー。
「だいぶお悩みのようですが」
「うーんと、そんなことないかな。気のせい気のせい。ははは」
「姉さんのことですよね」
「ぎくぎくっ」
肉球を揉む力が強まったような気がする。
ぎゅむぎゅむッとリリティナの押さえる指が肉球の黒い部分を歪ませて鳴った。
俺は手にしていた杯をことり、と置いた。
リリティナは深くうつむいている。
慎重さがあるし角度の問題から彼女の表情は窺い知れない。
けれど細く繊細な彼女の身体から――。
目を疑うような負のオーラが漂っていることを無視はできなかった。
「致し方のないことです。姉さんは、ニンゲンのせいであまりに苦しみすぎましたから」
ルルティナが気になって視線を動かす。
するとリリティナが顔を上げて手にした酒瓶を示した。
そこには俺が感じた負の霧は微塵もなく、どこか茶目っ気のあるいつものリリティナがいた。
なるほどね。
予めこの話をするために一服盛ったというわけか。
「ちょっと今日は天候がよくないみたいですし」
ペロッと赤い舌を出してリリティナが片目をつむった。
許さずにはいられないチャーミングさだ。
「君はどうなんだい」
ロムレスの騎士に追われて一族郎党を殺され、故郷を焼かれたのはリリティナだって同じはずだ。
「私、ですか。ええ、覚えていますよ。忘れられるはずがないじゃないですか。けど、私が故郷を追われてから実際に目にしたものは、姉さんよりずっと少ないのです。嫌なこと、辛いこと、苦しいことは姉さんが気遣って私たちの目に触れないよう努めてくれましたから――けど、このままじゃダメだと思いまして」
「ダメって、なにがだい」
「姉さんは単純にこのヴァリアントの森を私たちが暮らすに相応しい楽園だと決めつけているようですが。それでも、このロムレスには、この世界にはニンゲンが満ちあふれています。彼女が、ヴィオレットさんがこの森に迷い込んで来たように、好むと好まざるをかかわらずに、彼らはやって来るのです。踏み込んで来るのです。そのときの対応が、排除一辺倒、憎しみ一辺倒では、あまりに芸がなさすぎるじゃないですか?」
「リリティナ――」
「クマキチさま。私のことを血も涙もない女と蔑まないでくださいね。故郷を追われてからの私たちの人生はニンゲンによる迫害そのもので構成されています。途中までつき従っていてくれた一族や、乳母や、侍女も残らず倒れるか囚われの身になりました。けど、だからといって、会うものすべてを憎んでゆく人生なんて、とても建設的とはいえないじゃないですか」
ひと息に喋り過ぎたのか、リリティナは手にしていた酒瓶を逆さまにして一気に呷った。
彼女の赤い舌がぺろぺろと自分の整った唇を湿している。
「ヴィオレットさんは、少なくとも悪い人じゃないです。私は、ほんのわずかな時間で人を判断するほど人生経験豊富というわけではありませんが。案外、この鼻だって馬鹿にしたものじゃないんですよ?」
リリティナはくふんと笑うと人差し指で自分の鼻をとんとん叩く。
これは一体なんとしたものかと俺は心中首を捻って静かな唸り声を上げる。
彼女たち姉妹の傷はとても繊細で、安易に触れることができないものだ。
いうまでもなく、俺は彼女たちの家族であるという自負がある。
けれど、家族であるからこそ――。
これらは慎重に判断しなければならない根深い問題だ。
「それじゃあ、俺の意見をいわせてもらおうか。もちろんのこと、リリティナがヴィオレット個人だけではなく、人間そのものに歩み寄ってくれるというだけで、俺は充分にうれしい。けど、これは悪く取って欲しくないんだが、無理はしないで欲しいんだ」
「無理、ですか?」
「理性と感情は別物だ。本質的な恨みは頭の中で割り切れたと思っていても、ふとした瞬間に表に出てしまうことがある」
リリティナは静まり返った湖面のような表情で俺の話に聞き入っている。
こうしていると、大人びていても彼女が十三歳の歳相応であることがよくわかる。
感情を消す以外に己の腹の内を隠す方法を知らないのだ。
世間の毒に染まった大人であるならば、こういうときは相手の表情を窺いながら、さまざまな反応を見せるものだ。
心外であると憤慨するのもいいし、お疑いなのですかと泣き真似をしてもよい。
特に男は女の涙には弱いものだ。
目の前でほろほろと涙を流して泣かれれば成す術などないものだ。
たぶん、リリティナは俺にいったこと以外をたっぷりと腹の中に隠し持っている。
悲しいかな。
世知辛い世間の荒波に揉まれ続けたこのシロクマの遊泳技術といったら、この程度のことは容易に読めてしまうのである。
「なぁリリティナ。誰かに好きになってもらう方法でさ、もっとも重要なことってなんだと思う?」
「え、え? 誰かに好きになってもらう、方法ですか? え、ええと、その人が欲しがっているものを用意するとか、落ち着いてくつろいでもらうために、居心地のよい場所を提供するとか……」
「いや、そんな難しく考える必要はないんだ」
「じゃあ、どうすればよいのでしょうか」
「相手を好きになることだな」
「ふえっ……?」
リリティナがポカンと小さく口を開けて幼い表情になった。
「人はとにかく自分に好意を抱いているものに対しては、強い態度に出れないものさ。思い出してみてくれよ。君らがはじめて俺と出会ったときのことを」
そう。彼女たちは圧倒的過ぎるシロクマの俺を初対面のときから嫌わずに、あふれんばかりの好意を露にして接してくれた。
いくら温厚かつ寛容な俺でも、あのときルルティナたちに石もて追われれば、闇落ちしたダークシロクマになっていた可能性もゼロじゃないもんね。
「え、ええと、はじめて私たちがクマキチさまに出会ったときのことですか? あのときは、ただ神々しいばかりにまばゆい純白な毛皮を持った殿方を前に、ただ、ただ感動したばかりで……あは。でも、このようなことを口にすると不遜であるかもしれませんが、あのとき私も、クマキチさまのこといいな、って思っちゃいました」
そこまでいうとリリティナはきゃあと小さく叫んで顔を手で覆い身を小さくする。
ううん?
いやぁ、ウェアウルフ族の基準て、よくわからない……。
てか、どうなってんだよ獣人の容姿判断って?
「と、とにかくだな。ルルティナたちはよくわからんシロクマ的生物である俺を初対面のときから、それはもう、親愛を示して接してくれたわけだ。これはもう、自然界では奇跡に近い。つまりは、相手に好かれようと思うならば、まずこちら側から欲も得もなく好いてやらにゃあならんのですよ。そのあたりのことが、実は肝なんです。レッスンワン。相手に想われる前にまず想え。はい、リピートアフターミー」
「でも、クマキチさま。それって芯から対等な関係といえるのでしょうか?」
う、ううぐっ。
ときどき理屈っぽくなるリリティナちゃんは、俺を激しく悩ませ解決不能な迷宮へといざなうのだ……。
「すみません、少し意地悪しちゃいましたね。そうですね。私、明日からヴィオレットさんのいいところを見つけて積極的に好きになっちゃおうって思います。それに、もう今日は彼女のいいところ、見つけちゃってますから」
「んんん?」
「だって、もうすでに私の大切な妹を助けてくれようとしてくれましたから」




