ノーマン・グランツ
琥珀の森 9 ノーマン・グランツ
グランツ一家はかつて、ベラム王国の東に位置する自治州に居住していた。ノーマンが生まれる前に彼の両親は自治州を出て、ベラム王国の西方に居を構えた。
ノーマンは、グランツ家の長男として生まれた。赤子にしては大柄な体格で生まれ、その発育状態には医者も目を見張るものがあった。
彼は、グランツ家の長男としてすくすくと育ち、早いうちから教えてもいない本を読めるほどには頭のいい少年であった。末は博士か大臣か?親の期待を一心に受け深い愛情を持って育てられた少年は、妹が生まれたこともあってか、責任感が強く、手のかからない少年となった。
そんな彼に親友ができた。テオ・マセロという同い年の少年だ。テオは斜向かいに住んでおり、二人は同い年ということもあってかすぐに仲良くなった。さほど大きな町ではなかったので子供が少なかったという事もあったが、彼ら二人は親友というのにふさわしい程に硬い絆で結ばれていた。
彼に転機が訪れたのは、ベラム王国が共和国になった革命であった。当時の彼にとっては政治の、統治の在り方が変わった所で日々の生活が大きく変わるわけでもない。今まで通り朝起きて朝食を食べ、学校へ行き、昼食を食べ、友人と遊び、帰宅。そして夕飯を済ませて後は夢の中へ………それだけのことだ。
何も変わらないはずだった。大人たちにとっては大事であっても、子供である彼にはほとんどと違っていいほどに関係のない事だった。
しかし、数年後、彼の叔父にテロリスト疑惑がかかったことで全てがぐれんと変わった。根も葉もない噂がたち、街に居づらくなってしまったのだ。彼の両親も言われのない中傷を受けることが多くなり、ついに元いた東の自治州に戻ることにした。それはノーマンにとっては最良の友であるテオとの別れを意味していた。
自治州に戻った後、彼は何度もテオと手紙のやりとりをしていた。内容はごくごくありきたりな近況で大した中身もなかったのだが、それでも遠く離れた親友との友情を確かめる確かなものとしてそれは機能していた。
手紙のやり取りをして数年が経った頃、またしても彼の人生において大きな事件が起きた。
ーーー自治州の国家としての独立戦争と大戦の勃発だ。
独立戦争によって自らが属する国家すら変わってしまった彼らにさらなる苦行を強いた大戦はベラム共和国の北部にある彼の国の王位継承者への銃撃事件に端を発し、あっという間に大陸中に伝播していった。
ベラム共和国もその流れには逆らえず、連合軍に参加することとなった。とはいえ、人的資源の少ない国であったため、現役軍人だけでなく、多数の徴兵者をも前線に送り込む事となった。
その、徴兵者の中にはテオ・マセロとノーマン・グランツがいた。
二人は偶然にも同じ部隊に配属されることになった。かつて同じ国であり、そこから独立した国と独立を許してしまった国同士が共闘するというなんとも皮肉な状況になった。このような配属のされ方には、おそらく、ベラム共和国が未だ独立した自治州の再統合、融和を目指す一派がそのためのひとつの手段として画策したからだとも言われてるが、本当のところは定かではない………。
しかしながら、理由がなんであれ、青年となり兵士となった二人は軍隊において再開を果たすことができたのだ。
◆
徴兵検査を受け、徴兵が決定し、嘘のように短い新兵訓練を終えた俺は、歩兵部隊に配属された。右も左もさっぱりわからなかったが、兵舎で懐かしい顔を見かけて驚いた。
テオだ。テオ・マセロだ。
向こうもこちらに気づいたようで目を丸くしてこちらを見ている。しかし、人違いという事もある。長年手紙のやり取りをしていたとはいえ、最後に会ったのは随分子供の時分だった。面影はあれども本人かどうかは推測こそできても確信には至らない………。
お互いに出方を伺っていると、上官が来て整列させられた。そして上官は自分の部隊員全員の名前を次々と読み上げていった。
「………テオ・マセロ………ノーマン・グランツ………」
テオの名前が読み上げられた。その瞬間、疑念が確信に変わった。 やはりあいつはテオ・マセロだ。あいつも俺の名前を聞いて俺だと確信したに違いない。俺は早くテオと話したくてウズウズしながら何を話そうかとずっと考えていた。
熱弁を振るう上官の演説はさっぱり頭に入ってこなかったのは言うまでもない。後で聞いたところ、テオもそうだったという。
上官の演説が終わり、解散命令が出た。俺は早速テオに話仕掛けた。
「あー………テオ、テオ・マセロだよな!」
「ああ、グランツ!まさかこんなところで再会するとはな。びっくりだ」
テオは笑いながらそう答えた。俺はうっかり子供の頃のようにファーストネームで読んでしまったが、テオはファミリーネームで俺を呼んだ。うん。確かに。もう子供でもないのだから名前で呼ぶこともないだろうとも思ったが、テオは時折俺のファーストネームも交えて会話していた。
手紙のやり取りを長年続けていたとはいえ、俺達の微妙な距離感がお互いの呼称に何らかのためらいといったものを生じさせたのだろう。なんというか、少し恥ずかしおもはゆい気持ちがあったのだろうと俺は理解した。
勿論俺にもそういった気持ちはあったが、再会の興奮がそれを勝っていたのだ。ひとしきりマセロと会話した後、一気にそれがこみ上げてきて、子供じみた自分の気持ちに一人悶えた。
………
マセロとの再会を果たした後、すぐに前線に送られた。まずやることいったら塹壕堀りだ。今回の戦争は旧時代のそれとは全く違う様相を呈していた。古くからの縦隊、横隊による行軍と突撃という戦闘様式は機関銃の発明により一気にその意味をなくしていった。代わりに、散兵戦術と塹壕戦と敵弾による爆撃がメインの戦争方法になっていった。
俺達辺境のベラム共和国が参戦する頃には既に塹壕戦が始まっており、銃を持つ時間よりも塹壕を押し広げるためにスコップを持つ時間のほうが多かったように思える。
それ程に戦争は今までの戦争とは全く違う形式を次々と形成しつつあり、俺達はそれに慌てて対応策を考えて提示、命令してくる上層部の指示に右往左往しながら軍務に就いていた。
戦闘は散発的に起こっていた。ある時、マセロが小便をしている場所に敵からの擲弾が直撃したことがある。
俺は事前に小便に行くと聞いていたから、てっきりマセロが死んだものと思って、怒りと悲しみが入り混じったなんとも形容しがたい感情に囚われながらライフルで応戦した。皆一斉に塹壕壁に体を寄せ、必要最小限の動きと体の一部を晒しながら敵を狙い撃った。
いや、ほとんど狙っている暇などなかったと思う。ほぼ乱射に近いものだった気もする。その時のことを美味く思い出せないほどには混乱していたと思う。皆、怒りや悲しみよりも自分が殺されるかもしれないという恐怖の方が勝っていたのだろうから後者が正しいだろう。 マセロの死を確信してしまった俺以外は。それ程に俺のマセロを失った悲しみとマセロを殺した敵への怒りは大きかった。
皆、しばらくライフルで応戦した後、ようやく、味方の擲弾部隊と砲兵が攻撃に参加してきた。全部隊、完全に戦闘態勢に移行したのだ。俺達の部隊は敵からのマセロの小便場所への一撃を発端として総攻撃を仕掛けた。
「全員突撃!」
ひとしきり擲弾部隊と砲兵部隊が敵陣を穴だらけにした後に上官のその一言で俺達は突撃した。敵の機関銃はまだ生きている。俺と同じく突撃する仲間が敵の銃弾に倒れていく。しかし俺には当たらない。当たるはずがない。マセロの仇を撃つまでは死ぬはずがないと根拠もなく確信していた。
鉄条網を破壊し、飛び越し、敵の塹壕へ突入する。俺は眼前の敵を次々と殺していった。銃に装填された弾丸はとうに尽きている。弾丸を装填する時間などない。そんな距離でもない。俺は銃剣を相手の臓腑に突き刺し、捻り、ブーツで敵の腹を蹴り押しながら銃剣を引きぬいた。時には銃床で相手の顎を砕き原型をとどめない程に殴打した。ひとり殺してはまたひとりと、別の敵兵に同じ事を繰り返した。
敵兵の苦悶の声など耳に入らない。もとより度重なる爆撃音と受精で耳はおかしくなっている。味方の呼びかけすら耳に入らない。ただ、視覚に入った敵を突き刺し、殴り、殺すだけのことだ。それ以外にすることも、考えるべきこともなかった。
敵の塹壕での俺の姿は鬼神のようであったと後に戦友から聞いたが、その時のことはあまり覚えていない。無我夢中だったのだ。俺が我に返ったのは、死んだはずのマセロが俺の肩を揺すって何度も俺の名を呼んだ時だった。
空耳かと思った。耳など既にないも同然におかしくなっていたし………しかし、異常のない俺の目にはマセロの顔がはっきりと映っていた。幻ではない。マセロだ。
ーーーマセロは死んでいなかったのだ。
あとで聞いた所によるとマセロが小便をしようとした時、同じ部隊の仲間が彼を引き止めたのだそうだ。頑なに小便をしたいから引き止めないでくれと言うマセロを引き止めた男は「予感がする。絶対に行くな」と言い放ったそうだ。
そう言って彼と口論している最中、あの便所への爆撃があったとのことだ。マセロは今でもその男に感謝し、その家族にも何かと世話を焼いているそうだ。
………
状況を把握した後の気分は最悪だった。マセロが生きていたことは素直に嬉しかった。しかし、俺は復讐心によってのみ、多くの敵兵を地獄に送ったのだ。
戦争であるのだから、敵を殺すのは当たり前と思うかもしれないが、戦争にもルールがある。お互い不必要な殺意や殺人行為を犯す必要などないのだ。結局のところ、政治の一表出物に過ぎないのだから。理性的な殺人 そんなものがあるだろうか?としてもだ それが戦争を戦争たらしめ、平時では重罪となる殺人行為を容認する背景なのだから。
しかし、あの時の俺はそれを逸脱していた。怒りに任せ、無差別に眼前の敵を殺していった。マセロのことなんか所詮は発端に過ぎず、結局のところ、闘争本能に酔った俺は、平時における精神のいかれた殺人者と同様だったのだ。
戦闘中は気分も高揚していたと思う。時折、笑っていたかもしれない。己が苦しめ、殺した敵を、その自分の闘争本能が成した成果を見て俺は笑っていたかもしれない。
よく思い出せないのは、思い出したくないからだろう。自分の、その殺人行為に酔った自分自身の姿を認めたくなかったのだろう………。
ーーー故に、俺は考え続けた。戦争とはなんなのか?それに準ずるということはなんなのか?それに抗うことは可能なのか?
そのひとつの答えが、軍属で在り続け、戦争の際に一兵卒では持ちえない指揮権を持つことで再び起こりうるかもしれない戦争に備えることだった。
ーーー数十年後、それは起こった。そして俺はマセロと共謀することで戦争に対するある一つの抵抗を仕掛けたのだった。
◆
先の大戦が終了した後、戦争での共闘などなかったかのようにマセロとグランツの属する国の関係はその後ろ盾にある大国の影響でむしろ敵対関係に発展していった。
そして、現状の大戦下ではマセロとグランツは敵対する立場にある。しかし、マセロとグランツはそのことを逆手に取り、自分たちの戦争に対する一つの態度を示し、実行した。ーーーそれがお互いの指揮権が及ぶ戦闘地帯において、不正規の休戦協定を結び、なおかつ、戦争継続のためにひたすらに国民に重税を課す国に仇をなす意味をも持って自分たちの配下の部隊を資本主義に忠実な商人として運用したのだ。
戦争において一切の戦闘行為をせず、見せかけの数字上の偽の戦果を報告し、ひたすらに商取引に従事する軍隊………すでにその商取引の規模はマセロやグランツにも掌握できないほどになっていた。
また、その見せかけの戦果を上層部に認めさせるために、私設、公設に関わらず様々な地下組織や情報機関をも巻き込んでいる。
マセロとグランツの画策したこの抗いは、もはや誰がコントロールしているのかわからないほどに肥大し続けていた。敵も味方もそうでないものも巻き込んで、それはひとつの生き物のように成長していった。
マセロとグランツの計画に関係している者の中には特異な人物も存在した。その男は自らを〈魔術師〉と名乗った。
大陸の西にある島国出身の紳士風の男はシルクハットに片メガネとインバネスコートといういかにもな格好でグランツの前に現れた。
その男はグランツの属する軍とも深く関わっており、特に、グランツとマセロらの掌握地帯に隣接する〈高射砲の森〉の調査に興味を示し、軍と共に調査をしているそうだ。
その男が本当に〈魔術師〉などというお伽話めいた存在であるかどうかはいまいちグランツにはわからなかったが、ただものではない事は理解できた。マセロとグランツの計画のほとんどの事情に精通しており、その大胆不敵な計画に興味を持ちグランツに接触したとのことだ。
彼は機知に富んだ人物で、グランツもさほど悪い印象は抱かなかった。ただ、あまり信頼するには値しない人物であるとの印象があった。それは、その男自身の人柄がそう思わせたのではなく、その男のもつ何か不思議な危険を孕んだ雰囲気がそう思わせていた。
しばらく歓談した後、男はとある品を差し出した。
煙草だった。
それは、彼自身が調合した薬品が染み込ませてある特別製の煙草で、吸う者の不安や疑念といったものを取り除くことができるという一種の麻薬のようなものだという。グランツ自身も吸ってみたが、確かに日々感じている不安が取り除かれたような気分になった。
男が言うには、これには麻薬のような依存性はないとのことだったが、煙草自体が依存性のある嗜好品であるということを指摘すると「確かに」と言って笑った。そして、続けてこういった。「これを貴殿とマセロ大佐の指揮下にある部隊内で流通させてくれないか?」と。
彼自身としては、戦争というこの非常事態とマセロとグランツが実行し作り出している異様な状況に乗じて〈高射砲の森〉の調査を円滑に実行したいがために、この取引を持ちだしたのだという。
マセロとグランツが作り出した高射砲の森の周辺の、戦争以上に異常な状況は既に彼らの手を離れて肥大し続けている。その空気はおそらくいずれは彼らの配下の兵士にも伝わり、不安が増大し、自分が見を置いている状況に疑問を持ち始めてしまっては、そこからこの状況が瓦解する可能性があると男は言った。それ故に、その不安を払拭させるための術としてこの煙草を流通させることによって協力したいとの事だった。
グランツは一度この話を預かってマセロと協議した結果、この煙草を部隊内で流通させることにした。麻薬のような効果と低依存性については確かに心配もあったが、この戦時においてはそのようなものは既にいくつも私的に流通しているものだ。さほど懸念する材料ではないととりあえずは結論した。
そして現在、マセロとグランツの部隊ではほとんどの者がこの煙草を吸っている。依存性は普通の煙草とさほど変わらないようだ。そして、期待していた不安解消効果も期待通りであった。秘密の保持のために地下組織を暗躍させる必要も大分少なくなった来たようだ。
戦争時において、戦争以上に異常なこの実験的なマセロとグランツの計画から発展したこの状況は、既に誰のものでもなく、誰のものでもある。魔術師と名乗る男とマセロとグランツ、そしてその他の様々な組織の思惑が渦巻くこの地帯は巨大な実験場と言っても過言ではない状況にまで肥大している。
ーーーしかしながら、そんな疑義もその〈特別製〉の煙草を一本吸えば雲散霧消してしまうのだが。