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7 狙われたアテナ (1)



 少し拗ねたように、頬を膨らます舞。ドレスを着て、薄い化粧をしていながらも、彼女はやはり十四歳の少女だった。バック・ミラーの中で、つまらなそうな横顔をしている。

 除け者にされたのが不満なのか。やはり子供だなと、レンは納得した。

 スニオン岬からアテネ市内までは、海岸沿いのアポロコーストを抜けて、約二時間。

 行きはアンジェラの運転するリムジンだったが、帰りはなぜか頑丈なランドクルーザーに変わった。それも、レン自身が運転している。

 アンジェラは、資金不足でアテネにはリムジンが一台しかないと言った。出発前に、レンは狩野から車の説明を受けた。FISの特殊車両という仕立てになっていた。

 緊急信号用の発信機がアクセルの奥に、窓は強化ガラス。その程度のものですがと、狩野は苦笑ぎみに言い添えた。

 季節は十月の半ばを過ぎていた。夜ともなれば、気温は下がる。舞は肩に柔らかいショールを巻き付け、海を眺めている。月の無い晩である。彼方の島影に、街明かりが点々と灯るのみ。ゆらゆらと浮かぶ、ヨットかクルーザーの白い明かりも、海に浮かぶ星明かりのように映る。

「……海が見たい……」

 平坦に呟いた声に、感情は無かった。黙って、レンは路肩に車を止めた。瞬きをしてから、舞はレンを見返し車が停車したことに気付いたようだった。

「少しだけです。俺は、夜の海は嫌いじゃないので」

 先に車を降り、レンは後部ドアを開けた。レンの手を借りた舞は、慎重に降り立った。ヒールのある靴に慣れていなかった。その上、道を外れると、草むらに転がる大小の石くれに足をとられるはめになる。

 レンは腕を支え、慎重に海へと近付いた。細い肩に自分の上着を掛けてやる。

「何も見えませんね」

「音だけね。波の音だけ。広くて、深い海だわ……」

 同じだと、レンは感じた。遺跡の中で目を閉じた時と、同じくらい彼女は心を浸している。今は、地中海に心を沈め、受け止めて。舞の瞑想が破綻するのを承知で、レンは彼女の腕を引いた。

「戻りましょう。早く」

 追い立てるようにして車に戻る。レンは後部座席ではなく、助手席のドアを開けた。

「こっちでいいんですか?」

「ええ。……この方が仕事がしやすいので」

 舞は勘のいい子供だった。素早く助手席に乗り込み、頬を引き締めた。


 ◇◇◇


 パーティーの喧騒は届かなかった。

 広い別荘の奥部屋。紅いビロード張りのビリヤード・ホール中央に、丸テーブルと三つの椅子が並べられた。テーブルについたのは、別荘の主人レオドス、従兄弟の政府高官エメダイン。

 もう一つの椅子は、先の二人に比べれば、孫のような若さの青年。雪村紫月が付いた。

 背後に二人の部下が従い、紫月はリラックスした表情で、老獪な二人を見比べた。

「始めてくれ。シヅキ・ユキムラ。リストネルから、君のビジネスの希望は聞かされている。単刀直入に聞こう。立会い人として、このエメダインも同席する」

「君もこの国での慣例を知っているだろう? わが国では、血の繋がりは何よりも優先される。喜びも悲しみも我々は一身に受ける」

「承知しています。リスクもリターンも、血縁者同志分け合うということですね」

 ギリシャ経済界の実力者でもある彼等へ、臆することなく告げる紫月に、二人は不快げに鼻を鳴らした。

「私も、率直なやりとりは好んでいます」

 紫月は、老人たちを安心させるように微笑んだ。すぐに、堅牢な老人たちの威厳に敬意を表し、頬を引き締めた。

「私や、私のFISは若年ですが、自負しています。いずれ世界最高のセキュリティ機関となれると確信しています。

 いえ。現在でも。我々は、最高水準のガード・システムを確立しているのです」

 背筋を伸ばし、紫月は真摯な瞳で二人を交互に見た。

「ぜひ我々に、託して下さい。

 あなたのグランド・エルターニュを」

 レオドスは、頭を振った。

「君の力を借りねばならない理由はないね。

 私のグランド・エルターニュは、アテネ一のサービス、セキュリティで各国要人、国内要人をもてなしている。

 何の心配も無い。話しはこれで終わりだな」

「残念ですが、あなたのホテルは欠陥だらけです。無論、私が言及できるのは、セキュリティに関してのみですが」

 老人たちは顔色を変えた。即座に言い返そうとするレオドスを、エメダインが押し止めた。

「この数日、宿泊してよくわかりました。

 私が、1フロアを借り切ったのは、ご存知ですね。日本人の小僧がふざけた真似をして、さぞお腹立ちだったことでしょう。この場を借りて、お詫び致します」

 頭を下げる紫月に、エメダインは尊大に尋ねた。

「訳があったんだろう? 酔狂にしては金が掛かりすぎたはずだ」

「試させてもらいました。

 その上で、アテネ一のホテルは、非常に危険だと判断しました」

 老人たちは、顎を引いて顔を見合わせた。

「……我々の情報網では、すでに実害が出ていると聞いています。

 ですので、リストネル氏を通し、こんな形での話し合いを急いだ次第です」

 顔を見合わせる二人が、一瞬、頬を引きつらせた。レオドスは観念したように、一度うなずいた。

「君の情報収集能力は評価しよう。

 その通りだ。我々は一度、失態を犯したよ。緘口令を敷いたつもりなのだがね」

「悪い噂は、簡単に広まるものです。

 だから、一度としてよくない前例を出してはならない。どの業界にも当てはまる鉄則です」

「レオドス。折角の機会だ。FISのセールス・ポイントを聞くだけでも聞いてやろう」

 紫月は、一歩前進だとテーブルの上で両手を組み直した。これからが本当の勝負だ。

 カードはいくつでも用意してある。彼等を納得させるためのカード。紫月と紫月のFISを必要とさせるカードなら。完璧に。

 その時。静寂を破り、メイヤーの持つブリーフ・ケースが高い電子音を立て始めた。


 ◇◇◇


 ためらわず、レンは緊急発信装置を右足で蹴り付けた。非常事態。小さな赤い点滅を確認して、前方に向いた。

「見城さん……!」

「心配無い。身体を低くして下さい」

 レンはアクセルを踏み込んだ。追っ手は三台のセダン。囲まれ、路上から追い落とすつもりらしく、二台が車体をぶつけてくる。頑丈なランドクルーザーの車体には影響は無い。車道を降りても、荒地は振動が激しいが走行は出来る。

 焦れた敵は、銃で威嚇射撃を始めた。それも効果が無いと悟ると、車体を狙い始める。

 ガクンと、ランド・クルーザーのスピードが減速した。

「! お嬢さん、しっかりと俺に掴まれ……!」

 細い腕が、レンの胸にからみついた。

 薄い生地越しに、舞の跳ね上がる脈拍が伝わる。かき消すように、銃弾が車体に撃ち込まれた。今度は至近距離。駆動部に受けたらしい。エンジンが不機嫌な咳き込みを始めた。

 レンは片手で、タキシードのポケットに突っ込んである弾丸のカートリッジを確かめる。敵は何人だ? アテネからどのくらいで、支部の連中は駆けつける?

 ……急げよ!? 俺が今度はお前たちを試してやるぜ。

 エンジンが鈍く小さな爆発を起した。

「車を捨てます。お嬢さん?」

「私は大丈夫。怖くありません」

 少女は、邪魔になるショールを首に結び、ドレスの裾をしっかりと膝に抱えた。

 レンは急ブレーキをかけた。車が、荒地の上で激しく左右に振れる。ハンドルを一杯に左に切り、スピンさせる。追いかける車は、巻き込まれないように遅れた。

 遠心力に振り回され、大きく弧を描く車が停車する前に、舞を抱え飛び降りた。暗闇の草地に伏せる。無軌道に疾走する車をやり過ごす。少女のドレスが、夜の中で白く浮かぶ。レンは自分の上着を着せ掛けた。

「ここは。アテネからどれくらいの場所ですか……?」

 震える唇で尋ねたのは、レンが耳を疑うほど冷静な質問だった。

「まだ半分も戻っていないでしょう」

 それだけ、援軍が来るまでには時間がかかるということだ。

「心配ありません。俺がなんとか……」

 闇雲な銃撃が始まる。敵は多勢。数に任せた攻撃方法は、訓練を受けた者たちではないとレンに教えてくれる。それは好材料だ。このまま闇に紛れ奴等をやり過ごせたなら。

 その時。停車したランドクルーザーが火を噴いた。爆音と共にボンネットを吹き飛ばし、燃え上がる。周囲を煌々と照らし出し、レンと舞の影を長く映した。



「どうした?」

 慌ててブリーフ・ケースを開けたメイヤーに、振り返らず紫月は尋ねた。

「あ……、いえ……」

「舞に渡した試作品か?」

 ブリーフ・ケースの電子音は、蓋を開けたせいで、さらに大きな音で鳴り続けている。青ざめ眼鏡を何度も押し上げるメイヤーに、狩野が向き直った。

「ご説明しろ。何があった?」

「そういえば、何の試作品か、僕も聞いていなかったな。どうした? 何が起きている?」

 紫月はメイヤーを振り返った。

 ますます、メイヤーは震え上がった。

 呼応する電子音は、その間隔を狭めていた。

「私も聞きたいな。君は、技術部門の天才だそうじゃないか?」

 エメダインが提案した。レオドスも遅れて同意を示した。

「早くご説明を。……ボスに恥をかかせるな」

 狩野の囁きに、メイヤーは観念した。

 歩み寄り自分のブリーフ・ケースをテーブルに乗せた。中のパソコンの画面に、三本の軌跡でバイオリズム波形が描かれている。その背景は緊急を示すかのようにオールレッド。

「ボス。大至急、機動部に連絡をして下さい。

 レディ・舞が危険な状態にあります。

 ……この波形は、レディの脈拍血圧体温の上昇を記録したものです。イヤリングで計測し、ネックレスに仕込んだ発信機でここへ。ですから……!」

 メイヤーは振り絞るように声を上げた。

 その場が、一瞬で凍り付く。

「誤報ではないのか? 似たような状態に陥ることは……」

「……いいえ! その判別分類をする為に、これまで研究・試作を重ねてきたんです。間違いはありません」

「狩野」

 素早く、紫月の声を受け狩屋が動いた。自分のブリーフ・ケースをテーブルに大きく広げる。パソコンを開きながら、携帯電話をプッシュ。

「狩野だ。機動部の出動を。緊急だ。メイヤー、レディの位置データを転送しろ」

 振るえかける指先で、メイヤーが支部のコンピューターとのリンクを完了させる。

「急いで下さい。心拍数が跳ね上がっています」

「……遠いな。ここからの方が近いくらいだ。

 急げ。8分? 5分以内で到着しろ!」

 語気を強めた狩野に、エメダインとレオドスは肩をびくりとさせた。

「お騒がせして申し訳ありません。話しを続けましょう」

 狩野とメイヤーは、信じ難いものを見る目で、揃って紫月を見た。顔色一つ変えないボスを確かめ、我に返った二人は、すぐに自分のブリーフ・ケースを隣のビリヤード台に移動させようとした。

「待ちなさい。ここで構わん」

「君達の手並みを見せてもらおう。

 無論。君が現場に掛け付けたいのなら、今夜の話し合いはこれで終了してもいい」

「ご心配なく。続けます。

 今日のようなチャンスを、私のような若輩が何度も得られると自惚れてはいません」

「本当に構わんのか? 君の妹だぞ」

 紫月の部下ですら、ボスを凝視している。レオドスは代弁のつもりで声を大きくした。

「私には最高のスタッフがおります。アテネ支部の有能さが、すぐにでもお二人の耳に届くでしょう」

「君は、自分の肉親の危機もビジネスに利用するのかね?」

 残酷な質問にも、紫月は冷静に答えた。

「いいえ。事実を述べただけです」

「絶対に無事であると?」

「私がそうたるべきと、彼等を教育させたのです。彼等の能力は、私自身の手足と同じものです。

 私の信頼がある限り、彼等は最高の結果を出します」

「なるほど。FISのガードたちは、君そのものか」

「はい」

「肉親として、心配ではないのかね?」

 レオドスは、困惑で眉間の皺を深くしながら、頭を振って尋ねた。

「誤解の無いように、一つお断りしなければなりません」

 心配顔の二人に、紫月は口調を柔らかくした。

「私の意志は彼等と同一ではありますが、能力は別です。

 ペンとファイルしか持つことの無い私と違って、彼等は真実の力を持っています。

 非力な私の身体が駆けつけることには、何の意味もありません」

 老人たちは沈黙した。血の絆の強い彼等ギリシャ人には理解し難い発想なのだろう。

「人には、それぞれ存在すべき場所があります。

 今私が必要とされている場所は、このテーブルであると、誰もが思っていることでしょう。無論。私の妹も」

 沈黙していたレオドスが、重い口を開いた。

「君はどうあれ、私は落ち着かない……。

 彼女は心の真っ直ぐな良い娘だ。あの子が、命の危険に晒されているのかと思うと。とても、落ち着いてなどいられんよ……」

「では、しばらく時間を置きましょう。

 ビジネスに感情を持ち込んでいただくのは、お互いのためにも、あまり良いことではありません」

 助け船を出したのは紫月の方だった。

 席を立ち上がり、壁際のミニ・バーで、シェリー酒を二つグラスに注いで戻ってきた。

 レオドスとエメダインの前に置く。

 狩野が携帯電話に耳を当てた。

「……わかった。

 ボス。レディの乗った車からSOS発信があったそうですが、先ほど途絶えました」

「メイヤー? 舞は生きているんだろうな?」

 老人たちの鋭い視線を同時に浴びて、メイヤーは縮み上がった。

「はいっ。脈拍の停止は見られません」

「狩野。機動部の現場到着まであと何分だ?」

「予定では、あと5分……」

 苦渋ある返答に、紫月はそれ以上かかるのだと聞き取った。

「お二人とも、心臓に疾患はありませんか?」

 紫月が尋ねた。

「いや。差し当たり……」

「……あまり、心臓にはよくないな……」

 だが二人とも、席を立つ素振りは無かった。

「ご心配なく。舞には腕のいいボディ・ガードがついています。

 彼が、命を捨てて守ってくれるでしょう」



「見城さん、私から離れないで!?」

 黒煙を吐き続けるランドクルーザーの篝火から、レンと舞は闇を求めて逃げ出した。

 期を逃さず撃ち返すレンに、嵐のような威嚇射撃が返ってくる。レンを狙えば、始終離れない舞に当たる。明らかにそれを恐れて、追っ手は彼等を追い詰めるためだけに銃撃を繰り返していた。野兎でも狩るように。

 最低でも十人は居るだろうチンピラたちは、次第に囲いを狭めていた。だがほとんどがまともな襲撃の訓練など受けていない雑魚であると、レンは読んだ。

 迂闊にも、クルーザーの燃え続ける炎を背後にした一人の若い男の腕を、レンは正確に打ち抜いてやった。

 呻き声を上げ、若者が大声で吐き出した悪態に、レンは耳を疑った。

 訛りの強いスペイン語。このギリシャの地で。

 レンの浅い知識と照らしても、地中海続きのスペイン本土のアクセントとは違った。間違いなく、大西洋を越え南米から来た誘拐犯。

 ……どういうことだ……?

 ターゲットの少女も、レンと同じ疑問を抱いたらしい。レンを見上げる。その目に、恐れは無い。

「……見城さん……」

 賢明にも、舞はハイヒールを脱ぎ捨てていた。ドレスの裾を腕にからめ、セットが乱れ始めた長い髪を解く。

「しばらく、我慢して下さい……」

 気丈さに、レンは息を飲みそれだけ告げた。

「あそこに。私について来て下さい。ほとんど崩れているけど、石造りの遺跡があります。

 まだ楯にできるくらいは残っているわ」

 暗闇に目が慣れたといっても、あるのは星明かりくらいだった。だが、舞は前方の一角を指し、足を踏み出す。

 背後からは、無用心なまでに瓦礫を蹴散らし男たちが近付いている。レンは拳銃をホルスターに戻し、舞を追いかけ、彼女を抱え上げた。

「……この方が速い」

 言い訳をするレンの背を、守るように彼女は腕を回した。その瞬間、レンの視界が変化する。闇に沈んでいたあらゆるものが、明確に見分けられる現実にレンは直面した。

 視えているのではなく、動物の持つ嗅覚のような、鋭敏な感覚。直感が視界を明晰にしていた。

 真っ直ぐに、舞が教える遺跡へと走り出す。身体を隠すために、朽ち掛けた石壁目指して。



「機動部から五名、救出に向かいました」

 狩野の言葉に、紫月は小さくうなずいた。レオドスとエメダインは、お互いに何かを囁きあった。

「戦争をしているわけではありません。

 五名で十分です。相手が特殊工作員でない限り」

 老人たちの心配を読み、紫月は穏やかに告げた。

「ボディガードにSOS信号を発信させる猶予を与えたり、車を破壊するなど、プロの仕事ではありません。マフィアのような、粗雑で計画性の伺えない力任せな襲撃の典型です。

 そういう手合いには、腕の立つガードならどう対処すべきか心得ています。ただ、応援が来るまで、時間を稼げばいいだけ」

 紫月は、ゆっくりと両手を組み直した。

「ですが、やっかいなケースもあります」

「?」

「応援が到着する前に、ターゲットを押さえられたなら。一騎当千の機動部隊員でも、簡単に手出しできなくなる。

 そこまで間抜けなボディ・ガードだとは思いたくありませんが。生憎彼は臨時雇いなもので、確信は持てない」

 自分の両手を見据え、紫月は唇の両端を引いた。微笑ではなく、視線の先に思い浮かべるレン・ケンジョゥの面影に囁きかけていた。

『君の命で、購ってもらうさ……』



 放逐された古代遺跡の石畳は滑らかで、強い海風に吹き飛ばされたか、小石一つ無かった。

 裸足の少女を腕から下ろし、背後に庇う。

 密かに、レンは深呼吸した。身体中が焼け付くほど強く脈打つ血管に、肺の底から潮の香りが吹き込まれてゆく。

 海から柔らかくなぶる潮風が濃い。恐らく、遺跡を破壊していったのは、時の風化だけでなく、海岸の浸食のせいもあるのだろう。張り出した岩棚に張り付く、古代の証し。

 ……真下は海だ。かなり海へ下がっているはず。飛び込んだなら……。

  レンは強い欲求を冷静に否定した。一かバチかの賽を振るのは、まだ早すぎる。

「見城さん、私が……!」

「……黙っているんだ」

 庇いあうレンと舞に、真っ直ぐに近付いてきたリーダー格の男が、卑屈に鼻を鳴らした。せめてもの礼儀のつもりか、自分一人だけ被ったソフト帽を軽く持ち上げた。

 手に握った銃口をレンへ向けたまま。

 強く縮れた髪。彫りの深い顔立ち。

「これだけの手勢が居るんだ。逃げようなんてことは考えない方がいい。その拳銃も捨てな」

 ソフト帽野郎は、癖のある英語で言った。交渉役らしい。

 レンは動かなかった。押し寄せてくる、二人を囲もうとする男たちよりも、別の存在の位置を探っていた。

 遺跡に逃げ込み、反撃の拠点、崩れかけの石壁に隠れようとした二人を、拳銃ではなくライフルで狙い撃ちにした者が居た。ただの威嚇ではあったが、正確にレンの足元数十センチに着弾させた。

 全く別方向からの、決して姿を見せようとはしない敵。すでにその場を離れ、位置を移動しているだろうが、レンは警戒した。

 その何者かだけは、プロフェッショナル。

 下手な反撃は、舞を銃撃戦に巻き込むだろう。

 レンは黙して、石畳の上に立ち尽くした。

「それ以上近付かないで!? この人に手を触れないで下さい」

 舞が声を張り上げた。

 ソフト帽の男が、背後へ片手を突き出し、集結しようとしていた男たちに合図した。その場に立ち止まらせ、これでいいんだな、と確認するように、男は頭を傾けた。

「おとなしく付いてくれば、お嬢さんの望みは何でも適えてやる」

 務めて穏便に提案したつもりのようだが、語尾に潜む生来の粗暴さは消せなかった。

 囲む男たちは、弱い星明かりの下でも楽に狙いをつけられる位置で、揃ってレンに銃口を付き付ける。

「まず。お前。銃を捨てろ」

 ソフト帽が腕を伸ばし、レンの額に銃口を向けた。絶対に、撃ち損じのない距離を取るため、男は一歩踏み出した。レンに比べたら、頭半分低い。

 前に出ようとする舞の肩を掴み、レンは引き戻した。

 ソフト帽野郎によく見えるよう右手を突き出し、ゆっくりとそのまま腕を下ろした。上体を屈め、大理石に拳銃を乗せ、手を引く。舞を背中で押しやるようにして、レンは、一歩二歩、その場から後ずさった。

「次はお嬢さんの番だ。あんたの損にはならないぜ。あちらさんは、あんたにご執心らしい。きっと可愛がってもらえるだろうよ」

 真っ白な歯の隙間から、男は卑下た笑いを零した。

「一体、誰に指図された?」

 まったく敗北を受け入れた様子の無いレンに、男は鼻で笑った。無視をする。

「俺たちは、あんたに指一本触れるなと言われてる。傷一つつけたら、金にはならん。丁重にお連れするぜ。安心しな」

「……この人も一緒よ」

 即座に大声で、男は叱り飛ばした。

「だめだ!! あんた一人をお望みだ。

 なに、あんたが大人しくついてきてくれるなら、俺たちの手間が省ける。こいつはこのまま帰してやるよ」

 レンは、舞の腕を掴んだ手に力を込めた。顔立ちは無表情を守っている。だが襲撃者の大嘘に腹の底が沸騰しかけていた。奴らに、レンを生かして帰す気など絶対に在りえない。舞も承知しているから、レンを同行しようとした。

「さあ、お嬢さん?」

 舞は動かない。そのほっそりと折れそうな身体を、レンは左腕で引き寄せた。右手で、少女の喉を掴む。驚いた舞は、顎を上げ、レンを見上げた。

「……俺は、死にたくはない。お嬢さんが行ったら、俺は殺される。違うか? ウジ虫ども」

 ソフト帽の男は、一瞬、呆気に取られた。

「ま、待てっ」

「それ以上近付けば、お嬢さんの綺麗な顎を砕く。いや……。それは惜しいな。腕の一本で十分かな?」

 レンが握り直した少女の右手首は、簡単に折れそうなほど細い。唇を噛み締め、舞は受けた衝撃を押し殺している。

「はったりは止めろ!? お前に出来るわけがない! 自分のVIPに……!」

「……出来る」

 舞に腕をねじ上げる。うつむいた少女は悲鳴を噛み殺した。降り乱れる髪だけが、正直だった。

 ついに、探していた銃弾が発射された。ライフルの乾いた銃声が一発。

 レンの真横ほぼ五十センチほど離れた大理石を抉った。警告か。

「今度は、あんたを撃ち抜くぜ!

 あいつの腕は確かだ。その小娘がもう一度悲鳴を上げたら、てめえなんぞ……!」

 短気で小心な本性をむき出しにして、ソフト帽野郎はわめき散らした。苛々とその場を歩き回り、思い出してレンの拳銃を蹴り飛ばし遠ざける。

 歩み寄り、レンの額に冷たい銃口を押し当てた。狙撃者からの無言の圧力に焦り、浮き足立っている。

「茶番は終わりだぜ。お嬢さんから手を離せ。

 お嬢さん? 目の前で、こいつが吹き飛ぶのは見たくないだろう? 離れな!?」

 だらりと腕を下ろしたレンに、舞は離れず寄り添った。

「おい! 誰か来て、お嬢さんをお連れしろ」

 スーツの男が三人、近付いてくる。

 ……くそっ……!!

 レンの憤りを読み取ったのか、皮膚に食い込むほど銃口が押し付けられる。

 ……まだ来ないのか!? 何をしている!?

「嫌よ!? 私は行きません!!」

 男たちの手を撥ね退け、舞はレンにしがみついた。

「……お嬢さん……」

 怯えているわけではない。目を大きく見開き、彼女は希望を失ってはいなかった。耳元の銀細工のイヤリングを揺らし、頭を振った。

「……お願い……。私たちに触れないで……」

 願うように小さく呟く。何か、レンの考えつかない理由で、舞は葛藤しているようだった。

 寒さのせいでも、恐怖からでもなく。レンのタキシードを握る舞の指先が、細かく振るえ出していた。

「さあ。大人しくしろよ!」

 舞の腕を、男の一人が掴む。その瞬間、彼女の振るえは全身に行き渡った。

「待て。様子がおかしい」

 制するレンに、別の男が拳銃を腹に押し当てた。構わず、レンは舞を両腕で支えた。

「? お嬢さん……?」

 目を見開いていながら、その焦点は何も見ていない。なのに舞は、一度力を無くした右腕を、何かを探るようにしずしずと持ち上げた。しっかりと関節を伸ばしてゆき、指を一杯に広げ掻いた。何かを引き寄せるように。

 ……狂ったのか!?

 恐怖と、それを押さえる努力に破綻が起きた? 男たちにも、舞の異常は伝わった。

「構わねぇ! お嬢さんを連れて逃げるぞ」

 レンは譲らなかった。昼間、動物園で激しく疲労した舞。彼女の身体には何かある。このまま、何も知らない襲撃者に委ねるわけには……!

 必死に、何かを求め手を伸ばす少女。長い髪を乱し、身体を震わせ。十四歳の少女が。

 無意識に祈った。レンは一人の名を呼んでいた。

 この世に居るはずのない者に叫びを上げる。

 ……このギリシャの地に神が居るなら。その奇跡の白き手を使うのは今だ。

 アテナ。女神アテナよ……!!

 焦れた男たちが、レンに突きつけた銃の引き金を絞る。落ち着きを無くし、リーダー格のソフト帽野郎を何度も目だけで振り返る。奴らにも猶予は無かった。

 刹那。レンの望んだ輝きが視界の隅に生まれた。ひらりと揺れる。たなびく純白の衣のようにレンを取り巻いていた。幾重にも。

「うわぁっ!!」

 レンの額から、銃口が引き剥がされた。男たちが目を疑い、あとずさる。同時に、レンの腕が軽くなった。大理石を踏み締め、彼女は一人で立とうとした。精一杯伸ばしていた右腕に、左手を添える。

「!」

 レンも目を見張った。光に包まれていたのは、白いドレスの少女の全身。海風とは無関係な方向に、緩く煽られる長く細い髪。その一筋一筋までもが、真珠色の光に覆われ、揺れていた。

 襲撃者たちは全員が、恐れおののいた。

 ……『神の娘』!?

 紫月の言葉が、レンの耳に蘇る。

 顎を上げ、恐れることなくその場に凛と立つ彼女の神々しさに、男たちは戦闘意欲を失った。

 この世の者ではないような。すべてを超越した者の持つ、怒り悲しみ喜び、その他のどんな感情も伺えない、ただ目を奪われる神秘的な顔立ち。何も映さない透明な瞳。

 無意識の操り人形のようなぎこちない動きで、舞は何も持たない右手を、男たちに突き出す。

 レンは、目を凝らした。

 細い指先が、確実に何かを握り締めてゆく。手の中に、光の粒子が急速に生まれ、大きく輝いた。光が収まった中心に、正反対に黒々とした鋼鉄の凶器が握られていた。

 ためらわず、舞は左手を添え、両手で一番身近なソフト帽の男に狙いを付けた。病的な全身の震えは消えていた。代わりに肩が深く上下し、彼女が必死に自分の姿勢を保とうしているのが見て取れた。長い睫の下、瞳はすでに正気だった。

 恐ろしいほど真剣な眼差しで、男を見据える。

「動かないで……! 撃ちます」

 最後の一言が発せられると同時に、彼女の身体にまとわりつく白い霞は掻き消えた。その場に立つのは、懸命に主張する一人の少女だった。




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