僕の今02
クローン技術は第三次世界大戦後から飛躍的に進化した。事の始めは核戦争で半数以上を失った生物の復興のためだったという。技術が定着した初期は、おもに難病を克服する医療として使われた。しかしいつしか人間は、老化という抗えない宿命に抗おうと、培養した自分の細胞から作られる代えの肉体を求めたのだ。
光宏は絵にふうふうと息を吹きかける。
「自分の歳を言うなんざ、俺はなんとも思わないけどな。ビルの屋上でだって叫べるぜ。三百歳でーすって」
「サバを読んでる。そんな切りのいい歳じゃなかったはずだ」
他人の細かい端数までは覚えていないけれど。
「単にめんどくさがっただけだから。三百何十何歳なんて……覚えてらんないさ。そういう結城はいくつになった?」
「七年前に移植手術を受けて、今年二十六になった」
「若いね~……って違うよ! 肉体年齢じゃなくて!」
「ああ、そっか。ええと、二百――」
二百いくつか、思い出せなくて僕は口籠った。作業着の胸ポケットから財布を取り出し、身分証を確認する。
「二百四十二歳だった」
「だろ? 歳なんかいちいち覚えちゃいないって」
誕生日を祝うなど遥か昔からしなくなった。若返り手術を受けたのは三十代のころだった。六十を超えたあたりからは歳を重ねるという意識が薄れ、同時に生まれた月を越しても年齢に興味がなくなった。いまでは身分証を見ないと、ふいに歳を聞かれたとき、答えに詰まるようになってしまった。こういうとき、なぜか胸に風穴があく。
「物覚えが悪くなったわけでもないのに」
「俺も結城も馬鹿になったわけじゃない。年老いていくことに切羽詰まらなくなっただけさ。いいことだろ。不幸な事故でも起きない限り、寿命や病気で死ぬ恐怖もない」
長く生きることが当たり前。街行く人は若者の仮面をつけた高齢者ばかり。若さと美貌を自由に手にする時代になった代わりに、その代償として心を失った。無関心。それがいまの社会であり、僕だった。
僕が老いない肉体を欲したきっかけは一枚の絵だった。それは財布にいつも入っている。
カード入れからヨレヨレの切れ端を半分つまみ出した。中学生のころに使っていた美術の教科書から切り抜いた印刷された絵。一目見て惹かれ、ずっと探し続けている絵だった。
「その絵の調査は進んでる?」
光宏に聞かれ、僕はヨレヨレの切れ端を財布に入れ直した。
「いや。過去の新聞や資料を遡っても、ある時期から忽然と姿を消してて……どうしたものか」
「絵が姿を消した時期は分かってるのか」
「ああ。どんなにひどい状態でもいいんだ。ただ、この眼で一度、本物を見たいんだ」
この絵に対してだけ僕は人間らしく関心を持っていられた。食や、服装や、女や。珍しい絵画を発見して大学の研究所から名誉賞を受けても、特段無関心である僕が。
「時期が分かってんなら行ってくればいいじゃないか。過去へ」
僕は黙った。
「お前もタイムトラベラー資格を持ってるんだ。何十年も前に取ったのに、一度も使ってないのが不思議でならん。なんで躊躇するんだよ」
「過去に干渉しそうで怖いんだ。未来に存在しないと分かっていて、その絵を見て正気でいられる自信がない」
「絵を盗んできそうって? 大丈夫だ。そんな大胆なことができる玉じゃないよ、結城は」
慰めるような顔つきで光宏は僕の肩を叩いた。
「眼に焼きつけてくるだけでも違うと思うよ。絵の手がかりもあわよくば手に入るかもしれないだろ。残されてる資料だけじゃないぜ、真実は」
眼に焼きつけてくるだけでも――。その一言で僕はようやく決心がついた。
だがそれだけではなかったろう。余分な皺のない自分の手のひらを見つめる。二百四十二年間も生きてきたなら、とうにミイラのようであるはずの手を。
きっと疲れきってしまったのだ。数十回も経験した移植手術と、そのたびに世に対して無関心になっていく己に。生きることに飽きたのか、白髪だらけの余生を送りたいのか。おそらく長く生き過ぎたのだろうと思った。