↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

女とエイの夢

作者: 歩く魚
掲載日:2026/09/09

いつだかに見た夢です

 彼女とどうやって知り合ったのかは覚えていない。

 学校の同級生だった気もするし、駅前で声をかけた気もする。ナンパというやつだ。


 もしかすると、最初から知り合いだったのかもしれない。

 俺という存在がこの世に生まれた瞬間からの知り合い。


 そういう曖昧な部分を不思議に思わないまま、俺は彼女と話し、飯を食べ、くだらないことで笑っていた。


 名前も知らないし、顔の輪郭はボヤけている。

 だが、彼女が俺を好きだということだけは最初から分かっていた。


「明日も来る?」

「多分ね」


「えー、来てくれないの?」

「そんなに言うなら行くよ」

「本当!? 嬉しいっ!」

 

 彼女は屈託のない笑みを浮かべる。

 俺も彼女と一緒にいることは嫌いではなかったし、むしろ何も考えずに話していられる時間は心地よかった。


 しかし、ある日。

 俺は彼女の前から姿を消さなければならなくなった。


 何が原因だったのかは思い出せない。

 俺が彼女に何かをしたのかもしれないし、彼女ではない誰かから逃げていたのかもしれない。


 あるいは最初から、俺は一つの場所に長く留まってはいけない人間だったのかもしれない。


 いや、違う。


 俺が彼女を怒らせるような事をしたのだ。

 必死になって逃げるような、それほどの事を。


 その時の俺は切羽詰まっていた。


 廊下を走りながら角を曲がり、後ろから聞こえてくる彼女の足音が近づいてきたところで、俺は身体を透明にした。


 俺が完全に姿を消している間、周囲の人間は俺についての記憶までもを失う。


 先ほどまで面と向かって会話していたとしても、お互いの飯を交換したとしても、俺の名前や顔、何もかも忘れるのだ。


 透明になった俺は壁際に寄り、そのまま息を殺して彼女が追いついてくるのを待った。


 ほどなくして彼女が廊下の角から飛び出してきたが、数歩進んだところで急に立ち止まり、辺りを見回した。


「……私、何してたんだっけ」


 よし、これで俺は大丈夫だ。

 もう彼女は俺を覚えていない。


 胸の奥に引っかかるものはあったが、ここで立ち止まるわけにはいかない。

 俺は彼女から離れようと歩き始め、それでも念には念を入れて、廊下いっぱいにひよこを出した。


 十羽、二十羽、三十羽と、手のひらにすっぽりと収まるサイズの黄色いひよこが次々に床へ現れ、ぴいぴい鳴きながら好き勝手に散っていった。


 姿が見えない俺には本来必要のない目くらましだったが、一羽でも多く目立つものを置いておきたかった。

 俺以外に意識を向かせたかった。


 彼女は足元へ集まってきたひよこを見下ろした。


「何これ」


 一羽が靴の先へ寄っていくが、彼女は避けず——そのまま踏んだ。


「えっ」


 思わず声が出た。


 彼女は気にする様子もなく次の一羽を踏み、さらに前へ進もうとする。

 黄色い身体が次々と靴の下へ消えていくのを見て、俺はひよこたちに申し訳なくなった。


 そして、ここでもう一つ気になる事ができた。

 彼女の足が止まったのだ。


 止まったと思うと顔が上がり、真っ直ぐこちらを向いた。

 俺の姿は見えていないし、俺についての記憶もない。


 それでも彼女は、しばらく何もない空間を見つめたあと、眉を寄せながらこちらへ歩き始めた。


「なんでだよ」


 俺が後ずさると、彼女はそれを追うように進む。

 走って右に廊下を曲がると彼女も右に曲がり、左へ曲がっても付いてくる。


 階段を駆け下りると、迷わずその後を追ってきた。


「嘘だろ……」


 言いようのない恐怖が俺の身体を突き動かす。

 彼女は最後まで俺を見失わなかった。


 どれほど走ったのか、どこを通ったのかは分からないが、気がつくと俺は巨大なショッピングモールの中にいた。


 中央には何階分も吹き抜けになった広場があり、その周囲を囲むように服屋や雑貨屋、飲食店が並んでいる。エスカレーターは上下に絶えず人を運んでいた。


 人の声が重なり、建物全体に反響しているようだった。

 ここなら人混みに紛れられる。


 そう考えて、吹き抜けの手すりの側まで来たところで——下の階から爆発音が響いた。


 床が揺れ、階下で悲鳴が上がっている。

 俺は反射的に下を覗き込んだ。


 一階のイベント広場で戦闘が起こっている。

 鎧を纏った男やスーツを着た会社員風の男。

 他にも色々な人間が戦っている。


 だが、その中の一つ——というか一体を見て、俺はしばらく言葉を失っていた。

 

「……エイ?」


 黒いエイが空を泳いでいる。

 水中でもないのに、横幅三メートルほどある身体をゆったりと上下させながら、吹き抜けを縦横無尽に飛び回っている。


 細長い尻尾の先には巨大な針がついていた。

 エイが身体を翻した次の瞬間、その針が鎧の男の腹を横から刺し、刺したのに、男は数メートル先の柱まで吹き飛ばされた。


(強すぎるだろ……)


 思わず笑ってしまう。

 透明になっていた俺には、エイからも自分が見えていないという安心感があった。


 近くにあったゴミ箱を軽く蹴ると、その中身が飛び出して手すりに当たり、一階へ落下して、ちょうどエイの背中へぶつかった。


 エイが止まった。

 ゆっくりと身体の向きを変え、こちらを見上げる。


 俺は透明だ。

 見えるはずがない。


 そう思っているうちに、エイは一直線に上昇してきた。


「うわっ!」


 反射的に身体を伏せると、針が頭のすぐ上を通過し、そのまま背後の壁へ突き刺さった。

 どんな方法かは分からないが、こいつは俺を捕捉している。


 俺は全力で走り出すが、エイは俺を追ってくる。

 エスカレーターを駆け上がっても距離は縮まるばかりで、途中の服屋へ飛び込んでも、入口のガラスを割って入ってくる。


 なんとかエイの下を抜けて飛び出し、エレベーターに逃げ込んで閉ボタンを連打したが、扉が完全に閉じる寸前、黒い身体が無理やり隙間へ滑り込んできた。


 尻尾が伸びてきた。

 避けようとしたが間に合わず、右腕を針が貫いた。


 痛みはないが痛い。俺は腕を押さえながらエレベーターを飛び出し、そのままフードコートへ逃げ込む。


 だが、既に俺は追いつかれているのだ。

 脇腹、肩、太腿と、逃げるたびに針が身体を掠めたり突き刺さったりする。


 それでも足を止めることはできなかった。

 次に止まったら殺される。


 そう思いながら走り続けていたところで、背後から風を切る音がした。


 振り返ると、黒い針が目の前まで来ていた。

 目に刺さった。

 

 視界が一気に暗くなる。何も見えない。

 痛みもないのに、頭の奥まで痛みが突き抜けているように頭を抑える。


 後ろから聞こえてくるエイの羽ばたきは耳に入ってくる。

 俺は壁に手をつき、何かに——おそらく人間に——ぶつかりながら走った。


 どこへ向かっているのかも分からないまま、ただ逃げようと走り続けていた。


 いつの間にかエイの気配が消えていた。

 しばらくして、恐る恐る目を開くと、視界は元に戻っていた。


 身体に開いた傷も消えている。

 俺は安心して息を吐き、周囲を見回した。


 どうやらモールの端まで来ていたらしい。


 広い通路の先にはカフェがあり、その向こうでは家族連れや学生たちが何事もなかったように歩いている。エイの姿はない。


「助かった……」


 そのとき、前から誰かが歩いてきた。


 彼女だった。


 友達らしい女の子と二人で買い物袋を持ち、楽しそうに話している。


 当然、俺のことは覚えていない。

 俺は未だに透明なままだ。

 

 彼女は俺の横を通り過ぎ——立ち止まった。


「どうしたの?」


 友達に尋ねられても、彼女はすぐには答えなかった。


 少し前まで楽しそうに話していた顔から笑みが消え、今しがた通り過ぎたばかりの道を振り返る。


 その視線は行き交う人々の間をゆっくりと移動したあと、何もないはずの空間——俺が立っている場所で止まった。


「……分かんない。何か忘れてる気がするんだけど、何を忘れたのか思い出せない」

 

「買ったものじゃなくて? さっきのお店に置いてきたとか」


「そういうのじゃないと思う。物じゃなくて……もっと大事なものだった気がする」


 彼女自身、自分が口にした言葉を理解できていないようだった。


 俺は動かなかった。

 

 まだ透明なのだ。姿が見えないだけではなく、この状態でいる限り、彼女の中から俺についての記憶は失われているのは確かだ。


 それなのに、あの時のように彼女は俺から目を逸らさない。


「こっちにある気がする。何なのか分からないけど、確かめてくるね」

「ちょっと、どこ行くの?」


 彼女がこちらへ歩き出した。

 最初に追われたときと同じだ。

 俺が逃げても、彼女はぴったり付いてくる。


 俺は踵を返し、彼女から離れた。


 まだ走らない。人の流れに混ざって角を曲がり、通路を進む途中で別の服屋に入る。

 並んだ衣服の間を抜け、反対側の出口から別の通路へ出た。


 これだけ視界を切れば追いようがない。

 そう思って振り返った。店の向こうに彼女がいた。


 幸いにも足を止めていた。

 彼女に追いついた友達が隣で何かを話しているが、彼女は聞いていない。

 

 辺りを見回したあと、何かに引かれたように顔をこちらへ向け、再び歩き出す。


 背中に冷たいものが走った。

 エイに追われたときとは違う。


 あれには明確な敵意があった。

 俺はエイにちょっかいを出し、怒ったエイが俺を殺そうとした……のだと思う。


 馬鹿げてはいるが、原因と結果は繋がっているのだ。


 彼女にはそれがない。

 記憶があれば俺を追う理由にはなるが、最も大事な動機が抜け落ちている。


 今の彼女は俺の名前を知らない。顔も知らない。

 一緒に飯を食べたことも、また会おうと約束したことも覚えていない。


 俺ですら分からないが、彼女を怒らせた理由も知らないはずなのだ。


 それでも俺を追ってくる。

 俺の位置を本能で察知して追いかけてくる。


 俺は歩調を速めて通路を進む。

 何度も人混みへ入った。


 家族連れの横を抜け、買い物袋を提げた男を挟んで別方向へ進むが、しばらくすれば背後に彼女がいる。


 やがて俺は走り出した。どうすればいい?

 誰を追っているのか分からない人間に追い詰められている。


 俺は走り続けていたが、少しずつ足が重くなっていた。


 先ほどまでエイから逃げ回っていたのだ。

 身体に開いた穴は消えているし、潰されたはずの目も元に戻った。


 それでも、あれだけ長い時間逃げ続けた記憶まで消えたわけではない。


 彼女を突き動かすのは何なのか。

 好意なのか、怒りなのか、それとも別の何かなのかも分からない。


 ただ、俺がどこにいるのかだけは、子供が親を認識するように本能で読み取ってくる。


 これ以上、俺が何しても無駄だ。

 そう考えた瞬間、走ることが馬鹿らしくなった。


 俺は近くにあったカフェへ入った。

 逃げ切れると思ったわけではない。

 もう疲れたのだ。


 店内には多くの客がいた。

 コーヒーの匂いが漂い、食器の触れ合う音に、いくつもの会話が重なっている。


 俺は奥にあった二人掛けの席へ座った。

 もちろん、誰も俺の存在に気付かない。


 周囲の人から見れば、誰もいない椅子が勝手に引かれ、その座面がわずかに沈んだように見えただろう。


 入口を眺めながら待った。

 数十秒が過ぎても彼女は現れない。


 今度こそ見失ったのかもしれない。

 そう思い始めたころ、彼女が店へ入ってきた。一人で。


 彼女は店内を見渡した。テーブルを一つずつ確かめるように視線を動かし、やがて俺のところで止まる。


 彼女は俺の正面にある椅子を引いた。

 俺は透明化を解いた。


 突然現れた俺を見て、彼女は目を見開いた。

 しかし、それは一瞬で、すぐに顔から戸惑いが抜けていく。


「……ああ」


 彼女が小さく息を漏らした。

 記憶が戻ったのだと分かった。

 その瞬間、俺の中で張り詰めていたものが切れた。


「ごめん……」


 うまく声が出なかった。

 喉が詰まり、息だけが漏れる。

 

 どうにかもう一度口を開こうとしたところで、先に涙が落ちた。


「ごめん……ごめんなさい」


 涙が止まらない。


「俺が悪かった。何したのか、ちゃんと思い出せないけど……俺が悪かったから。だから……許してくれ」


 彼女は何も言わなかった。

 その沈黙を埋めるように、俺は何度も謝罪を口にした。

 鼻をすすり、袖で涙を拭う。


 何度同じ言葉を繰り返したのか分からない。


「……もういいよ」


 俺は顔を上げた。


「許してあげる」

「……ありがとう」


 俺は鼻をすすりながら何度も頷く。


「ありがとう……本当に、ごめん……」

「もう謝らなくていいって」


 彼女は困ったように笑った。

 その顔を見ていると、俺は彼女がまだ俺を好きなのだと、なぜか当たり前のように分かった。


 俺はようやく逃げるのをやめた。


 しばらくして、彼女の友達がカフェへ戻ってきた。

 なぜか両手に卵を抱えている。


「これ、さっき拾ったんだけど」


 手のひらより少し大きな卵が二つ。

 俺が片方を受け取って眺めていると、ピシッと小さな音がした。

 殻にヒビが入り、それがジグザグに広がっていく。


 殻の隙間から小さな嘴が覗いた。

 殻が内側から押される。


「…………ひよこ?」


 もう一つの卵にもヒビが入り、同じようにひよこが生まれた。

 二羽はまだ覚束ない足で立ち上がると、鳴き始めた。子供が親を呼ぶように。


「かわいい……」


 彼女の声に気づいて、近くにいた客たちもこちらを見た。


 子供が母親の手を引いて近づいてくる。

 隣の席にいた女性もスマートフォンを置いてひよこを覗き込んだ。


 俺は彼女と顔を見合わせ、どちらからともなく笑った。

 彼女だけではない。みんなが笑っている。


 天井が吹き飛んだ。

 

 巨大な翼を広げ、赤黒い鱗に全身を覆われたドラゴンが、天井に開いた大穴からカフェの上へと降りてくる。


 突然現れた化け物に店内が騒然とする中、ドラゴンは俺たちには目もくれず、少し離れた場所にいた誰かへ向かって大きく口を開いた。


 次の瞬間、眩しいほどの炎が吐き出され、逃げ出したそいつの背中を追うように店内を横切っていく。


 俺たちは狙われていなかった。

 この場の誰もが炎の直撃を受けることはなく、熱気が一瞬、こちらまで押し寄せてきた程度だった。


 炎が通り過ぎたあと、それまで絶えず聞こえていた鳴き声が消えていることに気づいた。


 下を見ると、黄色い身体は黒く焼けこげ、動かなくなっていた。


 ドラゴンはとっくに姿を消している。

 焼けた匂いと煙だけが残っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。