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02「強くてニューゲーム」

 なぜ山に登るのかと聞かれてもそこには理由などたぶんない。


 いうなればこの俺に課せられた宿命である。


 とかく山という崇高な主題は身命を賭して取り組んだことのない人間にはわからない。


 山とはそういった業の深いものだといわざるをえない。


 好き好んで深夜に数時間ハンドルを握って移動し。


 連日の残業で疲れ切った身体に鞭打って尋常でない傾斜を踏破していく変わり者。


 だが、それのなにがいけない。

 あえて問いたい。君はなぜ登らないのかと。

 そこに山はあるのにもかかわらず。


 ある武士は狩猟すなわち生物の命を奪う行為は酒色より遥かに素晴らしいといい切っているが、山の魅力は個人的にはそれよりも中毒性があるといえよう。


 道具ひとつにしても、かけようと思えば数百万単位でかけることができてしまう。


 背負うザックひとつにしても、新作に胸躍らせ、生きている間に使い切れない――それこそザック屋でも開くのかと思われるほど数を集めるマニアは無数に存在する。


 山ヤからいわせれば、それらの道具は実に蠱惑的なのだ。


 ある種美女の裸身なんぞよりはるかにそそるそれらには抗いがたい魅力が備わっている。


 だが、それら無数のアイテムを身に着け縦横無尽に山野を駆け巡る興奮は登った人間にしかわからないのだ。


 身体は確かに疲れる。山とは基本的に苦行ほかならない。


 数十キロに達する道具を担ぎ、頂上を目指す人たちにとって山とは現実から切り離された異世界そのものだ。


 ぼんやりとそんなことを考えながら目を開けた。

 記憶が判然としない。


 俺は痺れたような身体を軽く身震いして視界に映る木々をジッと網膜に捕らえた。


 確か厳冬期の奥穂を目指して単独行を行っていたはずだ。


 夜が明ける前に上高地を出て岳沢小屋を左に折れて天狗のコル、コブノ頭、ジャンダルム、ロバの耳を通過し、昼には奥穂へと至った。


 天気は快晴。目に染みるような空の青さで頭がおかしくなりそうだった。


「そう。そうだった。くそ、あんなところでヘタこいちまうとは」


 穂高山荘へと下る直下でこともあろうに滑落するとは。


 意識が途切れたのはそこだった。


 かつて山で死ぬなら本望だと知人に語って見せたが、いざ九死に一生を得たとなると自分の傲慢さが恥ずかしい。


 俺はよっこいしょと身を起こすと、なんだか自分の身体が自分のものではない気がしてふと異様な心持ちになった。


「つーか、ここはどこよ?」


 落ちたのが雪の上だとしても痛みひとつないのはおかしい。


 というか、あたりにはあれほどあった雪がカケラも見つからず、まるでまったく違う山系に迷い込んでしまったような気さえしてきた。


「もしかして、滑落したあと春になるまで気を失っていたとか……はは」


 笑い話じゃねぇし! 


 というか、さっきからチラチラ目の前にチラつく白いものはなんなんだろうか。


 俺はさっと自分の手を上げてしげしげ見ると、それがどう見ても人間の掌ではないことに気づき、喉から絶叫をほとばしらせた。


 ぐおう


 と。まるで山が割れんばかりの熊の雄叫びを耳にし身体を硬直させた。


 咄嗟に立ち上がって身構えた。クマ! まさかクマなんて?


 山を数十年やっていても会わない人間は会わないといわれているのがクマである。


 山域的にいって北アルプスにはツキノワグマしか存在しえないだろうが、今の雄叫びはこの世の生物とは思えないほど腹にずしんと来る響きだった。


「というか、なんだ? 俺はいったいなにがどうなってんだ――! 落ち着けっ」


 動揺したまま自分の身体をぱっぱっとまさぐる。

 おかしい。


 俺の身体は確かに毛深かったが、ここまでもふもふはしなかった。


 というかこの肌触りは長毛種の大型犬のような触り心地である。


 ひくひくと鼻孔を蠢かすと、なぜだかわからないがこの近くに水があると確信できた。


 立ったまま走り出すが、どうにもバランスが悪い。


 どこか怪我をしたのかと思ったが、現実を直視するのも恐ろしいので目を開けられない。


 ぎゅうと目をつぶったまま遮二無二駆け抜けた。

 ――そして直視した。抗うことのできない現実と。


「クマ……シロクマ?」


 池に映ったそれは、俺が毎朝鏡の前で顔を合わせていた久間田熊吉その人ではなく――どこからどう見ても純白な体毛を輝かせたシロクマそのものだった。


「ちょっと待った。一旦落ち着こう」


 喋っている。口をパクパクさせたクマが人語を操っているのだ。


 池に映った姿を見れば、少なくとも二メートルを超えている。寒冷地でもない山の中にホッキョクグマがいるということ自体が謎であるが、大きさからしてツキノワグマの変異体というわけでもなさそうだ。


 クマとは江戸時代の国学者である多田義俊が記した一六二四年の「和語日本声母伝」において「暗くて黒い物の隅をくまということから黒い獣の義」とある。


 いや、それは関係ないか。ともかく今の俺はシロクマさんなんだ。紛うことなく。


 ――俺は池の前に座ったまま、どれくらいそうしていたのだろうか。


 腹がぐるうと鳴って唐突に激しい空腹を覚えた。


 山で死んだら獣になって思うさま野山を駆け巡りたいと願ったことがなくもない。


 だとすると天におわしますカミサマが俺の願いを聞き届けてくれたというのだろうか。


 あの滑落事故で谷を転げ落ちたのなら到底助かるはずもない。


 だが、ポジティブに考えてみよう。このホッキョクグマの身体は食物連鎖のピラミッドにおいてはほぼ頂点に属するものだ。


 考えてもみよ。羽虫やゲジゲジに生まれ変わるよりよっぽどついていたと思えばカミサマも意気な計らいをしてくれたと感謝こそすれ恨むのは筋違いってもんだ――。


 生きるのだ。ここがどこかはわからないが、一個の山の生物として。


 それが俺に託された人生ならば、熊として生きられるだけ生きてみよう。


 俺はガキの頃から頭はよくなかったが切り替えることに関しては上手だった。


「うし。やるか」


 頬を両手でぱしぱしぶっ叩いて立ち上がった。

 まず最初にやることは、この腹を満たすことだ。


 すでに俺は人間ではない。山という世界に生きる獣に過ぎない。


 だから、かつて人間だった頃のように社会的なセーフティーネットに頼ることはできないし、してはならないのだ。


 エサは自分の手で狩って自分で食欲を満たす。


 とはいえ、野生生物初心者であるこの俺になにができるだろうか。クマは雑食性の生き物だ。木の実や動物の肉、草の葉などおおよそ口にできるものはなんでも食すはずである。


 池に映った自分を見るとたぶんクマとしては成年に達しているだろう。ヒグマであるならば母グマに幼少期からくっついて生存に必要な狩りや生活のイロハを自然に教えられるのであるが、ここからはひとりでやらなければならない。


 山屋として一般人よりはアウトドアに関する技術は多く有していると思うのだが、実際こいつが現場でどれほど役に立つかはわからない。


 さいわいにも熊の身体であっても人間の思考能力は有している。これが純然たる獣のままであったらノウハウ無しに身体だけデカいでくのぼうでありすぐのたれ死ぬのが普通だが、ここはラッキーと思っておくべきだ。


 とりあえずここから移動してみよう。場所などもよくわからないが、下手に人目に触れればアルビノの珍獣として捕獲され動物園に囚われの身となるかも知れない。


 自由を奪われ虜囚として生きるなどまっぴら御免だ。


「警戒。とにかく警戒しよう。というか俺、言葉喋ってるじゃんっ」


 やばすぎる。このままじゃUMA確定だ。


 人語を介しているなどと知られれば、研究機関に送られ脳を解剖されてしまうかもしれない。


「な、なるべく言葉は使わないようにしよう」


 濃い緑の木々を縫って歩く。そういえば普通に二本足で歩行しているな。腕も微妙に長いし、ちょっとバランスが悪いような気がするが。


 俺は指をワキワキ動かし落ちている枝を掴んでみた。指先にはそれなりに丈夫そうな爪が生えているが、この程度ならなんとか細かな作業も可能そうである。


 ここはホッとするべきなのだろうか。なにか、ひとつ確認するごとにドンドン人外のケモノであることを再認識しているような気がしないも出ない。


 首を振り振りあたりを警戒しつつ森を抜け小川に出た。


 ほー。冷たくて気持ちよさそうだねぇ。


 俺は人間をやめたことを忘れ、大きな石に腰かけると涼やかな清流のせせらぎに耳を澄ませ豊かな自然の美を満喫していた。


 木々を見れば真っ赤に色づいている。俺が穂高を目指していた一月とは違って、季節は秋らしい。流れにはすいすいと泳ぐ山魚の影がチラホラ見られた。


「魚、取ってみるか」


 そういえばムチャクチャ腹が減ってたんだよなぁ。

 自然の獣であれば空腹を満たすほか物事を考察したりしないのであろうが、そこは知性あふれる元人間である。


 よくテレビとかでやっていたアレだ。野生のヒグマが川に入ってサケを取るアレである。


 俺も立派にシロクマとして生まれ変わったのだ。このくらいできてしかるべきだろう。


 ちょっとだけ躊躇したが、流れは思ったほどではない。思い切って川に入った。


 想像していたほど水は冷たくなかった。


 というか感覚は全体的に鈍っているような気がしないでもないのだが。


 中腰になってすいすいと流れをゆく魚をゆっくりと追いつめていって……とやたっ!


 ざうっ、と謎の効果音が出現するように両手を動かして見たものの、激しい飛沫が立ち昇るだけで魚は一匹たりとも捕らえることができない。


「は、ははっ。ま、まあそうだよな。最初っからなんでも上手くできるはずがないんだよ。なにごとも、トライあるのみだ。俺はいつでもネバーギブアップだ」


 それから日が沈むまで魚取りに熱中していたのであるが、すいません初志貫徹できませんでした。まったく魚が取れませんですよ安西先生。


「や、やばい。これじゃマジでクマの才能がないことを世に知らしめてしまう……!」


 もういい。これ以上意地を張るのはやめよう。俺はクマっぽい行動を早々に諦めると、手掴みすくいからガチンコ漁法に切り替えた。


 ガチ漁とはその物騒な名が示す通り、川にある石に石を叩きつけることによって、衝撃破を発生させ周辺で泳いでいる魚たちを一網打尽にする作戦だ。


 現在は禁止されているのでコイツを行うと官憲に追われるハメになるかも知れないがシロクマとなった野生派の俺を止めることは誰もできないのだフゥーハハッ!


「そいやさっ!」


 俺は適当にそのへんにある岩を持ち上げると(デカいがラクラク持ち上がった!)思いきり流れに鎮座する石へと叩きつけた。


 ぐわん、と。もの凄い音が鳴って周囲の梢に止まっていた鳥たちが一斉にバササッと飛び立っていく。知らんぞ、もお。


 やった! ショックウェーブの効果は絶大だ。


 あたりにはぷかぷかと川を気持ちよさそうに泳いでいた魚さんたちが浮かび上がった。


 我の糧となるがいい……と暗黒面に陥りそうになりながら魚を拾っていく。


 で、河原に余裕で帰陣。だがひとつ問題がある。これどうやって食べればいいのだ。


 取れたのはウグイやカジカやイワナだろう。


 川魚には「横川吸虫」をはじめとする脳みそを破壊するやっばいやっばい寄生虫が数多く存在するので生食する気には到底ならない。


 だとすると焼くか蒸すかなのだが、ここは森の中の大自然であり、俺はただの気のいいクマさんなのだ。ライターもマッチもない。


「く、くそう。これじゃとっても食べられないじゃないか。えひんえひん」


 泣き真似をしてもどうにもならない。だがどうしても人間であったときの自意識が邪魔をして生で喰う、という気分にはなれないのだ。


 どうしようもないので俺は捕まえたお魚さんたちを石の上に放置して、その日は木を背にしてごろ寝した。


 野宿には慣れているし、この頑丈な毛皮のせいか寒さはまるで感じない。







 朝起きて河原に行ってみると、放置してあった魚さんたちは骨一本も残さず消失していた。


 ……うん。森の獣さんたちが食べちゃったんですね。

 俺はちょっと泣いた。


 その日はなにかないかなにかないか、と山野を阿呆のように狂って歩き回り、ようやくちょっとしたものを見つけた。


 異様に油分が多い、日本では見たことのない木だ。名前もわからないし、聞いたことのない種類の木の枝はちゅうちゅうすうとほのかに甘く顔がふやけるほど滋養が取れた。


 それから、これは野生に備わった勘であったが、木の幹をベリベリ剥いで甘皮を食べると意外にスナック感覚でイケることに気づいた。


 だが、その程度ではこの巨体の胃袋はまるきり満たせない。


 そういえば体長二メートルに体重五〇〇キロを超えるシロクマが一日で必要とするカロリーは一二〇〇〇から一五〇〇〇ほどだと本で読んだ。


 あきらかに足りてない。つかハングリーすぎる。


 目覚めてから、三日と経っていないが早くもフラフラだ。四肢に力が入らないし、気のせいかめまいもすれば視界も白く濁りつつあるようだ。


「こうなったら、節を屈して野生の本能に従おうか……ん?」


 この身体は異様に聴覚がいい。河原から離れたある地点で多くのなにかが動く気配を感じ取った。


 警戒度を上げながらそれでもシロクマに生まれ変わってはじめて感じる懐かしい匂いに、俺は、知らずその方向へと移動しはじめていた。



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