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この物語はフィクションであり、実在する団体・地名、事象などとは無関係です。

 



 真夜中。午前0時を目指し、二人の男がアムステルダムの港街を逃げ惑っていた。

「いつまで、こうしていなければならないんだね……?」

 足をもつれさせ荒い息を吐きながら、ビジネス・スーツが尋ねてくる。もう一人の男は、相棒のスーツを引っ掴み、レンガ壁の隙間に押し込み自分も体を隠した。

「そいつはあんた次第だ。死にたくなったら、早いとこ告白してくれ。すぐに契約破棄してやる。俺はいつでも、他人の振りをして逃げ出す準備はできているんだ」

 ノーネクタイ、ラフな黒っぽいジャケットの男は、闇に溶ける短い黒髪、黒い瞳をもっていた。やや弾む息を規則的な呼吸で沈めながら、鋭い視線であたりを伺う。

 片や金髪を振り乱した男は、疲労の極に達していた。薄汚れ皺だらけになった仕立てのいいスーツの胸に薄いブリーフ・ケースを抱え、ずるずるとしゃがみ込んだ。

「……契約、だったね」

 呆然とつぶやくフェンディ・レスリーの一気に十年は老けたような表情が、黒髪の若い男の声を苛立たせた。

「あんたたちお得意の、紙の上やコンピュータの中での『契約』と意味は同じだ。わかるか?!」

 罵声に、正気を手放しかけた瞳が瞬きを返した。

「これも『取引』だ。あんたと俺と。賭けの報酬はあんたの命。

 どうだ? ドブ鼠みたいに逃げ回るのが気に障るなら。

 もう飽き飽きなら? ……俺は降りてやるぜ」

 レスリーが、無表情で残酷な日本人の顔を見返した。

「俺のルールは、最初に言っておいたはずだな?

『本気で生きたいと望むのなら、手を貸す』。『誰を、何を踏み台にしてでも、生き抜きたい奴だけ、俺は守る』

 あんた言っただろ? YESって?」

 不気味なほど静まり返った路上に靴音が籠もる。近づく気配がある。危険を察し、日本人を食い入るように見返した。

「……言ったさ。私は生きていたい。あんな奴らに、あんな……腐った寄生虫のような奴らに、虫けらのように殺されたくはない……!! 助けてくれ、レン」

 叫び出し、懇願する寸前の口を手で塞ぎ、男はレスリーを引き摺るようにして立ち上がらせた。

「! そこに居るぞ!」

 足音の主たちが発砲を開始する。サイレンサーの低い発射音の後、二人が潜んでいた壁には、二つの火花が閃いた。

「奴らも、あんたの言う寄生虫に雇われたうじ虫らしいな。プロの殺し屋じゃないのは有り難いが。頭数が多い」

 路上の最も暗い部分を選び、二人は走り続けた。

「向こうは拳銃をもっている……」

「悪党なら誰だってもってるさ」

 恐怖に声を震わせながらも、生きることへの渇望で依頼人は気を取り直しつつあった。いい傾向だ……。黒髪の男は振り返る。誰も見当たらない。早足に切り替えた。

「君はもっていない。こんな状況で一体どうして……!」

 半ば死神に見込まれたような顔よりはマシだと、男は平然と抗議を受け止めた。

「俺はここに昨日来たばかりだ。あんたには運がなかった」

 レスリーは大きく目を見開いた。

「ここまで生かしてやったんだ。ホテルで部屋をブッキングした手違いに、感謝するんだな」

 安ホテルには付き物なフロントのミスで、一つの部屋に二人の客が顔を突き合わせた。それが、逃避行の始まりだ。

 一人は企業秘密を抱え母国を脱出したものの、命を狙われる現状には変わりのないエリート・サラリーマン。もう一人は、年も若く荒っぽいが仕事への自負心だけは超一流らしいボディ・ガードという、これ以上ない取り合わせだ。

「君に仲間は居ないのか? 友達とか……」

「お友達が沢山できる職業じゃないんでね。悪い友達なら沢山会うが、大抵死に別れる」

「それでよく生きていけるな。よほど悪運が強いのか?」

「運? そんなものは俺にはない。クライアントの依頼がすべてさ。俺は契約を守るため、何だってする」

 男は足を止め、周囲に視線だけを配る。番地のプレートを確かめ、再びレスリーの腕を掴みゆっくりと歩き出す。

「どこへ行くんだね? 隠れ場所の当てはあるのかい?」

「ないな。始めに言っておくべきだったんだろうが、俺はここへはただのトランジットのついでに、来てみただけだ。知り合いなどまったくいない」

 生きることへの希望の強さの分だけ、レスリーの顔色は青白さを増した。

「……遅いな。この辺りのはずだが」

「何を待っている?! 速くこの街を出るんだ」

「出る必要はない。方はすぐに付く」

 男は、ハイエナどもの気配を嗅ぎ分けた。レスリーの肩を叩き促して走り出す。拳銃の射程距離外の位置を守りながら。さすがに体力は擦り切れかけていた。

「! あれか……」

 銀行らしき頑丈な石造りの店構えの向かいに、路上駐車された青のBMW。すでに方向を見失い男に引き摺られるだけのレスリーを、BMWの後部座席に押し込んだ。自分は運転席に滑り込む。

「キーはあるのか?」

 レスリーが目を血走らせ、身を乗り出してくる。

「探している。どこかにあるはずだ」

「これで走らずに済む。少しは運が向いてきたな。何をしている速く出したまえ!」

「……わかってる」

「急いでくれっ! あわわっ」

 追っ手の銃弾がBMWの横腹に着弾した。

「床に伏せていろ! くそっ。どこにあるんだ!!」

 ガードとして冷静沈着だった男の焦りは、レスリーの精神に恐慌をもたらした。

 銃撃は滝の如く叩きつけられる。追っ手にとっては楽な標的である。無用心に近付き過ぎず、弾倉が空になるまで車だけを狙い撃ちする。

 ボンネットの下部で火花が散った。漏れ出したガソリンを吸い込み、赤い炎が噴出し始める。炎がBMWの車体を舐め上げる。

「離れろっ」

 仲間の一人の掛け声とともに、男たちが身を引く。

 すさまじい爆音がBMWの車体を、わずかに跳ね上げた。

 一瞬で、車は炎と黒煙に包まれる。

「やったか?」

 大きく後退した男たちの一人が、爆発の衝撃で吹き飛ばされたらしい、路上に転がる男物の靴を顎で示した。

「間違いない」

「ディスクも書類も、処分できたということか」

「利口すぎて死んだ男と一緒にな」

「手間が省けたな」

 薄い笑みを浮かべ、ハイエナどもはその場を離れた。

 海風にあおられ、あたりには強いガソリンの臭気と、焦げた鼻を付く臭いが立ち込めはじめた。

「……いい時間だな。ここに居れば、すぐに警官が駆け付ける。自分で、出頭しろよ」

 男たちが逃げ出した後。BMWとは目と鼻の先の、ビルとビルの隙間から、男が一人顔を突き出した。

「……私は、生きているのか……?」

 黒髪の男に子供のように引き摺られるのに慣れてしまったレスリーが、後に続いて這い出してきた。

「靴を片方無くしたがな。生きてるぜ」

 レンガの壁に背中を預け男は教えてやった。BMWの篝火で、自分の時計を見やる。やや安堵した横顔は、二十台半ばといってもいいくらいの若々しさが昇っている。

「奇跡だ……。君はどんな魔法を使ったんだ? 拳銃も持たずに殺し屋たちを欺いて」

「午前0時2分。あんたを監獄に匿ってくれる、待ちわびた逮捕状がようやく降りるって時間にも間に合った」

「そうか……。私は自由と引き換えに、国家権力による生命の保護を求めることができる。

 刑務所は、私にとっては天国以上の楽園か。君のおかげだよ。レン・ケンジョウ。

 もう一つ。神がもたらしたような、あの車にも……」

 感慨深く、レスリーは燃え続けるBMWを見つめた。

「ピザと同じだ。電話一本で、プラスチック爆弾を仕掛けた青のBMWをオーダーしておいた。起爆スイッチの置き場所を指定し忘れて、見付からずに少し焦ったがな」

「電話……、たしか二十分前の? 君は仲間は居ないと言ったじゃないか?!」

「仲間じゃないさ。変わったピザ屋が、ここに支部を持っていたことを思い出した。

 でなければ、アウトだったぜ」

「急なご注文で、私どもも慌てましたが」

 道路を横切って、銀行前から現れた長髪の男が二人に声をかける。痩せ型な体躯に馴染んだビジネス・スーツ。ブリーフ・ケースを手に、にこやかに足を止めた。

「……彼が?」

 ピザ屋? という一言を、レスリーは飲み込んだ。

「私は営業担当です。セディア・ブルーノと申します」

「車の手配は必要経費だ。直接こいつに回してくれ」

 レン・ケンジョウの指示を受けて、ブルーノは丁寧な仕種で、レスリーに書類を差し出した。

「こちらは、ご請求書です」

「……はぁ……」

「もう一つ、頼んでおいたピザはどうなった?」

「! そうだ! 空港で別れた妻と子供たちは?」

「ご心配なく。FISの支部で、現在保護しております。

 事情は伏せてございますので、ご自分の口から、父親として夫として、お三人に話されるとよろしいでしょう」

 レスリーは唇を噛み締めた。

「わかりました。自分の不注意です。責任は取ります。家族の為にも」

「家族とあんたの身の振り方は、こいつとあんたの弁護士で決めるといい。そっちのサービスに関しても最高だぜ。

 俺の料金はこいつ経由で入金してくれ。その方がお互い手間が省ける」

 ポリス・カーが彼等の視界に見えてくる。ひょこりと、片足は靴下のまま、レスリーは路上に踏み出した。

「靴は無いのか?」

「あいにくと、予測できませんでしたもので」

 さも申し訳なさそうにレンに答え、レスリーの足元をブルーノは伺った。

「いいんです。何から何まで感謝します。どうか、妻と子供たちを……」

「ご安心下さい。夜が明けたら、すぐにお連れします」

 親密な笑みに送られて、男は燃えるBMWの前に立ち手を振った。

「ICPOから国際手配中のフェンディ・レスリーです。不正輸出の証拠も持っています。私を拘束して下さい」

「あの男たちは?」

 警官の一人が、離れた場所から眺める二人の男を目線で示した。金髪でビジネス・スーツの優男と、黒づくめの若い日本人。目を引く、奇妙な取り合わせではある。

「野次馬でしょう。面識はありません。ご覧の通り、車で逃げようとしたら、追っ手に蜂の巣にされ、間一髪逃げることが出来ました。あの人たちは無関係です」

 レン・ケンジョウの依頼人は、望み通り連行されていった。二人を振り返らないことが彼等への礼だと、彼の依頼人は弁えていた。これ以上、巻き込む必要はない。ガードはその役目を果たしたのだから。

「それでは、車及びプラスチック爆弾の代金とオプション費用は、ご依頼主様からの入金より差し引かせて頂きます」

 ブルーノが事務的に告げ、一枚の書類を差し出した。ブリーフ・ケースに載せ、ペンも添える。

「思っていたよりも安いな」

「ケンジョウ様は、お得意様ですから」

 サインの手を止め、鼻先でレンは笑った。

「俺が一秒でも長く生きるか、一件でも多く仕事をすれば、あんたたちは儲かるって仕組みだ」

「報酬を頂くだけの、十分な技術をご提供している自信がございますので」

「もっともだ」

 書類を突き返し、レンはポケットを探った。先にブルーノが煙草を差し出した。一本受け取り、火も借りる。

「いい気配りだな」

「依頼の完了後は、かならずあなたは煙草を吸われる。仕事中は、決して吸わないのに」

「煙草の吸殻一つで、命を落とすことだってあるんだ。

 考えると、あんたとは良く会うな。世界中どこにでも居るのか?」

 返ってきたのは、営業用の笑みだけだった。

「今後とも、どうぞご贔屓に。私はこれで」

 優男の背中に、レンは無感動に呟いた。

「……助かったぜ」

 優雅な身のこなしで、ブルーノは振り返った。

「耳寄りな情報を一つ。

 FISでは、アテネにも支部を開設する予定です。ギリシャへお越しの際には、今夜のように思い出して下さい。

 どんなご用命にも、これまで通り対処いたします」

 物騒なピザ屋は、滑り込んできた一台のワゴンの助手席に乗り込み姿を消した。運転手とその仲間が、実働部隊か。

「便利な世の中になったな。あいつらなら、電話一本で戦車でも用意できそうだ」

 寄ってきた本物の野次馬を追い払う警官たちを尻目に、レンもその場をふらりと離れた。

「いや。……できるな。先月、南米での誘拐事件。副大統領令嬢を極秘でゲリラどもから救出したのは、民間企業らしいと……。それも新興企業のFIS」

 創始者はレンと同じ日本人だったはず。

「アテネ支部だと? 奴ら、世界中にコネクションを張り巡らすつもりか?」

 急速に成長、拡大を続ける国際的総合警備保障企業FIS。これからも付き合いは長くなりそうだと、レンは感じた。無論、この時は他人事のように。


  ◇◇◇


 少女が一人、冷たい石畳の路上で泣き続けている。

 イタリア。水の都ナポリの昼下がり。古い町並みが続く、スパッカ・ナポリの狭い路地で凶行は起きた。

 長い艶やかな黒髪と魅惑的な黒い瞳を持つ日本人観光客の少女を狙った誘拐、もしくは拳銃強盗。

 二人の若いロマーニの実行犯は、少女とその連れの男の前に飛び出すなり拳銃を付き付け脅した。強盗に慣れていないのか、二人の若者は激昂しわめき散らし、力の入りすぎた指が拳銃の引き金を引いていた。

 発射された一発の銃弾。少女を突き飛ばし、庇ったそう若くはない男が、その弾を左胸に受けた。

 獲物に手を触れる間もなく、飛び掛るもう二人の男たちに犯人たちはたやすく取り押さえられた。彼等は目立たぬように後を付けてきた、少女のボディ・ガードだった。

 少女は、石畳みに崩れた男にすがりつき、震えながら言った。

「……大嫌いよ……! あなたなんて、大嫌い……!

 許さないから……。私の為に死ぬなんて、絶対に許さないわ……!」

 グレイのスーツの左胸から、とどまることなく血が滲みだす。零れる少女の涙を溶かし込み、鮮血は妖しく華開いてゆく。

「……レディ? 落ち着いて下さい。私はまだ、息をしていますよ?」

「喋らないで……? 今、救急車が来るわ。私の為に……、何も言わないで……!」

「落ち着くのはあなたの方です。レディ・舞。

 私は大丈夫。急所は外れています。弾も貫通しています。自分で、そうしたんです。だから私は大丈夫。

 あなたの目の前では死にはしません」

「……気休めなんてやめて。もう何も言わないで……」

 少女は喘ぐように囁き、男の短い銀髪を撫で続けた。

「どうして私の楯になったの? なぜ? 私、嫌よ……。

 こんなのは嫌………」

「お嬢さん? 私はあなたのボディ・ガードですよ? 

 当然のことをしたんです。

 ……あなたが無事でよかった。

 レディ? 何度でも言います。私は、大丈夫なんです」

 彼が計算したよりも、出血は激しかったようだ。薄れてゆく意識の中で、男は最後に呟いた。

「……何しろ私は、超一流のプロですからね」

 毅然とした口調を頑として崩さず、自負に満ちた笑みを薄く浮かべ、男は目を閉じた。

 十月初頭の冷えた石畳に、少女の嗚咽は繰り返し繰り返し、響き続けた。



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