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6 ファーストレディのドレス (1)



「不思議ね。朝と昼とじゃ、全然表情が違うのね。人間と同じね。涼しいうちの方が、気持ちがいいんだわ……」

 わずかに、下草が夜露の名残に濡れている。揮発し、清涼な空気となって辺りを満たしてゆく。昼と夜の大きな気温差がつくり出す、豊かな、特別な時間である。

 惜しいことに、贅沢な時を満喫しているのは、舞とレン、動物園の職員くらいだった。

 それも当然だ。開園前を承知で訪れて、レンが頼み込んで許可を得たのだ。人間は彼等二人。人間の方が見学されているような錯覚さえ許されてしまう、動物の楽園だった。

「こんなの初めて。とってもどきどきする。わくわくして、心臓が弾けそうよ……」

 静かな園内で、動物たちの涼しい朝の貴重な時間を乱さないように、舞は足音を忍ばせて歩く。話し声を落として、丁寧に、動物たちを伺って回る。

 彼等は銘々に、思いがけなく活発な行動を示していた。

 朝食を待ち兼ねて、うろうろと闊歩する肉食動物。真っ昼間は、だらしなく腹を天に突き出して寝くたれていたのに、今は舞さえも極上の餌に見えるのか、獰猛な視線を投げ付ける。低い唸り声を撒き散らす。

 昼間は木陰で暑さを凌いでいたはずの小動物たち。今は無心に餌を頬張って、食い飽きたものは広いフリー・スペースを駆け回っては鬼ごっこをしている。木に駆け上がり、ピタリと静止しては辺りをうかがうバネ仕掛けのような仕種に、舞は声を殺して笑った。

 昨日はシンと静まり返り、退屈なばかりだった小鳥たちのケージは、騒音の巣と化している。朝のさえずりが集約されるとこうなる、といういい見本である。

 舞は呆然と見上げ、次にくすくすと笑い始めた。

 極めてハイトーンのオーケストラの練習風景、しかし音のみ、である。たまらずに、レンは両手で耳を塞いだ。

 見通しのいいケージの周囲を、舞は小走りで行って帰ってきて、顔をしかめるレンを見上げては、またひとしきり笑い。彼の腕を取って、次へと連れ出した。

「カリメーラ(おはよう)」

 舞は最初に出会った家族連れに、微笑みかけた。開園したらしい。埃っぽい暑さに包まれるのも、時間の問題だ。

 徐々に、擦れ違う客たちが増えてゆく。

「私たち、回る順番を逆に辿ったみたいね」

 レンの腕に手をかけたまま、舞はまた嬉しそうに笑う。ふっと、手を解いて背伸びをした。

「わぁ……。カバが水浴びしてる……!」

 数メートル先の人だかりに、舞の視線は釘付けになった。人垣の先の人工沼で、大きな生き物が背中を見せている。

 レンが軽く肩を押しやると、舞はレンを見上げ一緒に足を早めた。もう彼女は、レンの了承無しに、一人で不特定多数の人波に駆け込むことはないのだ。

「……気持ち良さそう」

 低い鉄パイプ製の柵に腕を乗せ、舞は見入った。

 ゆったりと巨体をドロ水に委ねて、器用に体勢を変える姿に、陸上での愚鈍なイメージは吹き飛んでしまう。

 もう一頭のやや小柄なカバは、清掃員にホースの水で背中を打たせて、目を閉じている。

 時折、背中で弾けた飛沫が青空に虹を造る。

「見城さん。すごく嬉しいんです、私……。

 ……どうもありがとう……」

 振り返り、舞は小さな虹に背を向けた。

 潤んでも曇りのない瞳の中にも、レンは虹を見つけた。白いつば広の帽子を深く下げて、肩を両手で包んで回れ右をさせた。涙はどうしても苦手だから。

「私も謝らなければならない事があります。

 乱暴な真似をして……」

「いえ、私が悪いんです……! 私……、自分でも。……どうしてあんなことをしたのか。

よくわからない……」

 舞は、振り返らず、肩を落とした。

「でも、また迷惑をかけちゃいけないって、ホテルに居なきゃ、と、思ったんです」

 全く。紫月の言う通り、大した自制心だ。コントロール出来なくなる自分の一面に気付き、それを押さえようと、自ら、籠の中に居ることを選ぼうとした。

 自分の感情を殺して。

「だから、連れ出して下さって……、本当に嬉しいんです」

 よくわからないと漏らすくらいに、本当に、それがどんな感情なのかさえ、彼女自身わからないのだろう。

 銀髪の男。舞の心の揺れを見越して、わざと挑発したのか?

 彼女を誘い出し、連れ出す為? それとも、あんな形で閉じ込める為?

 どちらにせよ。もう奴の思うままにはさせたくはない。

「私は貴女のボディ・ガードです。貴女が望む通りにアテネで過ごすこと、貴女をどんな危険からでも守ることが、私の仕事です」

 舞は少しだけ顎を上げた。慎重に尋ねてくる。 

「……見城さんも、私の為に怪我をしてもいいと思っているんですか……?」

「ナポリで起きた事件のことは、アンジェラから聞きました。あなたは言ったそうですね。

 そんな人間は大嫌いだと」

 かたくなに、今度はレンを見ようとしない少女は、レンが続けるだろう言葉に怯えていた。レンの職務への厳しい態度から、十分に悟っている。

「……大嫌いです……。私、そんなに大切にされるような人間じゃありません……」

「大企業の重役関係者の多くは、当然のようにボディガードを雇っていますよ。

 社長の妹であるあなたには、その権利と必然性が十分にあります。私が見るところ、あなたは社長にとって最大のアキレス腱です」

 舞は、みるからに深く肩を落とした。

「……わかっています。だから……」

「だから、ガード付きを我慢している?」

 細い肩に手を乗せて、軽く揺する。

「俺みたいにガード然としていると、窮屈でしょう? でも友達のように付き合える相手なら、楽になる。だが今度は、友達を自分のせいで傷付けたくなくなる」

 両手で、舞は顔を覆った。

「……見城さんのこと、大好きです。

 だから、志堂さんみたいなことをしないで下さい」

「彼は死にたくて、あんな真似をしたんじゃないんですよ?

 うまくやったんです。あなたを生かして、自分も生きる方法を瞬時に選んだ。最高のガードです。

 死にたがっているのは、俺の方です」

「!」

 顔を上げるが、レンはこちらを向かせなかった。

「俺は誰かの役に立ちたくて、警官を選んだんです。つまらない話しだが、姉貴に二度と負けたくないと必死だった。

 海で子供を救助した事件の後、俺は謝ることも、庇うこともできなかった。その代わりに、姉貴よりも強くなってやろうと密かに決めた。二度とあんな目に合わせなくて済むように、今度は俺が、って。

 だが、それも思い違いだった。素直に謝って、つまらない忠告をする大人たちの前に立って、姉貴を庇ってやればよかったのに。意地を張り続けた。

 俺が男だから、女よりも強いんだからと。

 それが高じて、今ここに。

 アンは俺のやり方を、英雄気取りの自己犠牲だと言いましたよ」

 その通りなのだから。アンジェラを恨む気もない。

「俺は六年前、ある人の為に死ぬべきだったのに、出来なかった。その人間の代わりをずっと探して、危険な仕事を選んできた。

 本当に生き延びたい人間を守る、という建て前で、身代わりに殺されたがった」

『死』が苦痛には思えなかった。レンを起き上がらせた元FBIが言う通り、一度死んだ人間は、死を恐れない。最悪なことに、求めて彷徨いさえする。

「俺は、あなたが一番嫌う人間だ」

「それは、見城さんが優しいからです。すごく優しくて、見過ごせないほど他の人のことが好きだから。

 そんな見城さんを、私、嫌いになりたくないわ……」

 肩を包むレンの手に、舞は自分の手を重ねた、

 泣き出しそうな舞を慰めなければならないのに、レンは逆に自分が癒され、許されていく温もりを感じていた。なぜならば。彼女の涙は、レンの涙だから。彼の代わりに流しているのだと、はっきりと感じられるから。

 無垢であることは罪にはならない。舞にはレンの生きてきた世界を知る由もないが、それは同時に、レンの知らない世界を持っていることも意味するはずだった。

たった今、その純粋な領域に巻き込まれ、彼は逃げを思いつくことも忘れた。

 無性に、六年前とは違う感情だが、同じくらいに切望した。

「嫌われるのは、俺も苦手です」

 重なりあった手を握り締め、レンは先に歩き出した。

 またソフトクリームを買って、泣きじゃくる子供を鎮めなければならない。



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