129「新たな日々」
辺境の街アルムガルド――。
王国の北西に位置する大樹海ヴァリアントに接する鄙びた地方都市だ。
冬ともなれば雪が積もり、各都市との交通にも不便する。
となれば出稼ぎに来ている地方の人間たちは冬が終わるまで帰れない。
その数は多い。
そういった男たちは街の人間から賃仕事を請け負ってどうにか息を繋いでいた。
時刻は夜半である。
繁華街でひとりの女が赤子を抱えて歩いていた。
小さな街のこじんまりとした飲み屋街では起こる事件もたかが知れている。
なにせ雪に遮られて移動もままならないのだ。
居住者はほとんどが顔見知りであり、思い切った事件もほとんど起きない。
誰もが自制を要求される。
アルムガルドはそんな街だった。
凶悪事件など滅多に起きようもない。
だが、酒が入った男のふらつく場所に若い女が足を踏み入れれば話は別だろう。
女は二十歳前後だろうか。
黒の野暮ったいお仕着せを着ている。
おそらくはどこかの貴族屋敷に仕えていたメイドであると思われた。
生地はごく上等であっただろうが、よほどに着倒したせいで、服のあちこちは旅塵に塗れ相当にくたびれていた。
「お、これはこれは」
そこいらあたりで一杯ひっかけたであろう男がふらつきながら通りの端で足を止めた。
男はイイ感じに酔っていた。
「もし、そこの旦那さま。憐れと思えばしばしその場で足を止め、わたしの話を聞いていただけませんでしょうか」
「話、ねぇ」
メイドはわずかな軒先の明かりでも判別できるほど、非常に顔立ちが整っていた。
男は子連れの娼婦であるかとひとり早合点し、相好を崩す。
「いいよー、お話。聞くよ、聞いちゃいますよー、ぼくちん」
男はメイドに誘われるまま人気のない路地裏についてゆく。
時を置かずして路地裏から姿を現したのは赤子を背負った女ひとりであった。
「ふん。案外と粘りましたね。一撃で眠っていただければこちらも手間をかけずにすんだものを」
メイドはちゃりちゃりと銅貨の入った巾着を手元で弄びながら目を伏せた。
手にしていた棒切れを投げ捨てる。
硬い音を立てて棒切れは闇の中に消えていった。
背負っている赤ン坊はよほど深く寝入っているのか鳴き声ひとつ立てない。
「ご不自由をおかけしますが、今しばらくご辛抱を。エリカが必ずや安全な場所にお連れしますゆえ」
貴人に対する言葉遣いでメイドはそういうと、不意にくぅと腹を鳴らした。
「失礼いたしました」
誰に聞かれたわけでもないが、メイドはやけに強張った声で背中の貴人に詫びると頬を真っ赤に染めた。
「ここは辺境ですが思った以上に人がいます。もはや雪山へと身を隠す以外に方法はないかと存じます。まずは物資を調達いたしますのでしばしお待ちください。さあ、今宵の宿はどこにいたしましょうか」
赤ん坊は答えずくうくうと安らかな寝息を立てている。
メイドはうんうんとひとり満足気にうなずくと再び夜の街へと歩き出した。
森の冬はひたすら長くてキツい。
生まれ変わったこの身はシロクマなれど久方ぶりに、どこまでも続く白い雪を見ているとつくづくそう思えてならない。
あたりまえだが夏とは違って冬場は日照時間が短い。
なので日の出もうんと遅い。
よって起床時間は誰もが遅くなりがちなのだ。
ただしシロクマは除く。
パチパチと鳴る囲炉裏の火の粉に覚醒を促され俺はもぞもぞと身を起こした。
平地の空っ風の冷たさはない。
家というのは四方が壁に囲まれてるからだね。
やはり我が家はあったかだ。
薄暗い室内を見回すと、みなが毛布にくるまって思い思いに寝入っている。
訂正。
俺の身体にはまとわりつくようにして三つ子ちゃんたちがくっついていた。
以前とは違って、さすがにこの寒気だ。
全員ともふっかふかの毛皮をかぶって厚着をしているが森の寒さは相当だろう。
なにしろ丸太で作ったログキャビンは断熱材などまるでない。
延々と火を絶やさぬようにしているが、現代日本の建築物と比べればその差は歴然としている。
普通の人間ではとっくに体調を崩しているだろう。
だが、そこはさすが亜人。
ウェアウルフの彼女たちが体調をまるで崩さないのは、抜群に寒さに強い種族であるからなのだ。
「うー」
前回の遠征で勝手について来た沼地の魔女さんは、それほど寒さに強いというわけではないらしい。
もっこもこのミノムシのようにありったけの毛布をかぶって時折唸っている。
「んんん」
オランジェーヌは無意識の状態で起き上がってあぐらをかいている俺の股座に顔を埋めようとしている。
頼むからそれだけはやめてちょうだいな。
簀巻き状態の彼女をコロコロと転がしてアスティアの隣へと上手く配置した。
余談であるがアスティアは寝相が非常によい。
たぶん眠りについてからほとんど動いていないだろう。
対してルルティナはそれほど寝相がよいとはいえなかった。
夜中でもコロコロとやたらに寝返りを打って手足をばたつかせている。
こういうのって起きているときだけではわからない部分が出るよね。
異性とはいえ四六時中いっしょに過ごせばいろんな部分が見えてくるわけで。
まあ、それはどうでもいいか。
ちょっと外に出てみたい気もするが……。
扉を開ければ寒くてつめたーい風が家の中の温度を一気に下げてしまうので、ちょっと躊躇してしまう。
軽く肩を回してコリをほぐす。
外の雪を鍋一杯に調達する。
みんなを起こさないように物音を抑えて鍋に雪を落とし火にかけた。
雪はみるみるうちに溶けて湯になった。
水分を補給するのはまったく苦労がない。
この世界の雪は日本と違ってまったく汚染されていない。
なので、溶かせば充分飲用に耐えうるものなのだ。
なんちゅうか生活しているというよりかは、ずーっとアウトドアを楽しんでいるような気分だな。
シロクマに転生する前は、起きればすぐにテレビをつけてスマホをぴこぴこネットに繋げて常に情報の海にダイブしていたが、ここではそういう欲求はなくなった。
うんうん、ありゃ一種の中毒だな。
身体に悪いよ。
娯楽なんてなけりゃないでどうとでもなるもんだ。
至極平和だ。
もはや、出勤も、出世も、人間関係のわずらわしさもまるでない。
俺は湯を入れたマグカップを片手にごろりと肘枕をして透徹した目で炎に見入った。
たしかに森にはモノは少ないが心の平穏は保たれている。
ルルティナたちウェアウルフ一族は元より、ヴィオレットもオランジェーヌもとても気立てがよく、この生活はすごく順調に過ごせている。
これで欲をいえば綺麗な嫁さんがいて、自分の子供がいれば、と思わなくもないが。ま、過ぎたるは猶及ばざるが如しってやつだ。
幸いにもこの深い雪ならば悪い人間たちもちょっかいをかけてこないだろう。
部屋の隅に堆く積まれた食料や生活雑貨を見れば、あくせく働く必要性もない。
なんだ、ここが俺のエデンだったのか。
「うゆー」
もぞもぞとララが目を覚ましたのか頻りに目をこすっている。
やがて彼女は目の焦点が合ったのか、俺を確認するとぽすっと胸元に飛び込んで来た。
赤ちゃんみたく、ミルクみたいないい匂いがする。
ララはパッと顔を上げて俺を見上げると満面の笑みを作った。
「おはよーごじゃいます、クマキチしゃま」
はい、おはよう。
こうして俺の新たな一日がはじまるのだ。
「クマキチさま、今日のご予定はいかがですか?」
朝食後、いつものようにルルティナに予定を尋ねられ困惑する。
うーん、ええと、だな。
「とりあえず待機かな」
「了解です」
ニッコリとルルティナが微笑む。
すべて予定調和。
てか、さあ。
ぶっちゃけやることがねえ。
お外はだんだんと雪の降りが強くなっているので自宅待機が無難だろう。
いや、俺ひとりならば猛吹雪がだろうがなんだろうがなんら問題はないのだが。
視線を周囲に這わす。
俺の行動を逐一見守る三つ子ちゃんたちがうずうずしていなさる。
自宅周辺で遭難ってのもなんだかだし、なによりこの子たち、ちょーっと目を離した隙に長距離を移動していることが多々あってねえ。
人権的にもリードをつけるわけにはいかないし。
悪天候でお外遊びは控えたいところだ。
ボーッと座っていると三つ子たちはドタバタと狭い部屋の中を走り回りはじめる。
ルルティナたちは慣れているのか、まったく意に介さない様子で手仕事をはじめた。
「むう。雪さえなければクマキチ殿に稽古のひとつもつけてもらおうと思ったのに」
ヴィオレットは不満げに口を尖らしてむくれている。
どう見てもここのメンバーにインドア派はいないしストレスは溜まるだろうな。
「まあまあ、いいじゃんいいじゃん。お部屋でまったりするの、お姉さん嫌いじゃないよー。ほら、クマキチ、あーん」
ん、はむっ。
俺は横合いからもたれかかって来たオランジェーヌが差し出す干し芋を咀嚼する。
うむ、たいそう甘い。
「そろそろいおうと思っていたのですが、あなたは一体いつになったら帰るのですかっ。オランジェーヌ!」
縫い針を止めたルルティナが吠えた。
凄まじいシャウトに遊んでいた三つ子ちゃんたちがピタリと動きを止めて「ほわあっ」っていう顔になっている。
なんちゅーか泣き出しそうな一歩手前の顔と表現すればわかりやすいかな。
「んもー、うるさいなぁルルティナは。帰るわけないじゃん。お姉さんはクマキチの妻なんだよ? ふーふはいっつもいっしょにいるの。これって常識でしょ」
「はぁあ? はぁああ? はぁあああっ? なにをおっしゃっているのか、まったくもって、これっぽっちも、それこそ小指の爪ほどまでも理解できないのは私の頭がおバカさんだからなのですかねぇ!」
「え、そ、そんなことお姉さんはぜんぜん思ってないよ。ね、ねえ、クマキチ?」
「なんで、そこでかわいそうな目で私を見るのですかっ。これじゃホントに私が足りない子みたいでしょうっ」
そろそろ堪忍袋の緒が切れると思っていたのだが。
「三日。儚い命だった」
アルティナが命数を計っていたのかぼそりと呟く。
こやつが姉のことを一番よくわかっておるのやもしれん。
「まあ、まあ、ご両者とも。そう朝からがーがー騒ぎ立てなくてもいいじゃない。ねえ、オランジェーヌ。あたしからひとつ質問させてもらってもいい?」
静かに壁へと背を預けていたアスティアが片眼を開けていった。
「ん? お姉さんに質問ですか。なんでも聞いてよ。知ってることならできる限り気分で答えるから」
気分かよ。
「あなたはクマキチの妻といっているけど、式は、いつ、どこであげたの?」
「ふふーん。知りたい? 知りたい? お姉さんとクマキチは、静かな森の木陰で人知れず結ばれたのさ。りんごーん」
「ふぅん。で、立会人は?」
スッとアスティアの目が細まる。
「え、ええっ。ええと、ええと。それは、そのう、そだっ! 森のカワイイ動物さんたちがお姉さんたちの媒酌人さ。粋だねっ」
「ということは立会人はいない。その場合は野合だね。あなたたちを正式な夫婦とは認められない」
「な、なーんだってえええっ!」
オランジェーヌは目を見開くとその場でぴょんっと飛び跳ねた。
その動作がよほど面白かったのか三つ子ちゃんたちが真似してぴょんぴょんしている。
こんな状況でもちびっ子たちを見てると和むなあ。
「でも、そんなことはどうでもいいのさっ。夫婦ってのはふたりが愛し合っていればなんら問題ないのだからっ。外野の声なんて聞こえないよ。ね、クマキチ?」
オランジェーヌはその場でくるりと回転するとぱしりとウインクを決めた。
「そうなのですかッ。クマキチさま!」
いや、まったく拙者の与り知らぬところで御座候。
「ねーえ、ねーえクマキチしゃま。おそとゆきやんだみたいだよ」
「あしょぼうよう」
「あしょぼ」
お、三つ子ちゃんたちがグイグイと俺の手足を引っ張っている。
じゃあ、相互理解も一段と深まったみたいなので、そろそろドロンさせてもらうね。
「なんです、その手つきは」
リリティナが苦笑いで俺を見送る。
きゃあきゃあと俺を呼び止める声を無視して出陣。
おお、思った以上に積もっていますなあ。
三つ子ちゃんたちはふかふかの雪の上を半ば潜りながら駆けている。
うーん、ただ走り回るだけでも気持ちがよいのだろうが……。
なにか遊びに変化をつけたいなあ。
あ、そだ。
俺は扉を薄めに開けてアイコンタクトでアルティナを呼んだ。
さすがに今の状況で中には入りにくい。
勘のよいアルティナは素早く戸口にやって来るとつぶらな瞳で俺を見上げる。
「悪いけど立てかけてあるスコップ全部持ってきて」
「ん。了解」
雪国に必須アイテムのスコップは物資調達の際にヨーゼフから手に入れていた。
「ねえ、それなにー?」
「ねえ。クマしゃま。なにをするのー」
「のー?」
じゃれ合っていた三つ子ちゃんたちがばびゅんっと一瞬で俺の下に集合した。
「これからかまくらを作ります」
ちょっと得意げにいった。




