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限りあるからこそ  作者: 白木蓮
第1部
6/11

干渉

 今日は曇り。十一月の初旬にしては平年より寒いらしい。だからか資料館の中は暖房が良く効いていた。効き過ぎて僕には暑いくらいだったが。

 いつものようにパイプ椅子の隣には中村祥子さんがいる。僕たちは口を開かずに絵を鑑賞していた。こういうとき、静寂を気にして無理に会話をしようとする者もいるのだろう。けれど別段気まずい沈黙でもないから静かに時が流れていた。


 それはにわかに起きた。そういえば、と中村祥子さんは聞き忘れていたというふうに口を開いたのだ。

「結城さんて、普段は何をされているんですか」

「院生です。絵画研究室で美術史の研究をしています」

「ああ、だから」

 と彼女は納得いったというふうに数回頷いた。資料館にいるというのに僕が絵のブースにしか足を運ばないから、美術作品と美術史が結びついたのだろう。


 でも、と彼女は首をかしげる。

「大学院で研究をされてるなら、忙しいでしょう?」

「研究テーマによっては飯にありつけないときもありますね」

「一日中ここにいて差し支えないんですか?」

「え——っ」

 一瞬キョトンとしかけた。

 普通は昼過ぎから資料館へ毎日通っている僕を不思議に思うに違いない。いままでどう思われていたのか柄にもなく気にする。素朴に聞いてきた彼女に変な勘ぐりは見当たらないけれど。

 翔子さんの首は無垢な子犬がご主人様の反応を待つように、さらにかしいでいく。可愛らしい仕草であるが、いまは憎らしい。それが僕を追いつめるのである、早く機転を利かせろと。


 夏休み中です。――だめだ、九月末に終わっている。冬休みに入りました。――まだ十一月だろう、どうみても早過ぎる。

 僕は体裁を取り繕うと頭を回した。これほど焦ったことは何百年ぶりかもしれない。なぜ焦る。――中村祥子さんに何もしていない暇人だと思われたくないからか?

 考え抜いた結果、

「今日まで休んでいたんです。明日からまた、ごちゃごちゃした研究室で缶詰の毎日です」


 自分を守るための小さな嘘をつくことは、生きるうえで幾度もあった。それまで平然とできていたことを後ろめたく思っている自分に困惑する。

 内心ドギマギしている僕を知らず、中村祥子さんはおっとり微笑む。

「息抜きだったんですね。研究ばっかりじゃ疲れちゃいますものね」

「ええ、まあ」

 ニットの脇の下を摘んではたはたさせる。両脇に冷たい汗をたっぷり掻いていた。僕が冷や汗を掻くものか、これは暑いからだ。室内の空調ミスのせいだ。

 あまり捻れなかった言い訳の損害に、この日から閉館前の一時間しか絵を鑑賞できなくなってしまったのだった。


 一人でパイプ椅子に座っていると他のことに気を取られるようになっていた。絵を観にきているのに焦点が散漫になる。そして中村祥子さんがやってくると、僕のそわそわは途端に落ち着くのだった。

 しとしと雨が三日続いたときだった。


「結城さん。明日の予定は?」

「明日も来ますよ。研究をしてきたあとに」

 当然のことを答えただけ。なのに彼女は口許に手を添えてクスクスと笑う。

「そう言っちゃうんだろうなって、予想が当たっちゃいました」

「何か可笑しかったですか」

「入り口の看板に気づかなかったんですか」

「看板なんかあったかな。いつもと変わらない入り口でしたけど」


 中村祥子さんは悪戯っぽく顔を突き出してきた。今日も低貧血そうな面差しだ。

「休館のお知らせが出てたはずですけど?」

「えっ」

「第三水曜日はここの休館日なんです」

「それは……、気づかなかった」

 呆然だ。意味もなく僕は指先でうなじ下を掻いた。

「よかったですね、いま気づいて」

「はい。休館日にうっかり来て途方に暮れてしまうところでした」


 そうか、休館日なのか。そうなると明日は一日暇になってしまう。どうやって時間を潰そうか。彼女をちらっと見る。

「中村祥子さんも――職員の方もお休みなんですか」

「はい。だけど」

 またクスクス笑う。彼女が笑うと柔らかそうな髪の毛先が揺れるから、それで心地いい香りも揺れる。

「なんでフルネームなんですか。病院の受付の人が呼ぶみたいに」

「なんとなく。じゃあ、いまから祥子さんで」

「はい」


「あの――」

 翔子さんと向き合うように座り直した。勇気を捻り出すように、両腿に置いてある手がズボンを握る。

 僕の頭は空洞だった。ただ勝手に口がでしゃばったのだ。

「どこか行きませんか? 明日。晴れるみたいだから」

 祥子さんは黒めがちの眼を丸くした。何を口走っているんだ、僕は。たいした仲でもない、ただの顔見知り程度の男に誘われても困らせるだけだろう。

 顔の前で両手をわたわたと振る。

「予定がなかったらが前提ですが。いえ、予定がなくても嫌なら断ってください。僕は気にしませんから」


 祥子さんが親しくしてくれているのは、僕が数少ない貴重な来館者だからだ。客を相手にしているだけに過ぎないのだ。断られるのが相場だろう。と見切りが九十九パーセントを占めていたのに、

 祥子さんはふわっと笑んでくれた。

「突然でびっくりしちゃいました。でもとても嬉しいです」

 正直なところ無警戒に過ぎると思った。彼女をどうこうしようなどというよこしまな気持ちなど、無論持ち合わせていないけれど。


 その夜、僕のスマートフォンに時空監査員から警告メールが届いた。

『干渉注意』

「……なんで」

 人体に埋め込まれているナノチップが感情を分析した結果の警告か? 僕にはさっぱり心当たりがなかった。故障しているんじゃないか。シャツの中から左肩を触れる。皮下にナノチップが埋められているが、違和感などなく体温を感じただけだった。


 なんにも干渉していない。定時連絡みたいなものだろう。警告を気にも留めず、僕はスマートフォンをベッドに放り投げたのだった。

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