過去の女03
「えっと――」
と中村祥子さんが話を切り出した。控えめに窺うような目顔は名前を求めているのだと勘づく。
「結城です」
「結城さんは、このマーメイドの絵が好きなんですね」
「好きというか、一目見て惹かれたというか。そんな感じです」
「どこに惹かれたか、聞いてもいいですか」
「どこに……」僕は答えに詰まった。漠然と惹かれたわけで、自分の中に明確なものがあるわけではなかったから。なぜか。絵を見つめながら僕は考える。
「この絵にメッセージ性を感じているのかもしれません」
「どんなメッセージ?」
「うーん。言葉で答えろと言われると分からない。本当に漠然と伝わってくるというか」
僕は中村祥子さんを見た。
「今度は僕が聞いていいですか」
「はい」
「どうしてこの絵が嫌いなんですか」
唇を微笑させ、彼女は眼を伏せた。長い睫毛が下瞼に陰影を作る。顔にかかる僅かな影は、青っぽい白さの肌をより病的に演じた。
「あれは少し間違ってました。嫌いなわけではないんです。たぶん嫉妬です」
「嫉妬?」
「はい。彼女に」中村祥子さんはマーメイドの絵を見上げた。
どうして嫉妬するのか彼女は話し出す。
「この絵にはタイトルもないし、説明もないから、私なりの解釈なんですけど。結城さんは、このあとマーメイドはどうなると思いますか」
絵の舞台は、まんまるの月が輝く夜の海。海から飛び跳ねたマーメイドを中心に、右に銛を構えた五人の漁師、左下の海の中では三人のマーメイドが寄せ合って泣く姿が描かれている。
「銛で突かれるだろうね。待ち構えていた漁師に」
「はい。彼らはマーメイドを狙っているんです。彼女の肉は不老不死の薬だから。海の下で仲間のマーメイドが泣いているのは、訪れる彼女の死を嘆いているんだと思います」
「彼女の仲間は止めたのかもしれない。海から顔を出さないほうがいいって」
「だけど彼女は海面から飛び出した。次の瞬間に死ぬと分かっていても」
マーメイドの視線と掲げる両手は空に浮かぶ月にある。月光を浴びる彼女の表情は満面の笑顔だ。
「彼女は月が見たかったんです。海底からいつも見上げていたんでしょうね。海面に歪な形でゆらゆらと揺れる黄色い月を。本当はどんな姿をしているのかしら? ヒラメみたいに平たいの? 輪郭はギザギザしてるの? ――って、いつのまにか月に焦がれていたんです」
「月見たさに、自分の命が尽きてもいいと?」
彼女の絵の解釈を聞いているうちに、僕が絵に惹かれた理由が分かってきた。
「愚かに思いますか」
中村祥子さんに問われ、僕は胸の内を答えた。
「僕は愚かだと思っていました」
優しく促すように、彼女は眼差しを和らげて首を傾けてみせた。
「僕はこの絵に母を投影していたみたいだ」
母は僕を産み落としたと同時に死んだ。妊娠が分かったときに発覚した病気が原因だった。妊娠を諦めれば治療して元気な体が手に入ったのに、医者や親戚の説得を断固拒否し、無理して僕を産んだのだ。
中村祥子さんは僕の話に耳を傾け続けていた。
「僕は母がいないことを恨みました。死ぬと分かっていて、なぜ母親のいない子を産んだのか。だけどこの絵には、母の思いが詰まっているような気がして」
「月が結城さん。そこに笑顔で両手を掲げているマーメイドはお母さま……ですか?」
僕は頷いた。
「手が届きそうな瞬間に、死の宣告を受けるところも」
母は命がけで僕を産んでくれたのだ。そこは感謝している。けれど僕は母の温もりを一切知らずに育った。ひどく寂しい思いをしたのを覚えている。
子供のころ公園で友達と遊んでいたときのこと。日暮れになるとお母さんたちが迎えにきて、友達は嬉しそうに手を繋いで帰っていくのに、僕の迎えは子守ロボットのミイちゃんだった。授業参観のときは父が仕事で忙しくて来られないから、親戚のおばさんか、または余所行き換装した母代わりのミイちゃんだった。
過ぎし日の孤独感が回顧する。僕は心臓のある場所をぎゅっと握った。
「いまでも思ってしまうな。元気になったあとで、僕を産んでくれてたらって」
「結城さん。それは無理です」
「無理?」悲し気に眉を寄せた彼女に打ち消され、僕は首をかしげる。何が無理なのか見当がつかなかった。
「はい。お母さまが元気になっていたなら、それから産まれてくる命に、結城さんはいなかったと思います」
はっとした。冷たい水で顔を洗ったときみたいに目が覚めた。
「そのときその瞬間に宿った命って、一期一会だと思うんです。だから命を削ってでも、『結城さん』を産んであげたかったんじゃないでしょうか」
命は何度でもやり直せるものと、誤った認識をしていた。楽々と二百年以上生きてきたから感覚がずれていた。命を軽んじていたことを僕は彼女に気づかされたのだった。
言われてから再び絵を見ると、また違って見えた。絵に対する親しみはさらに増し、母を慕って眼の奥が熱くなった。
「やっぱり僕はこの絵にとても惹かれます。なのに君はどうして嫉妬を?」
「彼女は愚かでも、命を無駄に投げ打ったわけでもなかった。結果として彼女は死んでしまうけど、この世に悔いはなかったと思います。私もそんな悔いのない人生を送りたいなって、嫉妬したんです」
中村祥子さんは二十二歳だという。まだ若いし人生これからなのに、悔いなく生きたいという考えは早過ぎる気がして、僕の胸に腑に落ちないものを残した。