進め!別府造船所(仮)外伝 量産型タク・シン シスターズの軌跡 外伝 蘭印艦隊 後一歩
となりの山田様の別府造船所シリーズの外伝として製作した物です。
本編とは何ら繋がりのないものですのでお間違いないように。
1936年2月にタイが日本に発注した巡洋艦『タクシン』と『ナスレアン』を手に入れたことで、隣地仏印を植民地として持つフランスが過剰反応を起こし、数ヶ月後の1936年7月、フランス海軍は元々仏印艦隊所属の軽巡洋艦ラモット・ピケに加え同型艦のプリモゲ、さらにはシャカル級大型駆逐艦4隻を回航してきた。それに反応した英国はシンガポール、香港へ艦艇を増派、アメリカは地域の安定化を隠れ蓑に日本に対しての警戒からマニラに艦艇を増強し、それに刺激されタイも艦艇の更なる増備を計画するという悪循環に陥っていった。
そんな中、同じく東南アジアに植民地を持つオランダも一人蚊帳の下に居る訳にはいかなくなったのである。そもそも当時はのオランダは蘭印より稼がれる資本、資源により本国経済を動かす状態で有り、蘭印はオランダの生命線と言え、蘭印無くてはオランダは成り立たない状態となっていたのである。その為に海軍力はオランダ本国より蘭印の方が遙かに強大で軽巡洋艦を筆頭に旧式ながら海防戦艦まで保持していたのであるが、周囲が玉突き式に海軍力を増強したために、オランダとしても対抗上海軍力の増強が責務と成った。
計画に当たっては、第一次世界大戦前に計画された蘭印防衛用戦艦の建造計画が再度検討され始めた。その計画は戦艦9隻を整備するという当時のオランダとしては野心的というか、経済能力を全く無視した無茶な計画であり、案の定一隻も起工することなく消滅した計画であった。それを鑑み今回は常識的に3隻の建造を目指したが、残念な事にオランダでの建造には設計能力は元より造船所能力及び武装製造能力の著しい不足が確実視された為に他国への設計依頼或いは建造までも考え、それとなしに各国の造船所へ照会を行った所、ドイツ、アメリカの2国が最終的に名乗りを上げた。
他の先進造船国たるイギリス、フランス、日本、イタリアは興味を持ち実際にある程度の話まで来たが、結果的に辞退する事に成った。それにはそれぞれのお国の事情が存在していた。イギリスは当初は乗り気であったが、次期主力戦艦5隻と装甲空母4隻の建艦に造船所のリソースを喰われることが確定していたために3隻もの大型艦を受注した場合は自国主力艦の建艦に悪影響を与える可能性を考えたと表向きは表明されたが、実際にはチェンバレン率いる楽観的な政府と違い、海軍はドイツの膨張主義を危険視し早急に主力艦艇の増加をする為にオランダ何ぞには構ってられないと言う本音があった。
フランスは元々仏印と蘭印との地理的関係、ナポレオン戦争以来のオランダとの蟠りなどが有り、更にフランスの宿痾というべき造船業などのストライキや期日までに完成できないルーズさも相まって両国とも乗り気ではなくそのまま自然消滅の形となった。
イタリアはムッソリーニが「イタリア造船界の底力を見せるのは今だ」と意気込んだが、元々米英に比べて貧弱な造船能力のうえ、当時は新型戦艦ヴィットリオ・ヴェネト級の建造と共に旧式戦艦カイオ・ドゥイリオ級の大規模近代改装に着手したばかりであり、とてもでないが造船所の手が足りない状態で結果的にイタリアからの話も立ち消えと成ったのである。
日本ではタクシン級を建造した別府造船所が非常に興味を見せ、社長来島義男が自らオランダ大使館まで出向き「是非建造させて頂きたい」と駐日大使に面談するほどの熱の入れようであった。しかし軍艦と言えば高々五千トンクラスの軽巡しか建造したことがないような地方の一造船所がいきなり巡洋戦艦の建造など出来る筈がないと、世間では鼻で笑われたのであるが別府造船所には切り札が存在した。それは義雄が第一次大戦後に欧州へ旅行した際に旧ドイツ帝国海軍が建造途中で放棄した各種艦艇や装備品を多数買い込みストックしていたからである。最大の切り札とはドイツ帝国海軍大型巡洋艦として建造されていたマッケンゼン級2番艦『グラーフ・シュペー』であった。彼の艦は義雄がマッケンゼンと共にドイツより回航し、マッケンゼンは別府造船所において高速貨客船霧島丸として竣工していたが、2番艦たるグラーフ・シュペーは、1929年の世界大恐慌の影響で改装が中止された状態で造船所の浮き桟橋代わりに係留されていた。その上、マッケンゼン級のスペックが基準排水量31,000t、35糎連装砲4基、機関出力90,000Ps/h、速力は28.8ノットを発揮可能であった。このスペックからオランダ巡洋戦艦としては速力だけが不足することが判るが、建造時から20年近い化学の発展で同一機関室内に更なる増加機関をねじ込める算段が有った為に、まず1艦目を売却し、その後にメインとして義男の長年の夢である新規建造を行うと言う考えであったが、世の中そうは問屋が卸さないものである。何故なら仮想敵国であるオランダに態々巡洋戦艦を与えるなど狂気の沙汰と海軍はおろか陸軍、政府、一般市民に至るまで大反対が起こり、一時期は義雄の命を右翼が狙う事態にまで発展した。義雄にしてみれば自分なら何とか成ると高を喰っていたが、造船所の職員や妻の実家貝島家にまで危害が及ぶに至ると、さしもの義雄も家族や従業員の事を考え泣く泣く計画を断念するに至ったのである。
結果的にドイツからは、ホヴァルツヴェルケ・キール株式会社が代表として名乗りを上げた。此は同社が経営不振で喘いでいた為に起死回生の手としたいからであった。さらに同社は第一次大戦時に戦艦ヘルゴラント、戦艦バイエルン、戦艦 カイゼリン等の建造実績があるため建艦には不安はなかった。艦設計は同時期にドイツで建造さて居たシャルンホルスト級の設計を政府の許可を受け改良して使用することとしていた。これは蘭印における艦の使用意図が日本の重巡洋艦撃破にあるためで、さほど重装甲でも重武装で無くても構わず、速力重視と言う考えからであった。
次いでアメリカからは、ニューヨーク造船所が名乗りを上げた、此は当時行われていたニューディール政策ではフーバーダムなど内陸部の開発は進んでいたが造船業にはさほどプラスと成らない状態で有ったが為で、現在ニューヨーク造船所ではブルックリン級軽巡洋艦3隻を同時建造中であるが、1938年前半でその仕事も終わるため、此処で更に3隻もの大型艦の建造をする事により関係各所を含む造船業界が大いに潤うとの考えにより造船所のある地元選出議員からルーズベルト大統領に盛んにプッシュが行われた事も表向きの要因として語られたが、裏向きの理由は蘭印に3隻の巡洋戦艦が存在する事で日本に対しての圧力としてフィリピンの防衛強化に間接的にプラスになるとの考えが有ったのである。
その結果米独2国間の綱引きとなった訳であった。当初オランダは隣国ドイツとの関係改善を考えドイツへ発注との考えに傾いたのであるが、アメリカ側から巡洋戦艦が完成するまでの繋ぎとして最旧式ながらペンサコーラ級重巡洋艦1隻とオマハ級軽巡洋艦2隻捨て値同然で譲渡すると言う提案がなされた。その上アメリカの示した金額がニューヨーク造船所だけで3隻建造するため生産効率の関係でホヴァルツヴェルケ・キール株式会社が代表で受注するが建艦能力の関係でそれ以外の造船所でも建造する為、どうしてもコストの掛かるドイツの示した金額に比べ格安であった事も相まってと本国政府、蘭印政府、海軍関係者とも非常に乗り気と成った。さらにはドイツ自体が1935年6月に締結した英独海軍協定で海軍の増強に力を入れており、果たして約束通りの期日で完成するかも怪しい所があった。
その様な紆余曲折が有り、早急に蘭印艦隊を整備したいオランダ政府は1938年4月にアメリカに対して、巡洋戦艦3隻とペンサコーラ級を更に1隻を含む重巡洋艦2、軽巡洋艦2、駆逐艦12隻を発注した。このうち巡洋戦艦以外は全てアメリカ海軍の中古船であるが、引き渡される前に小規模ではあるが近代化改装を行い引き渡されることと成り、ペンサコーラ、ソルトレイクシティ、オマハ、ミルウォーキーが順次改装され、1939年7月までに引き渡された。中でも駆逐艦は第一次大戦時建造で艦齢18年ほどのウィックス級のキンバリー、グリッドレイ、ティラー、ベル、イズリアル、ランスディル、ウォーカー、オバノンの8隻、クレムソン級駆逐艦のジェームス・K・ポールディング、モリス、ティンゲイ、マーカスの4隻で合計12隻で有るがこれらは1936年から38年かけて退役した艦なため、改装は機銃の増備程度の最低限の姿で供給された。その為、改装費を含め価格は1隻1ドルという捨て値であった。これは東南アジアにおけるオランダとの共闘を考えていたアメリカ政府の意向により決められたのであるが、中立法の縛りから供与ではなく譲渡すると言うアリバイ作りと言えた。
この当時ニューヨーク造船所では、BB-57(サウスダゴダ)建造が計画されていたが流石にアメリカの老舗造船所で有るが故にリソース不足などには成らずに3隻同時に建造を行える状態で有った。その為、BB-57とオランダ艦2隻をまず建造しその後最後の1隻を建造すると言うスケジュールが組まれた。
設計に関しては受注前からアメリカ政府の思惑から海軍からの全面的なバックアップにより指導を受けており、前級BB-55(ノースカロライナ級)の設計を原型としてはじまっており、受注時にはかなりの個所の設計が終わり最終的に設計時間の短縮が図れた。此により受注から僅か2ヶ月後の1938年6月に1番艦を起工する事が出来た。続いて同年12月に2番艦が起工され、BB-57は翌39年7月に起工し始めた。此によりニューヨーク造船所では3隻の戦艦が同時進行で建造される事と成り、地元経済に多大なる恩恵を与える事になった。
当初オランダ側が望んでいた艦は、ドイツのシャルンホルスト級によく似た、基準排水量28,000噸、全長237m、全幅30m、機関出力180,000Ps/h、速力34ノット、航続力20/4,500、武装L45/28.3cm3連装3基、L45/12連装砲6基、ボフォース L56/40mm連装機関砲7基、20mm単装機関砲8基、舷側装甲250mm、甲板装甲100mm、主砲砲盾250mmという性能の艦であったが、オランダ当局が安価に済ます見返りと種々の条件を妥協した結果、蘭印に適した冷房装置などの熱帯対策以外は設計を全てアメリカに任せた結果、ノースカロライナ級をタイシップとした為に、ほぼノースカロライナ級の準同型艦と思えるほどで実にアメリカらしい姿と設備を持つ艦となっていた。
ノースカロライナ級との違いは、元々ノースカロライナ級が第二次ロンドン条約の規定に従い当初新開発のL50/35.6cm4連装砲3基を搭載する予定で計画されていたのであるが、ライバルたる日本の新戦艦が40.6cm砲を搭載しているとの情報からエスカレーター条項が発動し40.6cm砲の搭載が可能となった為に、主砲口径を35.6cmから40.6cmへ上方修正した。その為、ノースカロライナ級用とし設計が終了し砲身及び砲架の製造に掛かっていたMark B 35.6cm砲が余剰と成ったため、その砲を流用することが決まった。此によりオランダは仕切り品の使用により金額の更なる削減と建造期間の短縮がアメリカとしても不良在庫を処分できると言う効果を得た。装甲に関しては、巡洋戦艦と言うカテゴリーからノースカロライナ級の舷側324mmから若干の削減が行われ、それによる重量減少分により船体中央を10m延ばしノースカロライナ級が8缶であるボイラーを10缶に増備し、ボイラー自体をバブコック・アンド・ウィルコックス式重油専焼水管缶から、BB-57が装備する高温高圧缶に変更し機関出力を162,500Ps/hへ強化し30ノット発揮可能な様に変更された。
1番艦はマウリッツ・ファン・ナッサウと名付けられる事が決まっており1938年6月12日にオランダ皇太子配偶者ベルンハルト・ファン・リッペ=ビーステルフェルトによりキールにリベットが打ち込まれ起工された。2番艦はヴィルヘルムス・ファン・ナッソウエと名付けらる事が決まっており1938年12月5日に駐米オランダ大使列席の中で起工式が取り行われた、3番艦はフレデリック・ヘンドリックと名付けらる事が決まっており1940年、1番艦が進水後に起工されることとされた。その後両艦とも順調に建造が進みマウリッツは2年後の1940年5月9日に進水した。しかし図らずも翌日にはナチスドイツによるオランダ本国への奇襲攻撃が行われた。此により建造中の2艦と建造準備中の3番艦の運命に大いなる変化が現れる事と成ったのである。
進水式の興奮冷め止まぬ中での緊急ニュースにより造船所では不安が起こったが、第一次大戦では塹壕戦により戦争が長期化した事から、今回の戦争も長い戦いになると思われた。しかしその様な憶測はオランダが僅か一週間の戦闘で降伏したことで吹き飛んだ、オランダ全土はドイツにより占領され、辛うじて王室はイギリスへ亡命しその地に亡命政権を立てた。此により各艦の建造が宙に浮くかに思われたが、本国を失ったとは言え蘭印は亡命政権側に忠誠を誓って居るため、日独伊防共協定を結んでいる日本に対して更なる警戒感から、1,2番艦は建造を続行されたが、起工前の3番艦は建造中止となった。6月になるとマウリッツは艤装工事のためにニューヨーク海軍工廠へ回航された。6月25日のフランス降伏後、8月になり日本が北部仏印へ侵攻するに至って蘭印現地政府は更なる危機感を抱き建造期間の短縮を要請してきた。これに対してニューヨーク造船所だけではなく、ニューヨーク海軍工廠が全面的に協力することで工期短縮が図られる事と成った。その結果1940年12月12日に2番艦ヴィルヘルムス・ファン・ナッソウエが無事進水し、翌1941年1月になるとマウリッツと同じくニューヨーク海軍工廠へ回航され艤装工事が開始された。
三田一族の改訂増補作業中の息抜きに製作した物です。