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限りあるからこそ  作者: 白木蓮
第1部
3/11

過去の女01

 ――二〇××年、秋。僕は騒がしい街のスクランブル交差点のど真ん中に立っていた。こんな光景は見たことがなく混乱して動けなかった。何をそんなに急いでいるのか、黒い頭が泳ぐ合間を縫って、人々はせかせかと交差点を渡っていく。

 どん、と思い切り肩がぶつかって僕はよろけた。

「すみませ――」


 謝りの言葉を最後まで聞く時間すら惜しいのか。ぶつかってきた中年の男は僕をちらっと見ただけですれ違っていった。嫌な顔もされなかった。それでなんとなく親近感が湧いた。なんだ。僕の時代が特殊だと思っていたけれど、この時代も無関心で溢れているじゃないか。


 向かいにある人間のマークを描かれた機器が、ちかちかと点滅し始めた。すると人々は走り出す。あれは信号機だと研修で習った。車にひかれては敵わない。僕も早足で向かいに渡った。

 人通りの少ない路地に滑り込み、壁によりかかった。雑居ビルの狭間にある小さな秋空を仰ぎ、息をつく。

「あんなところにほっぽり出されるなんて」

 ポケットからスマートフォンを取り出した。タイムトラベルアプリが開きっぱなしだ。遡りたい西暦を入力した瞬間、交差点のど真ん中に僕は突然運ばれたということだろう。


 一昔前のタイムトラベルはマシンが必要で大がかりなものだった。最先端技術の賜物により、小型機器と人体に埋め込んだナノチップを連動させるだけで時間旅行が可能になったのだ。機器は行きたい時代に合わせて変わる。江戸時代は小判型、中世ヨーロッパなら女性はブローチ、男性はカフスボタンや懐中時計など様々らしい――光宏談によれば。


 マップのアプリに切り替え、目的地を調べた。ここからそう遠くないことが分かったので、徒歩で向かうことにした。

 僕は不自然じゃないだろうか、周りから浮いて見えないだろうか。きょろきょろ見回し、すれ違う男性たちと僕の服装を見比べる。グレーのパーカーを摘んで思った。ラフだったか、スーツを着た会社員が多いから、もっとかちっとしたものを選んでくるべきだったろうか。


「うわっ」

 固いものと激突して千鳥足になった。前のめりになり、腹回りに棒状の感覚がめり込む。慌てて掴んだのは自転車のハンドルで、歩道の端に寄せられた迷惑な放置自転車群だった。

 ぐにゃっと潰された感覚の胃をさすり、僕は自転車に溜息をついてみせた。よそ見をしていると、畳まれて積まれた段ボールや発泡スチロールの容器と衝突してしまう。この時代は障害物だらけだ、気をつけよう。


 繁華街を抜け、小学校や図書館が点在する閑静な住宅街までやってきた。アスファルトにへばりついている黄色の葉たちを、掃除が大変だろうと思いつつも、僕がまたも踏みつけた。なんとも言えない悪臭に眼を細めて鼻を摘む。そうしてイチョウの木が植えられている神社の角を曲がった。

 古い役所のような建家を通り過ぎようとしたとき、手にしていたスマートフォンのマップが行き過ぎだと示してきた。数歩戻って見上げる。立派な住宅がひしめき合う中で反発する異端児とでも言おうか、客寄せをする気はさらさらなさそうな建物だった。自動ドアの隅に「広尾町郷土資料館」と書かれた立て看板がある。ここが目的の場所らしい。


 緊張してきた。心拍数が上昇していく胸を押さえる。焦がれ続けた絵を、ようやく生で鑑賞することができるのだ。僕は眼を閉じて深呼吸をした。ついで時空監査員からの注意事項をいま一度呼び起こした。細かい規制は多々あるが、ようは過去の者と深く関わりを持たなければ違反に触れるおそれはなさそうな項目ばかりだったと思う。だから僕には簡単なことだと思われた。


 受付の老人から入館料と引き換えに館内のしおりをもらった。案内板の順序に逆らい、目的の絵が飾られているブースへまっすぐ向かう。改装してまもないのか、内装は綺麗だった。反発力のあるオリーブ色の絨毯も疲れた足に親切だった。

 絵は二階にあった。昔の広尾をスケッチした絵と絵のあいだに飾られている、かなり不釣り合いな西洋絵画。作品名、作者名はともに不明。油絵で描かれたマーメイドの絵は、間違いなく僕の財布に入れてある紙と同じものだった。

 眼の奥をじんと熱くするものは何か。繰り返し代えた肉体を代償に、とうに失ったと思われた感動という心に違いない。感動するとはどういうことか、そんな感覚すら忘れていたからひどく新鮮だった。僕は閉館まで、マーメイドの絵を眺め続けた。


 渋谷駅近辺でウィークリーマンションを借りた僕は、毎日徒歩で広尾まで歩き、資料館へ通った。昼飯を済ませてから入館し、閉館間際に退館するという日課が四日続いたときだった。

 古びた匂いがそこはかとなく充満しているブース内に、植物系の優しい香りがふいに紛れ込んだのだ。四日通って、一度も見かけなかった僕以外の来館者だろうか。

 絵から視線を外して左を見たとき、人影がさっと消えた。絵画専用である十畳ほどのブースの隅、上方に非常口の誘導灯がある壁の角から、長い黒髪をたなびかせて。


 それから毎日、ブース内で優しい香りが一瞬だけ漂うということが続いた。直立不動で絵を眺め入ることは苦痛ではなかったが、古びた匂いを嗅ぎ続けるのは飽きる。だからそんなおりにふと香ってくるラベンダー畑のような色のついた空気は、外で深呼吸をしてきたような気分にさせてくれた。

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