7 狙われたアテナ (2)
「……お嬢さんには、撃てないはずだぜ……?」
何度も息を飲み銃を凝視しながら、ソフト帽は何とか吐き出した。
「いいえ。……撃ちます」
「よせ!」
レンが否定した。ソフト帽の足りない頭もやっと回転しはじめたようだった。
「お前は動くな!? あいつが狙っているんだぜ?」
「何を言っても無駄です。引きなさい!?
早く行って下さいっ……!!」
彼女は叫ぶように言った。しっかりと引き金を絞ったまま。
その手に有るのは、蹴り飛ばされたはずのレンの拳銃だった。シグ・ザウエルP226。二十九オンス。女の手には重過ぎる。その上、反動は少女の肩にダメージを与える。肩が耐えられたとしても、細い身体は弾き飛ばされ、この石畳に打ちつけられる。
「お願いだから……!?」
搾り出すような懇願に、レンは胸を突かれた。
舞は望んではいない。敵を撃ち抜くことを。
レンの中で苦いものが込み上げてくる。怒りと憔悴が黒く胸に渦巻く。
……だめだ。お嬢さんまで……!
あんたまで、血で手を汚すんじゃない!!
目の前で向かい合う人間を撃つなんて真似は、たとえどんな理由があっても、気持ちのいいものじゃない。ましてあんたはまだ十四だ。一生消えない傷を負うことは無い。
今夜のこの瞬間を何度も夢に見て、眠れない夜を過ごすことは……!
……俺のような生き方は、お嬢さんの白い手には似合わない……。
「……撃ってみなよ?」
ソフト帽は、素人の弾が当たるわけがないと踏んだ。事実、発射の反動で、慣れない者や非力な者なら、銃口がズレ狙いは逸れる。
悠然と、奴はレンに狙いをつけた。
「お嬢さんがうまく俺を仕留めなきゃ、俺はこいつを殺すぜ」
「……撃つわ。甘く見ないで」
少女の声に、ためらいが消えた。
「やめろ! 撃つんじゃない!?」
レンが吼える。
舞と対峙する男の目が、レンへと追い詰められた殺意を向ける。引き金を絞る。
「さあ? どっちが勝つか…な………?」
男の視線が、一瞬、宙を泳いだ。同時に、見えない手に頭を鷲掴みされたように、頭から真横に吹き飛んでゆく。
煽られたソフト帽が、後を追う。撒き散らされる男の脳と共に。
「!」
彼女には目で追えなかったらしい。何が起きたのか解らず呆然と立ち尽くす舞の手から、レンは自分の拳銃をもぎ取った。少女を抱え、転がるように石壁の裏に回りこむ。二人のために風化に耐えてきたような脆い壁だった。
すぐさまライフルの弾が二発着弾する。読み通り。奴は居場所を変えていた。あのまま決着がつくと、気が緩みでもしたのか。ここは完全に死角だ。
「お嬢さん、立てますか?」
座り込む舞は、顔を上げ、言葉も無くうなずく。すぐに、壁越しの銃声に耳を塞いだ。ようやく我に返った雑魚たちが銃撃を開始していた。
壁に阻まれ、すべて無駄弾だ。
逆にレンの反撃は有効だった。一人、二人、たやすく狙い撃ちする。何しろ奴らには身体を隠すものが何もない。
逃げ惑う男たちに、レンはものの数秒で恐怖と痛みを叩き込んでやった。
「見城さん、左に……。誰かが……」
無意識の中から、平坦に舞が呟く。左は海だ。波音の広がり具合から、切り込んだ断崖のはず。舞を立たせ、引き摺るようにして場所を変えた。波の音が近くなる。
厄介なのは、ライフルの男一人。完全に形勢の逆転した雑魚たちなら、簡単に片が付く。空のカートリッジを取り替え、弾倉に新しい弾を送り込む。ひと時、辺りは静まり返った。舞は傍らに膝を付き、レンが背にした海をまだ見ている。
「……誰かが、居るわ」
舞の言う海の方向からではなく、正反対の道路上にレンは助けを見た。車のライトが、こちらに向かって照らされる。
「どうかしましたか!?」
張り上げられる中年男性の太い声。
「危険だ。隠れていろ!」
通りすがりか? レンはまだ来ないFISを呪って舌打ちした。ライトに照らされ、露わになった男たちのシルエットを狙い撃つ。混乱に陥った奴らには、ライトを撃ち抜く頭も無いらしい。
「くそっ。逃げるぞ!!」
「殺されるのはゴメンだ!!」
投げやりなスペイン語の悲鳴が上がる。
再び、見えざるライフルが火を噴いた。
レンではなく、逃げ出そうとする男の胸を貫いた。
「……どういう? 口封じのつもりか?」
同じことを悟った舞が、レンの服を握った。
レンは壁から身を乗り出した。闇を見透かす。
どこだ? 卑怯な黒幕は、どこに居る……?
間断無く銃声が響く。わざと気を引きつけようとしたレンには見向きもしない。スナイパーは、慌てふためく最後の男を血祭りに上げた。レンは素早く身を隠す。
……次は俺たちか……!?
執念深い殺意をレンは肌で感じた。
ライフルの男は、恐らく絶対の命令を受けている。どんな邪魔をも排除し、ターゲットを拉致する。その上、味方であっても背を向ける者は切り捨てる。秘密保持の為に。
「お嬢さん。ここから離れるな。これは命令だ」
舞の肩を掴み、壁に押し当てた。外れかけていたイヤリングが、軽い衝撃に右耳から落ちる。
「いいな? ……必ず戻ってくる」
うなずく舞をその場に、レンは体を低くして石壁から駆け出す。敵は移動を続けているはず。狙いはレン一人。的になってやる。ライフルを撃った瞬間が、奴の敗北の幕開け。すぐさま発射地点に弾をブチ込んでやればいい。
レンは耳は澄ました。微かな草を踏み分ける音。瓦礫を蹴る音を聞き分ける。だがそれを邪魔する、鈍い振動音がこの場に近付いていた。空? 嫌、地の底から。
……新手の敵か?
急激に接近。遺跡の向こう、海の底から躍り上がるように姿を現し、遮る物が無くなった今は、低い振動音が抉るように鼓膜を震わせる。
サッと、強烈な光の帯が、一早く大理石に伏せたレンの横を通り過ぎる。
同時に甲高い破裂音が一発響いた。
レンは反射的に体を起こし、銃声の方向に身構えた。
高速ローターの金属的な回転音が、強い風圧を残し一度遠のく。代わりに揺れるサーチライトが全身に照射された。
目を細め、ライトを腕で遮りながら見上げる。レンの頭上を、その飛行体は素早く旋回し、少女がうずくまる石壁の真上で正確なホバリングに切り替えた。
黒一色の攻撃用戦闘ヘリ。一人がスライド式のドアを引き、マシンガンを手に眼下を見渡す。赤外線スコープ付きのゴーグルで顔は見えない。だが、レンに向け親指を突き出した。サーチライトが周囲を一周し、また親切にも、レンに向けられる。
あまりの眩しさに、レンは目を閉じた。
ひたひたと軽い足音が駆け寄ってくる。体を投げ出すようにレンの胸にしがみつく。
手探りで髪を撫でると、花の香りが匂った。短い逃避行で、髪に挿していたはずの生花はすでに飛び散っていたはずだ。
どこから漂うか知れないが、それは平和の息吹。
生き延びた安堵感を、レンは胸一杯に吸い込んだ。
瞼を開くと、ヘリからロープが三本垂らされ、三つの人影が降下を開始していた。
片手で舞の体を支え、レンは銃を握りなおした。警戒は怠らない。
「周囲に警戒しろ。ライフルのスナイパーが一人居る!」
靴音が近付いていた。レンは銃口を向けた。
「ご無事ですか? 私は、怪しい者じゃない」
両手を挙げながら、太い声の男が近付いていた。ライトが機械的に照射される。レンは上に向かって、問題はないと合図した。車を止めヘッドライトを向けてくれた男だろう。片手に、散弾銃を掲げていた。
舞が顔を上げ、男を見た。その視界の中で同時に、彼女は見てはならないものを目撃してしまった。
レンの腕の中に、小刻みな震えが戻ってきた。顎を掴み、レンは視野を塞いだ。だが少女は抵抗し、現実を見回す。
草に埋もれた瓦礫のように、転がる息の無い人間たち。後頭部を吹き飛ばされたソフト帽の男は、目を見開いたままだ。
「見るんじゃない……」
耐えられず、舞はレンの腕に額を押し当てた。
「……どうしてですか? どうしてこんなことに?」
「お嬢さん? こいつらは敵だ。同情の余地は無い。
あなたを拉致しようとしていた、憎むべき存在だ。気にかけることは無い……!
彼等は報いを受けたんだ。わからないか!?」
レンの直感は正しかった。恐れたのは、この舞の悲しみと、引き金を引いた後の悔い。逃避行の中でも、強く自分と葛藤していた彼女の優しさや苦悩が、こんな風に舞の心を裂くのではないかと。
「私のせいですか? 私の為になぜ?
見城さん!? 私、嫌です……。嫌……!」
錯乱していく舞を抱き締め、レンは叫んだ。
「誰か!! お嬢さんを早くホテルに。すぐにだ。ここから引き離せ!!」
真っ先に降下した、迷彩服の小柄な人影が駆け寄ってくる。
「もう大丈夫よ。この周辺一帯に、生存している敵は居ないわ。生体温感知センサーでサーチは済ませたの」
ゴーグルを外し、顔を晒したのはアンジェラ・シールズ。彼女は右肩のマイクに呼びかけた。
「車はまだ!? 急いで!! ドクターの手配も」
アンジェラは、再びホールド・アップする中年の男に一瞥をくれ、OKとうなずいた。味方と見なされて、男は緊張を解いた。
レンは余計な一言を言ったアンジェラを強く睨んだ。
舞の動揺に気付き、アンも顔色を変えた。
「さあ。俺を見て。忘れるんです。今夜は。
いいですね?」
舞はレンだけを見上げ、小さく答えた。
「……はい……」
「お怪我は無いですかな?」
被害者が少女と知って、傍らの中年男が気遣った。
顔を向けた舞は、すぐに肩を強張らせた。
「彼は俺たちの恩人です。心配は要りません」
舞の怯える視線は、男の持つ散弾銃に向けられていた。レンは一言断り、銃を受け取った。
硝煙の匂い。レンは男を伺った。
「撃ちましたよ。あなたたちを狙うライフルの男を見つけたものですから」
レンは周囲を警戒する二人のFIS隊員に命じた。
「そいつを確認しろ。
どこですか? 彼等を案内して下さい」
レンは密かに嘆息した。狙撃手は排除された。これで本当に安全だ。
FIS隊員と連れ立って離れる男を、舞はいつまでも見送った。思い詰めた表情でレンの腕に頬を押し当てる。
「何か気掛かりでも?」
「……いいえ。何も。ただ、銃が怖いだけです……」
レンは真顔で、自分のシグ・ザウエルをホルスターに戻した。アンジェラにも、突撃銃をしまわせた。
「車が来たわ」
「さあ。早く行って下さい」
「見城さんは……?」
自分の上着を舞の頭から被せ、肩を包み直しアンジェラに預けた。体を捩り、舞は振り返る。
「俺はここに残ります。現場検証を終えたら、すぐに追いかけます」
アンジェラからのレーザー・ライトの合図を目指し、停車したランドクルーザーから私服の男たちが二人、駆け寄ってくる。レンは、舞が靴を無くしていることを教えてやった。
二人の男たちに両脇から抱えられ、遠ざかる舞を見送った。
「可憐なお嬢さんですな。どういうご関係ですかな?」
再びFIS隊員と共に引き換えしてきた男は、コーリーと名乗り名刺をレンに差し出した。宝石の貿易商だという。危険が多いので自衛の為、散弾銃を持ち歩いていると説明した。
「VIPとボディガードです。
助かりました。本当に」
「気丈な女性ですね。あの危険の中で、泣きもわめきもしない。逆に先程など、あなたをなだめるように腕を回して」
「見間違いでしょう。……体が震えていましたよ。彼女は」
FIS隊員を呼び寄せる。コーリーからホテルを聞き出し、隊員に送るように命じた。
「明日にでも、ボスとともにお礼に伺います」
隊員に異存は無かった。レンの指示を受け入れる。
動揺している舞を、すぐに現場から連れ出させたレンの判断、指示の的確さに、彼らは指揮権を譲っていた。
「あんたたちのボスはどうした?」
現場とは無関係だが、レンは聞かずにはいられなかった。
アテネから駆けつけるより、スニオン岬からの方が距離は近いはずだ。
アテネ支部から到着した現場検証チームが、転がる死体を一人一人確認している。
念入りに写真を撮り、指紋を採る。
……本来は地元警察の仕事だが。
レンには咎める気は無かった。真実を暴けるなら、それは誰でもいい。
死体の誰一人として、身元の判明するものは身に付けてはいない。狙撃手も同様だった。
その男だけは、頬が痩せ、訓練で引き締まった肉体を持っていた。
「!」
メイヤーが顔色を変えた。
「どうしたんだ?」
舞の肉親のように顔を土気色に変えていたレオドスが、焦れたように尋ねた。
「……信号が消えました……」
エメダインが唸り声を上げる。
紫月の声は静かだった。
「狩野、何をしている。確認させろ」
「……はっ。ただいま」
狼狽を押し隠し、狩野は携帯電話を握り直した。二、三言葉を交わし、手を伸ばしメイヤーのブリーフ・ケースを閉じた。
「ご無事です。たった今、戦闘ヘリから視認しました。見城も生きています」
老人たちは感嘆の声を上げた。立ち上がり、手を握り合いお互いの肩を叩きあう。
狩野も息を吐き出し、両肩の力を抜いた。メイヤーはその場にへたり込んだ。
「ご心配をおかけしました」
紫月はその場に立ち上がった。
「このお詫びはいずれ、相応に」
深く頭を下げる。狩野も習った。遅れてメイヤーも。
顔を上げ、紫月は老人たちに背を向けた。
「帰るぞ。
メイヤー。お前の言い訳を聞いてやる。あんなものをどうやって、一体誰に売り込むつもりだったのか、をな?」
「まったくだ。私もその答えを聞きたい」
ドアへと踏み出しかけた紫月の肩が止まった。彼に同意する、エメダインを振り返る。
「我々のように、年老いた者になら必要だろうな。いつどこで心臓が停止したがるかわからん。使い道が無いわけじゃあるまい」
レオドスの助け船に、メイヤーは生き返った顔をする。狩野が睨みつけ、メイヤーの襟首を掴み先に部屋を辞した。
「今夜はもういい。紫月君。
君が有能な経営者で、優秀な人材を擁していることはよくわかった」
「だが一つだけ。血の通った好ましい人間であることも示してくれ。
……我々は血の絆を重んじる民族だ」
血のような色のシェリー酒を、レオドスはグラスごと紫月に差し出した。
促されるまま、紫月はグラスを取った。
二人の目前で一度グラスを差し上げ、一息に煽った。
ドアの外では、狩野が一人、退出する紫月を待っていた。紫月の後に従い、厚い絨毯の敷き詰められた廊下を進む。
「浮かない顔ですね」
「父親の遺産で食いつないでいる、無能な息子の気分だよ……」
紫月は襟元を指で緩めながら答えた。
辟易とした顔ながら、足は大股で先を急ぐ。
「何か言われたのですか?」
「僕は知らなかった。二歳の時に出会った人間を覚えていられるわけがない。
二人とも、父の知人だそうだ。二つの頃の僕を覚えていると言われたよ。その上、父とは一晩飲み明かし、負かされたと笑っていた」
「その縁が、今夜の商談に影響がありましたか?」
「……いや。ない、のかもしれない。判断出来ない。二人とも老獪で顔には出さなかった。
だが不愉快だ。……僕はいつまでも、あの父の影から逃れられないのかと思うと」
「知人だと知っておられたら、グランド・エルターニュには手を出さなかったのですか?」
紫月は沈黙した。
「……かもしれない。エルターニュ警備はアテネ支部最大の核になるはずだ。エルターニュで成果を上げれば、FISはギリシャで優位に立てる。そうわかっていても、僕は自分の力だけで挑戦したかった。
父の七光りだと、誰にも言われたくはない……!」
すでに亡くなった男に、紫月は強い嫌悪の視線を向けた。
「世界は広大です。あなたの誘いを待つ国が、まだまだ沢山あるでしょう。アテネは、その為の布石です」
狩野の慰めに、紫月は自嘲ぎみに笑った。
「よくわかってる。お前の言いたいことは。
血の絆からは、逃れられない……」
「ボスとレディお二人が、お父上の最大の遺産。あの方たちも承知しているはずです」
狩野は紫月の心情を伺い、顔を曇らせた。
「あのお二人が、ボスのご幼少をご存知ということは。レディのことも……?」
「ああ。聞かれた。
妹は、二度目の母と父の間に生まれた娘だと正直に教えたよ。
僕の母は離縁されて、京都でまだ健在だと言ったら、喜んでいた。彼女も、人気があったらしいな」
薄く笑って、紫月は狩屋を振り返る。
「心配するな。力説してきたよ。
異母妹だから、すぐに駆け付けなかったわけじゃない。利用したわけじゃない……」
突然足を止め、紫月は壁に自分の拳を押し当てた。
「ボス……」
「今夜はこたえた……。気が狂うのかと思った。……狂ってしまった方がどんなに気が楽かと望んでいた……」
メイヤーが設定したプログラムは冷淡だった。少女が受けている痛み苦しみを、精密に測り、さらけ出してくれた。目にする者に、彼女以上の恐怖を与えて。
「ですが、あなたは耐えた。
レディ・舞も生き延び、ボスを待っています」
頭をうなだれる紫月の腕を取り、強引に先を行かせる。
「狩野、放せ。僕は子供じゃない……」
「しばらく子供で居て下さい。リムジンに乗って降りるまで。そこから先は、私は関知しません」
「……冷たい社長秘書だな……。おっと、忘れていた。もう一人の秘書は、一体何をしていたんだ?」
紫月は狩野に腕を引っ張らせながら、懐から携帯電話を取り出した。
「アーリック? 言い訳は聞きたくないぞ。
君が付いていながら、何をしていたんだ……?」
「……面白い動きを見ました。今、ターゲットを支部隊員に追跡させています。
勿論、レン・ケンジョウには期待を持たせない程度に、援護射撃はいたしましたよ。
折角、口を割らせようと急所を外したのですが。……全員、口封じされてしまいました」
「わかった。後で報告を聞く」
「一つだけ確かな情報が。
敵は、南米からの下種野郎です」
紫月は、暗い瞳で電話を切った。
「ナポリと違って、今度は込み入ったことになっているようだな……」




