最終話 愛情はルールではなく
日曜日の午後一時五十五分。
リビングの壁に掛けられた時計の秒針が、カチ、カチと時を刻む音が、やけに大きく聞こえる。
ダイニングテーブルの上には、冷たい麦茶の入ったグラスが三つ。そして、夫の席の前には、昨日クリニックで受け取った白い封筒が置かれている。
中に入っているのは、医師の診断書だ。
「……来るな」
夫の洋介が、窓の外を見ながら呟いた。
その声は少し震えていたけれど、瞳には今までにない強い光が宿っていた。
私はキッチンのカウンター越しに、夫の広い背中を見つめた。今日、この背中はもう、母の顔色を伺って縮こまるためのものではない。妻と子を守るための盾なのだ。
「蓮は?」
「二階の子供部屋にいるわ。好きなDVDを見てていいって言ったから、今は落ち着いてる」
「そうか。……よし」
洋介が自身の頬をパパン、と両手で叩いたのと同時に、玄関のチャイムが鳴り響いた。
ピンポーン。
その音は、まるでゴングのように聞こえた。
私は深呼吸をして、エプロンの紐をきゅっと締め直した。
さあ、終わらせよう。長い長い「教育」という名の支配を。
玄関を開けると、そこには予想通り、戦闘服とも呼べる完璧な装いの義母、相沢悦子が立っていた。手にはいつものブランドバッグと、ずっしりと重そうな教材の入った紙袋。
「こんにちは。時間通りね」
義母は私の挨拶もそこそこに、白い手袋をした手で上がり框の埃を指で拭うような仕草をした。
「少し埃っぽいわね。美咲さん、玄関は家の顔よ。お客様を迎える前に拭き掃除くらいしなさい」
「申し訳ありません。どうぞ、お上がりください」
いつもの私なら、ここで萎縮して謝罪の言葉を並べていた。けれど今日の私は、ただ静かに微笑んで彼女を通した。その反応の薄さに、義母は少し拍子抜けしたような顔をしたが、すぐに気を取り直してリビングへと進んでいった。
「あら、蓮くんは? また隠れているの? 本当に内気な子ねえ」
リビングに入り、ソファに誰もいないのを確認すると、義母は不満げに眉をひそめた。
「勉強の時間よ。一分一秒が大事なんだから、準備させておきなさいって言ったはずでしょう?」
義母がドサリと教材の袋をテーブルに置く。その重たい音が、部屋の空気を振動させた。
洋介が、ゆっくりと立ち上がった。
「母さん、座ってくれ。話があるんだ」
「話? 何よ改まって。勉強の後になさい。蓮くんを呼んで」
「蓮は呼ばない」
洋介の低い声に、義母の手が止まった。
「……どういうこと? まさか、体調でも悪いと言うの? 自己管理がなっていないわね。風邪くらいなら頭は動くでしょう?」
「風邪じゃない。蓮には、もう母さんの勉強会を受けさせないことにしたんだ」
一瞬、時が止まったような沈黙が流れた。
義母は、何を言われたのか理解できないという顔で、ぽかんと口を開けた。そして、ゆっくりと、その表情が憤怒へと変わっていく。
「……何を言っているの? 今が大事な時期なのよ? 小学校受験を甘く見ているの? あなた、自分の息子を底辺に落とす気?」
「底辺なんて言葉を使うなよ」
洋介は静かに、しかし毅然と言い返した。
「俺たちが望んでいるのは、蓮が有名校に入ることじゃない。蓮が毎日笑って、健やかに育つことだ。今のやり方じゃ、蓮が壊れてしまう」
「壊れる? 大げさなことを言わないでちょうだい。子供は厳しく鍛えてこそ伸びるのよ。あなただってそうだったでしょう? 私が鬼になって指導したから、今の一流企業に勤めるあなたがあるのよ。感謝こそすれ、文句を言われる筋合いはないわ」
出た。いつもの「成功体験」と「感謝の強要」。
洋介は、テーブルの上の白い封筒を手に取り、義母の前に差し出した。
「これを読んでくれ」
「何よ、これ」
義母はいぶかしげに封筒を開け、中の書類を取り出した。
『診断書』の文字が目に入った瞬間、彼女の眼鏡の奥の目が大きく見開かれた。
「……適応障害? 心因性チック症?」
「そうだ。蓮は今、極度のストレスでチックが出ている。原因は『過度なプレッシャー』と『条件付きの愛情』による不安だ。医師からは、ストレスの原因となる環境から距離を置くように指示されている」
洋介の言葉に、義母は鼻で笑い、書類をテーブルに放り投げた。
「馬鹿馬鹿しい! 何よこれ、ヤブ医者の戯言じゃない。最近の医者はすぐに病名をつけたがるのよ。ちょっと瞬きが多いだけで病気? 笑わせないで。精神力が弱いだけよ。鍛えれば治るわ」
その言葉を聞いた瞬間、洋介の拳が固く握りしめられるのを私は見た。
「弱いだけ……か。母さんは、俺の時もそう思ってたんだな」
「当たり前でしょう。あなたが泣くたびに、私は心を鬼にして机に向かわせたわ。それが親の愛よ。そのおかげであなたは強くなった。違う?」
洋介は首を横に振った。悲しげに、けれど確信を持って。
「違うよ、母さん。俺は強くなったんじゃない。心を殺したんだ」
「え……?」
「毎日、胃が痛かった。母さんの足音が聞こえるだけで心臓が縮み上がった。百点を取らないと家に入れてもらえない夢を、大人になった今でも見るんだ。……俺は、成功したくて勉強したんじゃない。母さんに捨てられるのが怖くて、必死にしがみついていただけだ」
洋介の声が震え始めた。それは怒りではなく、長年封じ込めてきた傷口から血が溢れ出すような痛みだった。
「俺は、蓮に同じ思いをさせたくない。あの子の寝顔を見て、俺は自分の幼少期を思い出して吐き気がしたよ。母さんが誇っている『成功した育児』の実態は、息子を精神的に追い詰めて、感情を麻痺させただけだったんだよ!」
「な……何を……」
義母の顔色が蒼白になる。絶対的な自信を持っていた自分の「偉業」を、当の本人から全否定されたのだ。動揺しないはずがない。
「そんな……そんなはずないわ。あなたは私に『ありがとう』って言ったじゃない。初任給でプレゼントもくれたじゃない!」
「それは、そうしないと母さんが不機嫌になるからだ! 親孝行な息子を演じないと、母さんは俺を認めなかっただろう!?」
洋介の叫びがリビングに響き渡った。
義母はよろめくように一歩後ずさり、ソファの背もたれに手をついた。
その視線が、ふらふらと私の方に向く。攻撃の矛先を探すように。
「……美咲さん。あなたが吹き込んだのね」
義母の声は低く、怨念めいていた。
「あなたが洋介を洗脳したんでしょう? 自分がまともな教育もできないからって、私のやり方を否定して、息子を奪おうとしてるのね。この、怠け者の甘い母親が!」
彼女は私を睨みつけた。その目には、理性を失った激情が宿っていた。
今までなら、私はここで目を伏せていた。
でも、もう違う。
私は一歩前に出た。義母の正面に立ち、その目を真っ直ぐに見据えた。
「お義母様。私は怠け者でも、甘い母親でもありません。蓮を守ろうとしている、ただの母親です」
「黙りなさい! 結果も出せない人間が偉そうなことを! 蓮くんはね、あなたみたいな凡人が育てたら、何の取り柄もないダメ人間になるのよ。私が磨いてあげなきゃ、ただの石ころで終わるの!」
「子供は宝石の原石でも、親の作品でもありません。一人の人間です」
私は静かに、けれどはっきりと言葉を紡いだ。
「お義母様は、蓮に『できない子はママに嫌われる』と仰いましたね。テストができないと、私が蓮を捨てると」
「……発破をかけるための方便よ。それくらい危機感を持たせないと……」
「それが一番の毒なんです」
私は義母の言葉を遮った。
「蓮は恐怖で支配されていました。お義母様がいらっしゃる日は、朝から震えて、トイレで吐きそうになっていました。それが『教育』ですか? 五歳の子供に『成果を出さなければ生きている価値がない』と刷り込むことが、愛なんですか?」
「結果が出ればいいのよ! 社会に出たら結果が全てなの!」
「ここは会社ではありません! 家庭です!」
私の声が、自然と大きくなった。
「家庭は、傷ついた時に帰ってくる場所です。どんなに失敗しても、ここだけは自分を受け入れてくれるという安心感があるから、子供は外の世界で戦えるんです。お義母様のやろうとしていることは、その安全基地を破壊することです」
義母は唇をわななかせ、言葉を探しているようだった。
「……きれいごとよ。そんな甘い考えじゃ、厳しい社会で生き残れないわ」
「洋介さんは生き残りました。でも、心はボロボロでした。私は蓮をそんなふうにしたくありません。たとえ計算が遅くても、有名校に入れなくても、蓮が『自分は愛されている』と信じて笑っていられるなら、私はそれでいい。それが、私の誇りです」
義母はハッとしたように口を噤んだ。
「私が立派に育てた」という義母の誇りに対し、私が提示したのは「幸せに生きること」という、全く別の次元の誇りだった。
「お義母様。洋介さんは『立派』に見えていただけです。ずっと心が泣いていたんですよ。蓮も同じです。成果を出さないと愛されないなんて、それは家族ではありません」
私は一呼吸置き、最後にこう告げた。
「お義母様、愛情はルールじゃなく寄り添いですよ」
その言葉は、義母の堅固な鎧を貫いたようだった。彼女は何かを言い返そうと口を開いたが、声にならなかった。
その時、リビングのドアが小さく開き、隙間から小さな顔が覗いた。
「……ママ?」
蓮だった。二階での話し声が大きくなって、心配して降りてきたのだろう。手には、お気に入りの恐竜のぬいぐるみを握りしめている。
「蓮!」
義母が、溺れる者が藁をも掴むような必死さで、蓮の名を呼んだ。
「蓮くん、おばあちゃんよ。ねえ、蓮くんはお勉強したいわよね? カッコいい一年生になりたいわよね? ママとパパが変なことを言ってるの。蓮くんから言ってちょうだい。おばあちゃんと一緒に頑張るって」
義母は膝をつき、蓮に向かって両手を広げた。
その姿は、哀れなほど必死だった。自分の正義を証明してくれるのは、もうこの幼い孫しかいないのだ。
蓮はビクッとして身体を強張らせた。
以前なら、恐怖で支配され、義母の元へ歩み寄っていただろう。
でも、今の蓮には私たちがついている。
私は蓮に駆け寄り、その小さな肩を抱いた。洋介もまた、蓮の前に立ちはだかるように位置取った。
「蓮、大丈夫だ。嫌なことは嫌って言っていいんだぞ」
洋介が優しく促す。
蓮は、私と洋介の顔を交互に見上げ、それから恐る恐る義母を見た。
「……僕」
蓮の小さな唇が動く。
「……僕、ドリルやりたくない」
「えっ……」
「おばあちゃん、怖い。怒るから、怖い。……もう、来ないで」
その言葉は、小さな子供の拙い拒絶だった。しかし、義母にとってはどんな罵詈雑言よりも鋭い刃となって突き刺さった。
彼女が心血を注いで育てようとした「未来の傑作」が、彼女を明確に否定したのだ。
「……嫌、なの? おばあちゃんのこと」
義母の声が震えた。
蓮は私の足にしがみつき、顔を埋めながら言った。
「パパとママと、笑ってるほうがいい」
それが答えだった。
義母の手が、力なく下ろされた。広げられた腕は、誰を抱きしめることもなく空を切った。
彼女はその場に崩れ落ちるように座り込んだ。完璧にセットされた髪が少し乱れ、その背中は急に老け込んだように小さく見えた。
「私は……あなたたちのために……」
「母さん」
洋介が静かに告げた。
「帰ってくれ。そして、しばらく頭を冷やしてほしい。俺たちが『会いたい』と言うまで、連絡もしないでくれ」
それは絶縁に近い通告だった。
義母は、反論する気力さえ失っていた。彼女の築き上げてきた城は、基礎から崩れ去ったのだ。
彼女はふらふらと立ち上がり、持ってきた教材の袋を持つこともなく、亡霊のように玄関へと向かった。
去り際に一度だけ振り返ったが、その目は焦点が合っていなかった。
「……さようなら」
重い玄関ドアが閉まる音が、終幕の合図のように響いた。
リビングに静寂が戻った。
嵐が去った後のような、けれど清々しい静けさだった。
「……行ったな」
洋介が大きく息を吐き出し、肩の力を抜いた。
「うん。……お疲れ様、洋介」
「いや、疲れたのは母さんの方だろうな。あんな顔、初めて見たよ」
洋介は苦笑したが、その表情には後悔の色はなかった。彼はついに、自らの手で呪いを解いたのだ。
「蓮、よく言えたね。偉かったよ」
私がしゃがみ込んで蓮の頭を撫でると、蓮は恥ずかしそうに、でも誇らしげに笑った。
「パパが守ってくれるって言ったから」
「ああ、当たり前だ。パパはもう、誰にも蓮をいじめさせたりしないぞ」
洋介が蓮を高く抱き上げた。
「きゃあ!」と蓮が声を上げて笑う。その笑顔を見て、私は心底ホッとした。
テーブルの上には、義母が置いていった「有名小学校入試問題集」が置き去りにされている。それはもう、私たちを脅かす権威の象徴ではなく、ただの紙の束だった。
数ヶ月後。
蓮のチック症状は、嘘のように消えていた。
保育園の先生からは「最近、蓮くんがとても活発になりましたね。お友達とも大きな声で遊んでいますよ」と報告を受けた。
義母からは、あれ以来連絡がない。夫の話では、親戚の集まりにも顔を出さず、家に引きこもりがちになっているという。「あんなに元気だったのに、急に老け込んだみたいだ」と風の噂で聞いた。
少し可哀想だという気持ちがないわけではない。彼女もまた、孤独な中で「完璧な母親」という鎧を着て戦ってきた人なのだろう。
いつか、彼女が鎧を脱いで、ただの「おばあちゃん」として蓮に会いたいと願う日が来たら。その時は、また違った関係が築けるかもしれない。
でも、今はまだ、この穏やかな時間を守りたい。
休日の公園。泥だらけになって走り回る蓮。それをベンチで見守りながら、コンビニのおにぎりを頬張る私と洋介。
高級な懐石料理も、完璧な作法もないけれど。
ここにあるのは、条件のない、あたたかな愛だ。
「ママー! パパー! 見て、ダンゴムシ!」
蓮が満面の笑みで、泥だらけの手を差し出してくる。
「うわっ、すごいな蓮!」
「ちょっと、洋介! そのまま抱っこしないでよ、服が汚れるじゃない!」
私たちは顔を見合わせて、声を上げて笑った。
空はどこまでも青く、澄み渡っていた。
これが、私たちの選んだ「正解」だ。
誰になんと言われようと、私たちはこの幸せを手放さない。




