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Only You!  作者: 羽衣
13/14

十二話 告白



「ん?どうした妃奈。邪気が漂ってるぞ」



地獄から這い出た次の日の放課後。


ホームルームも終わり、いざ帰らんと教室を出た直後である。



「はあ……。またかぁ……」



妃奈はあからさまに大きなため息をつき、うなだれた。



「んー、どれどれ?」



妃奈が大事そうに握っている細長い紙を盗み見てみた。



「……呼び出し条?なんだ、教師を殴りでもしたのか?」



「ちっがーう!柊くんじゃあるまいし、そんな不良じゃない!」



俺は不良なのか……。


今明かされる、新事実。



「頭髪検査に引っかかっちゃったのっ。ほら私、こんなだから」



そう言って妃奈は、毛束をつまんでみせた。


うーむ、少し黒とは言い難い……。



「ああ、茶髪にしたのか。さすがはスケバン、やんちゃのスケールが違う」



「スケバンじゃなーい!髪も染めてなーい!」



いや、スケールについてのツッコミはナシですか?


スケールちっちゃすぎだろ!とかさ。



「自然とこうなっちゃうのっ。それで、今から教育指導の先生のとこに行って誤解を解かないといけないから、今日は先に帰ってなさい!」



「う……不良を怒鳴りつけるとは、なんたる豪胆ぶり」



「いいから早く帰るっ。寄り道とかダメだからね」



小うるさいのか心配性なのか微妙だが、とりあえず了承してひとり帰宅することにした。


ま、太陽の熱射光線に気を付けるんだな、神谷の姐さん。


三階から二階、そして一階へと階段を降りてゆく。


三階なんてふざけんなよ、なんて編入当初は嘆いたものだが、どうやら一年坊主は四階らしい。


前の高校は三年が三階、一年と二年は二階で収まったからな。


ほら、生徒数が段違いだからさ。


田舎の木枯とど田舎の前の土地では、やはりレベルが違うらしい。


まだ半年ほどしか経っていないというのに、ずいぶんと心境が変化したものだ。


下駄箱もほら、数が全然違うじゃないか……。



「あ、柊一だ。学校には来れたんだねー。立派立派」



突如、俺の名前を口にする人間が出没した。


どこかで聞き覚えがある気がするのだが、はて……。



「…………」



「……なに?その真顔」



振り返ると、ひとりの少女がいた。


とても長い黒髪……ああ、どこかで。


見た気が、する。



「?妃奈は?今日は一緒に帰らないの?」



その女は、どうやら妃奈を知っているらしい。


アタリマエのはずだ。


見たところ同じ二年だろうから、妃奈を知っていても全然おかしくない。



「……お前は」



……しかし、腑に落ちない。


俺に、妃奈や水野以外で美人の知り合いなんていなかったはずだ。


いや、そもそも……。




“初対面のクセに”、この女はなぜ俺の名前を呼び捨てにしているのか――――



「……ちょっと、どうしたのよ柊一。お化け屋敷の後遺症?」



お化け屋敷――――この女は一体なにを。



『 !あれ!出口じゃないか!?』



一体なにを、ほざいていやがるのか――――



『よっしゃ!全力で駆け抜けるぞ、 !遅れるなっ!』



お化け屋敷なんて、そんなもの――――



「――――ああ……そうか。俺、またか……」



「……柊一、やっぱり最近変よ。絶対おかしい」



「失礼なことを言うなよ、“桜”」



俺はさっさと靴を履き替え、帰ろうとした。


目の前の桜から逃げるように、焦りを感じながら。



「ちょ、ちょっと待って!言いたいことがあるんだけどっ」



……どうやら、現実逃避はかなわなかったらしい。


ズンズン歩く俺のそばを、桜がマークしてきた。



「柊一さ、私のお父さんと仲良いって……ホント?」



「んー、杯を交わし合った仲ってとこかな。けど、それがどうしたんだ?」



桜は急に言いよどみ、なぜかテンパっていた。


彼女にしては珍しい……いや、最近増えた、慌てた態度だ。



「な、なんかね、今度一緒に食事したいとかなんとかって……私は別にどっちでもいいんだけど、とにかくお父さんが、柊一に会わせろってうるさいのよ」



「……それで?」



「だ、だから!その……なんて言うか、こう……アレよ、アレ!」



アレで意思の疎通ができるほど、俺は人間的に卓越していない。


代名詞だけでなんとかなると思うなよ。


日本語はそんなに甘い言語ではないのだから、もっと言い方があるだろう。



「と、とにかく!黒塗りの高級車には気を付けなさい!」



そんな物騒極まりないことを叫んで、桜は走り去ってしまった。


それを桜の親父さんが言うと、シャレになんないからなあ……。


こう、アメリカンポリスに『撃つぞ!』と言われてる気分だ。



「……夜は出歩かないようにしよう」



心に誓い、周囲の気配に集中しながら家路を急いだ。




     ◇




「ただいまー」



居間でくつろいでいると、我らが神谷の姐さんのお帰りだ。


しかし、時刻はすでに六時を回っている。


いくらなんでも遅すぎるだろう。



「遅くなってゴメンね。すぐに夕飯の支度するから」



大きな買い物袋を二つも抱えて、妃奈は居間に現れた。


ったく、何度言えばわかるのか――――



「……妃奈。買い物に行くなら一緒だって言ったろ。そんなに重い荷物を抱えて、仕方のないヤツめ」



俺は買い物袋を奪い取り、中身を冷蔵庫に次々と放り込んだ。


袋の中には卵や野菜や肉類、調味料といった様々な食材が詰まっていた。


さぞかし重かったろうに……って醤油を冷蔵庫に入れても仕方ないか。


あ、アイス買ってきてる。


……抹茶味は譲れんな。



「あ、ありがと……」



妃奈は頬をほんのりと赤く染めた。


あー……手が触れたとかで照れてるならバカにしてやる。



「あっ!やっちゃった!」



「ヤっちゃったのか!?」



袋を一緒に漁る妃奈が変なことを言うので、ついお茶目に言い返してしまった。


決して分かりはしない超高度な冗談だ。



「ああ、もう……またやっちゃった……」



……また、なのか?


経験アリなのか?



「……なにをそんなにヤっちゃったんだ?」



返答次第ではビックリレベルがアンノウンだ。



「……福神漬け、買い忘れちゃった……。今日カレーなのに……」



「な、なんですと!?」



ビックリレベル、アンノウンだ。


福神漬けのないカレーなど、水のない海も同然。


俺は多少の既視感を覚えつつ、居間を飛び出した。



「隊長!急いで買ってくるであります!」



「うぅ……ごめんなさいでありますぅ……」



情けない声をガソリンに、コンビニという名の敵艦へと突っ込む俺。


夏は暗くなるのが遅いが時間が時間、隊長に行かせるわけにはいかない。


ならばこの俺が、大日本帝国の旗を掲げて特攻するしかあるまい。


神風の加護を受け、赤札を受け取った時から覚悟していた死を、俺は乗り越える。


大日本帝国、バンザーイ!



「……アホか、俺は」



高ぶる心を制し、冷静なツッコミを入れておいた。


神速で買ってきた福神漬け入りコンビニ袋を片手に、家路をのろのろと辿っていく。



「あー、やっぱ暗いなー。妃奈に行かせなくて正解だ」



コンビニ袋を振り回しながら、久々に口笛を吹いてみた。



「む……ヘタクソになってる。どうしよう……」



くだらぬ悩みを抱えて、すっかり夜型になってしまった町を闊歩する。


辺りは本当の夜のようで、人通りも皆無だ。


暗く、冷たく、寂しい夜。


かすかに聞こえるエンジン音に耳をかたむけて、初めてそこに人がいるのだと確認する。


拍動するように重く響く駆動音が近くなり、安堵の息が出る。


少しは涼しくなった暗い夏の中を、俺は歩いていく。


――――ふと。


なんとなくだが、身体がぞわりとした。


まるで、標的を定められた草食動物のよう。


胸が締め付けられ、途端に周囲が怖くなる。


電信柱の影が怪しい。


曲がり角の向こう側が怪しい。


しかし、どんなに訝しんだところで原因はハッキリとしない。


ハッキリとするならそれは、肉食動物の姿を発見したその時のみ。



「………ん?」



さっきまで聞こえていた車のエンジン音が、急に激しくなった。


まるで暴走するような……まるで何かに突進するような……。


――――まるで、草食獣を捕食しようとする肉食獣のような。



「っておい……マジか……」



町には、姿を隠そうとする肉食獣はいなかった。


かわりに、俺に向かって直進してくる漆黒の車が数台……。


明らかに尋常ではない。



「そこらのチンピラならいいんだが……ああ、俺が何をしたってんだ……」



あっさりと俺を包囲する高級車の群れ。


その数、約四台。



「おいおい、ガキひとりに大げさだね。最初から穏便にすますつもりはないってか?」



ぞろぞろと車から出てくる屈強な男たち。


その顔つきからして、タバコをくわえてバイクにまたがるヤンキーとは格が違うと判断した。


言うなればそれは、プロの顔。


カツアゲをするのとは次元が、一般人とは住む世界が違う極道の証だ。



「―――――」



物怖じせぬ俺に感嘆したか、頭と思われる男が少し空気を変えた。


必要なこと以外口にしない寡黙な戦士。


多分、素手でやり合っても負ける。


今の俺なら、サシでナイフを持とうと勝てはしない。


ならば、することなど決まっている。



「―――――」



距離を詰められる前に、一気に駆け出した。


ただの一般人なら怯えて動けもしないだろうが、俺は違う。


呆気にとられる黒服たちを背に、そのまま車のボンネットを飛び越えようとし――――



「ああ、くそっ……」



目の前に立ちふさがる、あの頭にようやく気が付いた。




     ◇




ゆらゆらと、体が揺れている。


それはもちろん車内にいるからで、俺が拉致られたからでもある。



「……ちくしょう」



小さく呟き、体の力を抜いた。


両隣には黒服のコワいおじさんが二人。


運転手と助手席も合わせて全部で四人。


無論、助手席のオジサマはミラー越しに俺を見つめている。


サングラスがカッコいいぜ……。


かれこれ十数分、俺は息苦しい地獄のドライブを満喫している。


向かう先は山か、湾か……。


そんなことを気にしているうちに、先頭の車が停止した。


左右の窓はお茶目なギミックが凝らされており、中から外が見えない。


フロントガラスから見るに、どうやらお屋敷に到着したようだ。


それも、特大の武家屋敷。


先頭車両から降りたお頭は、インターホン的なもので何やら交渉している。


すごく気になるけれど、今飛び出せばトカレフが火を吹くかもしれん。


うわあ、めっちゃコワいんですけどぉ……。



「出るぞ、ボウズ」



おじさんがハスキーボイスを震わせる。


俺も体を震わせながら指示に従う。


見渡してみれば、黒服さんがみな、勢揃いしていた。


皆さま一様に膝に手をつき、頭を下げている。


あ、逃げるチャンスかも?


――――カタリ、と小さな音がした。


大きな門のすぐ横にある小さな扉が開いたようだった。


そこから、俺より小柄な誰かが参上し――――



「カエルぴょこぴょこみぴょこぴょこおおおおッ!」



――――黒服一同が、突如としてコメディアンと化した。



「え、何!?早口言葉!?」



息のあった発声は百点満点。


大合唱となって俺の耳をつんざいた。



「あはは、おかえりー。それといらっしゃい、柊一」



パニクる俺をさらに追い込む誰かさん。


小さな扉から現れたその誰かさんは、俺の知り合いによく似ていた。


腰にまで届く、長く麗しい黒髪。


凛とした雰囲気を漂わせ、いつになく柔和に微笑んでいるその姿はまさに美妙だ。


ああ……なんで気が付かなかったんだ、俺は。


ほら、すぐそこに……表札があるだろ?


カッコイい名字じゃないか、西園寺だなんて。



「あのぉ……ボクは一体、何の落とし前をつけさせられるんでしょうか……」



「……落とし前?くだらないこと言ってないで、早くこっちに来なさい」



そう言って桜さんは、奥へと消えた。


……状況が、驚くほどに理解できない。


というのはウソで、実は結構わかってきた。


桜が帰り際に残した不吉な言霊。


西園寺さんが俺に会いたがっているという厄介な事実。


そして、あの表札……。


どうやら俺は、犯罪まがいのお出迎えに遭ったらしい。



「非常識な人たち……」



今さらなことを呟いて、俺は桜の後を追った。


扉をくぐり抜けるとそこは、ただの庭。


学校のグラウンドとあまり変わらない広大な敷地が広がっているだけだ。


もう驚かないさ。


拉致被害者なんて大抵そんなもんだよ。



「はいはい、こっちよ。迷ったら面倒だから付いてきて」



桜が数メートル先で手招きしていた。


……たしかに、迷ったら大変だ。


侵入者用のトラップが設置されてたりして……。



「……なあ桜、あの人たち何だったんだ?」



恐る恐る、訊いてみた。


とりあえず正体を確認せねばなるまい。



「ああ、よく解らないけど、良い人たち。私が生まれたときから居たんだけど、みんな私に親切なの」



「……そうか。それだけ聞けば十分だ。悪いけど、もう一つ訊いていいか?」



「?ええ、どうぞ?」



俺は手に持ったままのコンビニ袋を掲げ、胸を張り、堂々と口を開く。



「晩メシを……食べようとしてたんだがな。どうすれば帰してくれるかな」



「それは大丈夫。ちゃんとご馳走してあげるから」



いや、そうではなく……。



「それじゃ半分しか答えてないだろ。……帰る方法を教えてくれないか?」



「さあ?それは私の決めることではないわ。私の父が決めることよ。……でも、私の機嫌を損ねたら一生帰れないでしょうね」



なんてバイオレンス……。


俺は生と死の淵に立たされているのか。



「……よし。ならもう一つ。……さっきの早口言葉はなんだったんだ?」



「あれは挨拶よ、挨拶。あの人たちに言い聞かせておいたの。これからああ言いなさいって」



桜が決めたのか……。


お嬢!ただいま帰りました!なんて言われるよりは幾らかマシではあるが。


にしても広い……。


この屋敷にホームレスがやってきてもおかしくないぞ。


庭の中心には大きな池……それを囲むように、コの字型に屋敷が繋がっている。


土蔵もあるし、探せば宝の地図でも埋まってるんじゃないか?


それと……池のすぐそばに植えられた数々の木々。


何の木かは知らないが、花を咲かせば花見ができる。


いやあ、少し分けてくれないかなー。



「あ、そうだ。妃奈に連絡しなければ」



俺はズボンのポケットからケータイを取り出し、アドレス帳を開こうとする。


ガシッ、なんて擬音語はよく出来ている。


桜が俺の手首をつかんだ瞬間そんな音がした。



「……なんで、妃奈に連絡する必要があるの?」



「いや、そりゃだって一緒に住んでるんだから当――――」



……しまった。


これは口外しない約束だったのに――――



「――――然」



呆然としているのは桜も同じ。


俺の腕を掴んだまま、機能停止している。



「今――――なんて……」



「いや、早く行こう桜。桜のオヤジさん待たしちゃ悪いだろ」



「――――待ちなさい」



さっさと歩き出そうとする俺を、桜は制止した。


桜の手に力がこもり、腕が圧迫される。



「あんた……妃奈と一緒に住んでるの?」



冷たい桜のソプラノ。


不意に、ふたりの間をつむじ風が吹き抜けた。


庭の芝は風になびき、またもとに戻る。


桜は顔にかかった髪を払おうともせず、じっとこちらを見据えていた。


その眼差しは俺を貫き……返す言葉をただ待っている。



「……どうでもいいだろ、そんな事」



桜の強い視線に耐えきれず、ふいと目をそらしてしまった。


それでも桜は睨みつけるように、俺を凝視する。



「……お願い、答えて……」



いさめる風でもなく、桜は静かに言葉を紡ぐ。


悲しみすら含んだその言葉を、俺は無視することが出来なかった。



「……ああ。住んでるよ」



低く、小さく言葉を返した。


なんの感慨も込めず、ただ淡々と……。


そらした目を戻すことはなく、桜の表情はうかがえない。


……だというのに。


どうして俺は、桜が辛そうだなんて予想しているんだろう……。



「……そう、そういうこと……」



なにを納得したのか、桜はゆっくり手を離した。


俺は視線を桜に戻したが、桜は顔を伏せてしまっていた。



「……桜?」



「結構まえから、一緒に住んでるでしょ?」



桜はパッと顔をあげた。


予想していた表情とはかけ離れた明るい笑顔だったが、未だ辛そうだという予感は頭にこびり付いたまま離れなかった。



「え?ま、まあ二、三週間ぐらい前からかなぁ……」



「そっか……じゃあ悪いことしちゃったわね。今度お詫びするわ」



「……悪いことって、なに」



「あんたを今日連れてきちゃったコト。あと……遊園地のコト」



「俺を拉致したことは反省してほしいが……遊園地のコトってなんだ?」



俺はしてはいけない質問をしてしまったのか。


桜は心底あきれた表情でため息をついた。



「……筋金入りの鈍感ね。いいわ、もう。あんたと話してるとイラついてくる」



そう言って、桜は俺に背をむけた。


そしてそのまま歩き出してしまった。


……なぜか、桜の唇が震えていた気がする。



「お、おい桜……待てってば」



「うるさいわね、喋りかけないで」



喋りかけないでって……俺を強制的に拉致しておいてそれはないだろう。



「待てってばっ」



ずんずん突き進んでゆく桜の手首を、俺はガシッと捕まえた。


さっきとは真逆の立場。


だが――――



「触らないでっ!バカ!」



――――その反応すらも、真逆でしかなかった。


桜は振り返ると同時に、俺の腕を思い切り振りほどいた。


――――情けないことに、俺はかなり怯んでしまった。


腕を振り払われたことに、ではない。



「桜……お前………」



桜の瞳はいつも、黒く深い色をしている。


闇のように暗いのに、光のように輝きを放っている。


俺はその瞳を見て、愕然としてしまったんだ。


今の桜が、俺を睨んでいるから?


――――否。


男にも女にも、睨まれることには慣れている。


しかし――――



「泣い……てるのか……」



――――瞳に涙を溜めながら睨まれたのは、初めてだった。



「別に……泣いてなんか……ない」



俺が言い当ててしまったせいか、今まで溜まっていた涙はポロポロと零れてしまった。


桜の頬を伝う、幾筋もの水滴。


表情が崩れた、とでも言うべきか。


涙だけではなく、その泣き顔や泣き声にすら俺はたじろいでしまった。



「な、なんで……なんで泣いてるんだよ……」



――――おかしいだろう。


普段の桜ならまず、泣きはしない。


それに、涙が零れてしまったのならそれを隠す。


泣き顔を見られたくないと……必死に隠そうとする。


俺をぶん殴ってでも、泣いてしまったという事実を隠蔽するだろう。


なのに何故――――?


何故……今の桜は隠そうともせず、ただ涙を拭ってなんかいるんだ――――?



「教えてくれよ……。なんで、泣いてるんだ……」



「うぅ……わ、わかんないわよ……」



――――ほら、まただ。


隠そうとなど、微塵もしない。


まるで子供のように、桜は嗚咽をもらして泣いている。


どんなに拭っても止まらない涙と悪戦苦闘するのみだ。


ただ―――泣いているだけ。



「……桜は、ずるい」



俺はふと、そんなことを言い出していた。



「なんで泣いてるとか……なんでそれを隠そうともしないのかとか……。俺は何もわからないのに、桜は何一つ答えてくれない……」



――――俺は、解らなくてはいけない。


いつからか――――失ってしまった、俺の人間性を補うために……。



「教えてくれよ……!俺、バカだから……わからないんだよ……」



俺はいま、泣き出しそうになっている。


――――何故?


それすら解らない。


俺は理解しなくちゃいけないのに――――



「……ばか………」



桜の姿が一瞬、見えなくなる。


黒髪がふわりと舞い、ようやくどこにいるかわかった。



「――――――」



……桜は、俺のすぐそばにいた。


ぽふ、と俺の胸に飛び込んだのだ。


腕を回すことはなく、ただピッタリと、俺にすがるように抱きついてきた。



「ばか……本当にばか……」



俺の鎖骨に触れる桜の手が、暖かい。


俺はここでようやく、するべきことを見つけた。



「……泣かないでくれよ」



俺は、そっと桜を抱きしめた。


桜がそうして欲しそうだったから……。


俺がそうしたかったから……。


それに、俺は桜に泣いてなんかほしくない。


ずっと笑っていてほしい。



「だから……」



「………え?」



俺の胸の中で、桜が呟いた。


どうやら桜は、ひどく赤面しているようだった。


表情は見えないが、耳が真っ赤になっている。



「好き……だからよ」



「……………へ?」



「だ、だから……私が柊一のこと……好きだからよ」



………隙?


いやいや、隙ではなかった。


桜の言った『スキ』は、紛れもなく『好き』だった。


で、それが桜の泣いてる理由なのか……?



「……桜、俺のバカさ加減は承知だろう」



俺は本当にバカだ。


人の気持ちが解らぬ部門第一位どころの話じゃない。



「桜がどうしても言いたいこととか知りたいことがあるなら……どんなに言いづらくても俺に直接、ストレートに言ってくれ。じゃなきゃわかんない……」



心の底から、桜には悪く思う。


でも、わからないのだから仕方がない。


数学のように、公式を当てはめれば解けるものでもないし。



「……そうね。私が悪かったわ。そのまま丸ごと伝えないと、柊一はわからないものね……」



自分から言っておいてだが、なんだか悲しい。


他人に認められちゃうと、すごく心が荒む……。



「私は……柊一のことが好きよ。ずっと前から。でもさっき……妃奈と一緒に暮らしてるって聞いて……すごく辛かった……」



なぜ、桜は辛かったのか。


それは――――俺のことが好きだったから……?



「だってそうでしょ?大好きな人が、自分以外のほかの女と暮らしてるなんて……辛いに決まってる……」



まるで頭の上にランプが百花繚乱。


中学の時に経験して以来途絶えてしまった、あの数学の問題が解ってしまった時の快感。


桜の気持ちがやっと……わかった気がする。



「ご、ごめんね柊一……。妃奈とのこと聞いてたのにこんなこと言って……。ほんと、私って最低……」



桜は腕に踏ん張りをきかせ、俺の胸から脱出しようとした。


――――しかし。



「え……?ちょ、柊一……?」



俺の腕は、桜を逃がしはしない。


がっしりと小鳥を閉じ込めた檻のように。



「……桜のなにが最低かは知らんが、俺の中で桜は今、最高だ」



「………え?」



「だって、こんなにはっきり俺に解りやすく気持ちを伝えてくれたのは、桜が初めてだ!だから桜は良いヤツだ!最高だっ!」



桜は俺のことを好きだと言ってくれた。


だからこそ、つらいとも言ってくれた。


包み隠しもせず、ど真ん中のストレートで。


俺にとってこれほど、ありがたいことはない。


欠如してしまった人間としての機能。


あらゆる物事に対して、俺はバカになってしまった。


妃奈や桜を見て誰か解らなかったり、人の気持ちを理屈でしか説明できなかったり。


そんな俺をカバーしてくれる人……。


それが今、目の前にいるんだ。



「いやー、俺は嬉しいよ、桜。ほんっと、無敵だな」



「え。ちょ、痛いってば!離してっ」



「うははははは!くらえ、死のローリングホース!」



強く抱きしめた桜を、そのままジャイアントスイングにもっていく。


ぐるんぐるんに回してやると、桜は逆に俺の服を握りしめてきた。


ま、そうしてもらわないと飛んでいっちまうからな。


軽いし、体がもうすぐ地面と平行だし。



「ば、ばか柊一!今すぐ止めなさい!危ないってば!」



「大丈夫!その辺芝生だし、うっかり手を離してもケガしない!」



「ケガの問題じゃないわよっ!私が怖いからイヤだって言ってるのっ!」



何を言われようと、聞く耳持たねー。


前に妃奈にも同じようなことしたっけな。


あん時もイヤがられた挙げ句、最後は酷い目に遭ったっけ。



「さあ、音速でも越えるかなっ!」



「お願いだからやめてー!」

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