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4 檻の中の小鳥


「アンジェラ! 来てくれ……!」

「どうしたの、レン? もう白旗なの? それとも、若い女の子にメロメロなのかしら?」

 受話器の向こうは生粋のアフリカンらしく、陽気な笑い声が弾けている。無愛想なレンの分まで笑い飛ばしてやっている、という調子だ。

「なんでもいいから来てくれ。神経がイカレそうだ……!」

 ヒラヒラと飛び回る蝶のような少女。舞の腕をしっかりと掴んで、公衆電話ボックスにレンは飛び込んでいた。

 レンの不機嫌の理由に見当が付かない様子で、舞はくるりと瞳を丸くして、ボックスにもたれパンフレットを広げて、次の見学地を物色している。

 自分がどういう立場にあるか、彼女は理解していない。レンは脱力していた。

 次に忍耐強く、自分を説得する。この仕事から降りることを、紫月は許さないだろうから、耐えるしかない。

『はじめのうちはそんなものだ。ひどく無邪気で、恐れ知らずで。ガードには決してNOは言わせない。

 だが最初の攻撃を受けることで変わってゆく。日に日に、彼女の怯えは募り、外出もしなくなり部屋に閉じ篭もる。ガードの言葉にはひどく従順になり、青白い顔色で、ガードを見る瞳は真剣になる』

 レンが同業者から聞いた現実である。

「待てよ……」

 紫月のあの必死さから推測すると、舞が危険な目に会った前例が無いとは思えない。

「報告書があるはずだ。一度、目を通す必要があるな……」

「見城さん? 何の報告書のことですか?」

「お嬢さんには関係ない」

 見上げる黒い瞳は無邪気である。不満そうに頭を傾げた。

「お嬢さんは、やめて下さい」

「お嬢さんはお嬢さんでしょう?」

 細い手首を握ったまま、手近な売店でソフトクリームを一つ買った。

「他の人は『舞』って、名前で呼びますよ?

 秘書の狩野さんとか、志堂さん。みなさんが」

「私はFISの所属ではありませんから」

「でも……」

 本当は小さな口につっこんで塞ぎたかったのだが、目の前に突き出すだけにした。

 アイスを受け取って、舞はやっと黙り込んだ。一人空いているベンチに掛け、利口にもレンの苛立ちが静まるまで、時をまつ態度に変わった。

 人を見透かすには利口で、立場を理解できない典型的な『お嬢さん』。が、この時点、レンの下した評価だった。


 ◇◇◇


「アン! アンジェラ!」

 縮れた髪と褐色の肌、中背で足は長い。ぴったりとしたブルージーンズのアンジェラは、砂漠の風のように情熱的で、躍動的な女性であることに寸分の変わりもなかった。

「ハイ! 舞。

 元気そうね。アテネは楽しい?」

 喚声を上げて抱き付く舞に、アンジェラは心からのキスを浴びせた。

「楽しいわ! 兄さんがね、どこへでも連れていってもらいなさいって。だから昨日は嬉しくて眠れなかったくらい。

 アンも側に居てくれるの? 忙しくはないの? 支部が開設されたばかりでしょう?」

「そんなこと、あなたが心配することじゃないの。大丈夫。支部はうまくやってるわ。

 ボス自ら出向いているんですもの、ミスは出来ないわ」

 そう聞いて笑顔になる舞に、レンは一つ感心した。お嬢さんが会社の心配もできるとは。

「さ。何を見る? 一休みは済んだんでしょ? オランウータンは見た? じゃあね、向こうのジャコウネコでも見ようか?」

 レンに向き直ると、胸を張った。

「ここは任せて。ここには何度も来てるわ。

 舞が喜びそうだから、チェックはしてあるの」

「……OK。任せる」

 レンは両手を挙げた。肩を並べて歩き出す二人の後ろを、少し離れて追いかける。

 不器用な父親の気分になっていた……。


 ◇◇◇


 アンジェラ・シールズは中東地域での舞のボディガードを務めてきた。舞を十分に把握しているので、紫月の信頼も堅い。アテネ支部開設と同時に、所属を機動部アテネ支部に置き、彼女は舞のガードを離れた。

 FIS入社前は、傭兵の経験もあり、キャリアは十分である。アンジェラに限らず、ややダーティな匂いを発散させるFISのボディ、機動部所属者は、それぞれ触れられたくない過去を持つ強者揃いだった。

 だからこそ、新興のFISが即戦力のプロを素早く揃えることが出来たのだと、陰口を叩くライバル関係者も居る。

 過去がどうであれ、彼等は確実にチームワークを完成させ、望まれる通りの実績を挙げている。得意とするのは、非常に繊細な作戦、誘拐された人質救出などであり、いかに彼等の総合的な危機管理水準が高いか、明らかである。


 ◇◇◇


 舞は、長い尻尾を立てたワオキツネザルの子供にじっくり見入っている。当分そこを動きそうにないと見て、アンジェラはレンの側に来た。

「いい子でしょ? 舞は」

 絞られた腰に片手を当てて、まるで自分の産んだ子のように自慢げに顔を逸らした。アンジェラが舞の母親なら、子供が子供を産んだ計算になる。

「アンジェラ? お姫様は、いくつになったらアラブのハーレムにお入りになるんだい?」

「ハーレム? 何を考えているの? 

 そんなものに近付いたりもしないわよ」

「じゃあ、どこに売り払う気なんだ。あの偏屈の兄上殿は」

 舞はいずれ蛹が羽化するように美しく変化するだろう。アラブの成金を紫月が持ち出すくらいだ、他にも彼女の羽化に目をつけている大金持ちはザラなはずだ。その上、紫月のFISの基盤は今だ不安定で、まだまだ金が入り用なはず。血縁は最大の金脈を造る。

「……ひどい誤解ね。レンだけよ、そんなことを考えるのは」

「お前は騙されているんだよ……」

 涼しげな顔立ちのボス・紫月が、レンに対してどれほど卑劣で逃れられない交渉を仕掛け『YES』と言わせたかを、きっちりとアンジェラに説明してやった。

「それはそっちがいつまでもゴネているからじゃないの!

 ボスは本気なのよ。本気で舞を守りたがっているわ」

 アンジェラは激昂しやすい。わかっていても、レンは剣幕の激しさに怯んだ。

「重度のシスター・コンプレックスだな」

「んだから、何バカなことを考えてるのよ。二度とボスのことを悪く言わないで!」

 私情も絡んでるのではないかと疑える。アンジェラの憤る顔をレンはしげしげと見下ろした。

「いい? 言ったら」

 ……実力行使。右頬を避けようもなくぶたれて、レンは一瞬硬直した。

「何なんだ。どいつもこいつも、あの外面に騙されて」

 くしゃくしゃと自分の髪を掻き回し、振り上げて乱れを直す。レンは息を吐いた。

 もう近くにアンジェラの姿はなかった。

「喧嘩、したんですか?」

「!」

 なぜか間近で、舞が見上げている。

「私、呼んでくるわ。だからちゃんと仲直りをして?」

「ちょっと待て。勝手に側を離れるな」

「じゃあ、一緒に迎えに行きましょう?」

「……。お嬢さんには関係ない。いいから放っておけ」

 ほてり始めた右頬を、レンは舞の視界から逸らした。

「関係あります。ガードはチームプレー第一でしょう?

 パートナーと気持ちが離れていたら、ミスが出るわ。そんなの嫌よ?」

「他人のミスを、お嬢さんが気に病むことはない。怪我をさせたりはしない」

「誰かが怪我をするのは悲しいわ」

 舞は物怖じせず、レンの腕を取った。

「第一、喧嘩をしたままなのは良くないもの。すぐに仲直りをしなきゃ」

「……あんたが考えることじゃない」

 腕にかかる細い指を解いて、力を込めれば折れそうな手首をレンは握った。

「お嬢さんは、無事に生き延びることを考えればいいんだ。二度と言わないぞ。

 お嬢さんは宝石で、俺はあんたを守るプラスチックケースだ。立場を忘れてもらっちゃ、俺が困る。俺はプロだ。仕事の邪魔は許さない」

「でも……」

 怯えるように口ごもる舞。

「お互いの立場を忘れたら、二人とも死ぬしかない」

 舞が勢い良く顔を上げた。白い帽子が地面に落ちる。

 目尻の輝きは、手首の痛みのせいではないはずだ。ほとんど力は込めなかったし、引き寄せもしなかった。

 思わずレンの手が緩む。舞は背を向けて帽子を拾い上げ、再びキツネザル親子の金網に張り付いた。

 物珍しそうに、キツネザルの子供が初めて近寄ってきても、舞はうつむいたきり。声も立てずに泣いている。

 レンはもう一度、自分の髪をかきむしった。

 舞を傷付けるのは、これで二度目だ。その二度とも、舞は全部受け止めて、自分自身を責めるばかり。

「やってくれるわね。もう泣かせたの」

「怒らないのか、今度は」

 どうやらアンジェラは職務に忠実で、木陰から一部始終を伺っていたらしい。

「感謝してるわ。レンなら、あのくらいはビシッと言ってくれると思ってた」

 アンジェラの声を聞き付けて、舞は急いで振り返った。

 アンは良く見えるように手を突き出し、レンの手を掴み、堅い握手を舞に見せる。

 満面の笑みを浮かべて、舞は友情に復活を祝福する。永遠に枯れることのないだろう、無邪気な泉だ。

「あんまり堪えているようには見えないな」

 涙をこすりあげると、舞は金網に向き直り、キツネザルの子を指先であやし始める。

 再びレンは渋面に戻った。

「そうね……。舞は優しすぎるの。何にでも。

 ガードでさえ人間として扱ってくれる。

 嬉しいけど、仕事にはね」

 アンジェラの彫りの深い、陽気な顔立ちには似合わない苦笑だ。

「だから女じゃ勤まらないのよ。

『笑わない男』のレンを選んだのは、その為でもあるのに。さっきの顔ったら、ボスには見せられないわね」

「……いつの顔だって?」

「あらあら。ボスと同じで、髪が乱れるとレンでも若く見えるものなのねぇ?」

 相変わらずの減らず口に、レンは反撃の機を失った。

 手振りで次へ向かっていいか? と、舞が尋ねてくる。

「いいわよ。行きましょ。レン? 遅れないでね」


 ◇◇◇


 太陽が頂点に近付き、戸外に居るのは限界になった頃、三人は動物園を出て、近くのレストランでランチを取った。

 レンはアンジェラが二人居るようだと、食事中、一人沈黙を守り続けた。

 市内へ向かうランド・クルーザーの中で、しゃべり疲れたのか舞は先にシェスタについた。しゃべって笑って。そうしているとどこにでも居る普通の子供だった。

 レンには、ようやく訪れた静かなひと時である。

「学校はどうしてる?」

「日本の学校は休学中よ。もしかしたら、もう戻らないかもしれないわね。学校に通う必要はほとんどないのよ」

 風に肩までの髪を巻き上げさせて、アンジェラは舞を振り返った。

「理解力があって、利口な子よ。年相応には思えないくらい。ボスの仕事柄ここ数年世界中を転々としているから、いろんなことを知っているわ。みんなに好かれる子だし」

 そう語るアンジェラ自身も、舞を妹のように好いている。

「日本に置いておく機にはならないのか? あの兄貴は」

「ならないわ」

「お前に聞いてるんじゃない」

「あたし以外の誰に聞いても答えは同じよ。あの兄妹を引き離しておくことの方が、ずっとリスクが大きいの」

 分からず屋、とアンジェラは口の中で呟いた。

「ボスは舞の笑顔で生きているようなものだわ。でなけりゃ、あんな殺人的スケジュールが、こなしていけるわけがない」

「ヤクザなだけでなく、変態も直隠しにしているわけか。あの野郎は……」

「まだそんなこと……!」

 二度目の平手は、レン自らの名誉の為に、車を操りながらもかわした。


 ◇◇◇


 その日のレンの午後は慌しく始まった。

「閉館まであと一時間しかないの!」

 舞の悲鳴に近いお願いに、レンはシェスタを諦め、タクシーをフロントに頼んだ。お嬢さんが眠っている隙に夏服を揃え、ぐったりと横になったばかりだった。

 寝不足で冴えない目付きを黒いサングラスで隠し、軽い足音で歩き回る舞の三歩後ろをつける。

 ホテルから車で十五分ほどの、国立考古学博物館である。外観はドリス様式の円柱が林立する、古代ギリシャ建築に似せた広大な建物であった。

 三時の閉館までに全てを見学するのは不可能だ。レンには下見といった感覚だった。

「帰りは歩きます!」

 そう主張した舞の思惑がどこにあるか、レンには読めていた。市内に点在する噴水をもつ公園には、白いテーブル、白い椅子の、いつも賑わうカフェリオンが、必ず店を広げている。

 雨の少ないギリシャならではの風景に、車で通り過ぎる度、期待に満ちた視線を彼女は投げかけていた。

 根負けしたレンは、最短距離の、オモニア広場を経由し、アテネ大学が面したパネピスティミウ通りを抜ける道を選んだ。

 他を回ったなら、舞が喜んで長居をしそうな、フリーマーケットに出くわしそうだったのだ。

 念願のカフェでのひと時に、少女はいたくご満悦の様子。渋面のレンに話しかけても無駄と悟ったのか、言葉数は少なく、もっぱら独り言のような感嘆する言葉が多くなった。

 VIPと馴れ合うのを良しとしないレンには、舞の学習能力は好都合であった。

 今朝からかなりの距離を歩いているはずなのに、舞には疲れる素振りがなかった。それどころか、レンの行動パターンを読むと、その許容範囲でなら、何をしてもいいと見越したらしく、ずいぶんと羽を伸ばしている様子だ。表情も生き生きとしてきた。

『昨日は嬉しくて眠れなかったくらい……』

 アンジェラにはその言葉の意味がよくわかったらしいが、レンにはさっぱりだった。

 そんなにも、まさかとは思うが、舞は拘束されていたのだろうか。

 紫月に確かめなければならないことは、増えるばかりだった。アンジェラでもいい。レンは彼女の今までの生活を、何一つ知らなすぎる。ボディガードとしては片手落ちだ。

「ここは? 見城さん、何の建物なんですか」

 帰路。すっかりレンは街のガイドに扱われていた。ボディガードの記憶力の賜物である。

「アテネ大学ですよ。向かって左側の建物が国立図書館、右端の建物は科学アカデミーですね」

 こんもりとした木立や芝生の庭を縫うスロープには、様々な人種の学生がたむろしている。陽射しを跳ね返すような、若い集団。彼等に混じって、講師か教授らしい男性も颯爽と校内を歩き過ぎてゆく。

「兄さんにお願いしたら、何かの講義を聴講させてもらえるかしら……?」

 なにげないつぶやきに、レンは耳を疑った。レンの問い掛ける視線に気付いて、舞はさらりと答えた。

「私、学校って大好きです。でも、日本の学校には何時戻れるかわからないから、一生懸命勉強したんです。

 だから今は、高校を卒業できるくらいの学力はあるんだそうですよぉ」

 ……あるんだそうですよぉ、じゃない!

「……天才か、秀才かのどちらかだな……」

 アンジェラの言葉の一つを納得しながら後を追うと。

 突然。彼女は足を止めた。

 気配。

 レンの本能的な勘だった。何らかの異質な存在が、自分たちへ介入しようとしている意図を察知した。これは思考ではなく、肌で読み取ったもの。微かな変化だった。

 事実、辺りに視線を配っても、なぜか敵意やそれに近い悪意を見つけ出すことはできなかった。

 なのに。舞は立ち止まったまま、動かない。

「……お嬢さん?」

 舞の肩越しに、一人の長身の青年が、厚い古書を二冊軽々と手に、小道を曲がり茂みの奥へと消え去ってゆく。

 上品で非常に美しいといえる銀髪を自然に後ろに流し、やや襟足を長く肩に付く程度。銀縁の眼鏡をかけ、光沢のある裾の長いくすんだグリーンのジャケット。ゆったりと歩く物腰には、確かな知性と気品さえうかがえた。

 他に、舞の視界に入る人物といえば、やはり校内へ向かう学生たちの一団、出てゆく裾の短いスカートの女学生。じゃれ合う親友らしき若い男連れ。

 ありきたりの風景に何が隠されているのか。

「お嬢さん!」

 舞が駆け出していた。風を浴びて白い帽子がコンクリートの歩道に落ちる。

「……ごめんなさい! でも、すぐに戻ります!」

 振り返った少女は、強張った頬で囁いた。噛み締めた唇を開いて、もう一度謝ると、二度と振り返らなかった。

「バカな! ……何が……!」

 追いかける。彼女の細い体は木立ちの中に消え、同じ一本道を辿ると直ぐに現れた。

 しかし、黒々とした影の落ちる石造りの構内へ、白っぽい背中が吸い込まれる。

 レンも飛び込んだ。だが忽然と姿は消えていた。

 冷たい大理石の壁に手を押し当て、辺りを見回す。絶望に浸っている時間を、レンは自分に許さなかった。手当たり次第に、近くを通り抜ける学生たちを引き止めた。

「女の子を見なかったか? 白いキュロットの、十四歳の女の子だ! 見ない? こっちへ走ってきたはずだぞ、知らない!? ……ありがとう……」

 アテネの空が澄んで青々として、陽射しが白く抜けるように輝くほど。石造りの建物の内部は正反対に暗く陰り、陰鬱なくらい冷ややかで無口だった。

 高い天井の廊下に、レンの履き古した革靴の鈍い靴音が空しく響く。

 白いスニーカーと細い足首、白に近いサーモンピンクの長靴とそこからのぞく白い手。

「……どこに行ったんだ? ここには初めてきたはずだぞ……。なぜここに来て! くそっ!」

 裏切られた思いで、レンの全身の血は沸騰した。レンの言葉に従順だった少女の顔は、幻だったのか? 体よく騙されていただけなのか?

『……ごめんなさい!』

「悪いと思ったら、こんな真似をするんじゃない!!」

 木漏れ日の差す別棟に続く回廊を、当てもないが真っ直ぐレンは走った。構内はまるで迷路のように入り組んでいる。光りを求めて彷徨った末、陽射しを浴びる回廊へ、導かれるように辿り着いていた。

 ガラス越しに見回すと、二十メートルほど先に平行に走るもう一つの回廊に人影が。レンの進行方向とは逆に、滑るように歩き過ぎる光沢のあるモス・グリーンの上衣を着た長身の青年。路上で見かけた銀髪の青年と思しかった。

「あの男……、どこからこっちの建物に入ったんだ? こっちはずっと走りづめだったってのに……。!」

 レンはもう一度走り出した。床を蹴る爪先に渾身の力を込める。自分の思い違いを、漠然とだが確信した。正面玄関から大学構内に入ったものと即断していた。だが今の青年のように玄関を通過し、一度建物の外に出て迷路のような建物内部を無視し、再び構内に入ったのではないのか?

 そうして、今度は本当に、レンと同じく少女は道に迷っているのではないか?

 もしくは最悪の、何者かによる拉致!

 どす黒い焦りが、研ぎ澄ますべき思考を妨げないよう、レンは精神的な苦闘を強いられた。

 長い回廊の奥から、一人の黒髪の女子学生が歩んでくる。

 窓から差す陽射しを浴びて、金粉を撒き散らしたように全身が輝く。なめらかな頬を横に向け、背後の連れを見返す。地味なロングスカートの影から現れる、もう一組の白いスニーカー。髪を編みこんですっきりとした襟足を見せる学生は、片手にテキストの束を、片手に白い肌の少女の手を握り締めていた。

「! 舞!」

 ビクンと、真っ直ぐな黒髪に覆われた肩が跳ね上がった。

 レンの怒声に頬を陰らせたが、舞に隠れる素振りはなかった。真正面で、レンの視線を気丈にも受け止めた。歩み寄った男の食って掛かりそうな視線に、逆に側の娘は庇おうと舞の肩に手を掛ける。

 舞の頬が鳴る。

 ふらりとよろめく舞の体を、目尻を吊り上げ娘が抱き締める。早口の英語を捲くし立てた。

 吼え立てる娘の声を、レンは完全に無視をした。

 レンを見上げる黒い瞳は、みるまに潤んだ。きつく閉じた唇が、小さく震える。それもレンは黙殺した。

「他のガードに変えて欲しいなら、ボスにはっきりと言ってくれ……!」

 一杯に見張りきった瞼を閉じて、舞は首をうなだれた。

 涙が伝う頬を娘が優しく包んで、さらに舞をレンから引き離そうとする。悲鳴に駆けつけてきた男子学生が、レンの周囲を取り巻いていた。犯罪者を見る視線で。

「違うの! 彼は、私のボディガードです……!」

 明確な発音で、舞は彼等を止めた。

 彼女を庇ってくれた娘に感謝のキスをして、舞は自分の手で涙を擦り上げた。

「ごめんなさい、見城さん。ホテルに帰ります……」

 大学前でタクシーを拾い、二人は完全に押し黙って、ホテルへと車を出した。

 十数秒後。路上に置き忘れたままの、赤いリボンの白い帽子を、モス・グリーンの袖から伸びる大きな手が拾い上げ、二人の車が走り去った先を伺った。

 青年が浮かべた密やかな微笑は、少年のように悪戯っぽく、魔物のように魅惑的なものだった。


 ◇◇◇


 その夜。紫月がホテルに戻ると。覚悟していた通り、レンは嵐に見舞われた。

「誰があいつをぶてと言った?! 貴様は調書以上の危険人物だな!」

 手にした麻のスーツの上着をソファに投げ捨て、ネクタイを緩めるや否や、レンの襟首を鷲掴みにした。

「首、ですか?」

 挑み掛かる、肉親の怒気を孕んだ視線。

 締め上げる力の強さは、紫月が只の非力なビジネスマンではないことを示している。彼もどうやら、格闘技の心得を実戦も込みで、もっているらしかった。

 フンと、紫月は鼻を鳴らした。

「それが狙いで手を挙げたのなら、望み通りにしてやる。

 いい紹介状を一通だけ書いてやるから、どこへでも行け!

 行って……!」

 レンの無表情さが、紫月の感情を逆撫でる。怒りから一転して、皮肉な笑みを口元に浮かべ、紫月が問い掛けた。

「どうだ? 嬉しいか……?」

「……ご期待に添えず、大変残念です」

 平坦に返すだけ。

 歯を食いしばり、噛み殺した呻き声を上げると、紫月はレンは突き放した。普段、冷静沈着な態度で鎧われてきた紫月の、混乱してやりきれない姿がそこにある。

 くせの無い前髪が何度もかきあげられ、すぐに砂が零れるようにさらさらと額に落ちていった。

「……悪かった。こちらの落ち度だ」

 紫月は短く言い、頭を下げた。

 レンの想像できない部分で、彼は苦悩している様子だった。

 紫月の手振りに従って、ソファに差し向かいに掛けた。

 謝罪を受けるつもりでも、関係を修復するつもりでもなく、舞の行動の真実を知りたいという欲求からだった。

「妹は……。何があったのか聞いても答えない。自分が悪いのだから、当然だったとしか言わない。

 あいつのあの落ち込みようでは、言葉通り、君を怒らせるようなことをしたんだろう。こうなるとわかっていながら、行動した証拠だ。

 その点は、僕からも謝る。すまなかった」

 雪村紫月は、ボディガードの領域がどこまであるかを熟知した、優秀なトップであると、レンは評価を上げた。

 ここまで理解されると、かなり危険な仕事であっても、ずいぶんと気分的にやりやすいものだ。信頼と理解は、人を落ち着け勇気づける。着実な実績はこうして裏付けられていくのかと、一匹狼には羨ましいものでもあった。

「一つだけ信じてほしい。舞は、兄の僕から見ても、驚くほど自制心の強い子だ。君も、もうしばらく付き合ってもらえれば、理解できるはずだ。

 よほどのことがあったんだろう。

 もう一度、信じてほしい。あいつを」

 兄の目は真剣だった。懇願すると同時に、レンの良心を試し頼っていた。

 ボディガードのプライドに傷を付けた以上、依頼人である紫月にも落ち度はある。契約破棄は当然考えられてしかるべきである。明らかに無鉄砲な人間のガードを降りる権利は、レンにあるのだ。

「俺からも言わせてもらいますが、命のやりとりは、最上級の『よほどの事』ではありませんか?

 そんな時に限って、今日のように自我をむき出しにされては、こちらの命がありません」

 紫月は、一時考えるように間を置いた。

 レンをのぞき込む視線を外し、一度身を引く。紫月は背筋を伸ばした。慎重に答える。

「………。わかった。君の言い分は理解したくはないが、受け入れよう。妹には厳重に注意しておく」

「厳重に、ですか?」

 聞き違えた素振りでレンが聞き返す。

 紫月の眉尻が即座に跳ね上がった。

「断っておくが、あれにはいつも勝手な行動は取るなと、言い聞かせてある。

 君には悪いが『好きな所へ連れていってもらえ』と言ったのは、滅多にあることじゃない。片手で間に合う数だ。

 その上、先週のナポリじゃ、丸一週間ホテルに閉じ込めた……! それでなくとも、……普段は、ほとんどホテルから出さない……」

 後ろめたい視線を、紫月は揺らした。言葉で、紫月は自分自身を責めている。

「何度も言うが、……今度のことは、僕にも理解できない。初めてだと言っていい……。

 ……おかげで、今夜は眠れそうにないぞ」

 腹立ちまぎれな最後の一言を、紫月は冷静さを取り戻しすぐに否定した。

「そんなことはどうでもいい……。レン。君には明日、予定通り行動してもらう。変更は無い。ただし、彼女が予定を変更するかどうかは、僕には判断できない」

 紫月は、ボスの顔と兄の顔のどちらを取るか、迷いを残したガードの甘い視線で、レンを見た。

 レンは、否定も肯定もしない沈黙を返した。

「明日の朝まで、君はフリーだ。好きにしてくれ。

 妹には僕が離れないようにするし、我々はホテルから出ない。今夜一杯は私たちのことを忘れてくれて構わない」

 高圧的な支配者の口調で、ボス・紫月は断定した。

 レンは立ち上がり、会見は終わった。まったくの平行線になることも、覚悟の上だった。

 この程度のことで、レンを首にするクライアントなら、レンの方から願い下げる気だった。どんなに肉親を愛していても、冷静さを保てないのは、危機管理能力が欠如する女性たちと同格なのだ。

「このホテルは、そんなに安全ですか?」

 メイン・リビングを出る前に、レンは尋ねた。

「……いや。隙だらけだよ。

 FISの力で、なんとかするつもりだ。

 その為に、このホテルを選んだ」

 仕事がらみか……。ビジネスマンの鏡だ。

「気付かなかったかな? この階には、僕ら以外の宿泊客は居ないんだ。僕が全て買い占めた……」

「!?」

 ビジネスに疲れ果てたかのような遠い視線で、紫月はソファに体を投げ出していた。空中を眺める瞳は、レン以上に凍り付いて、かたくなであった。

「僕は本気だ。ここをアテネ一安全なホテルにしてみせる」

 その為に、豪華ホテルのスイートを1フロア分買い占める。

 凄まじいばかりの安全への執着。何にボス・紫月が怯えているのか。レンには図り兼ねた。



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