第三話 専門家の助言と、夫の覚醒
土曜日の朝、私たち家族を乗せた車は、義実家とは反対方向の郊外へと走っていた。ハンドルを握る夫、相沢洋介の横顔には、隠しきれない不満の色が滲んでいる。
「本当に大げさだよなあ。ちょっとチックが出たからって、わざわざ専門医なんて。子供なんてそんなもんだろ? 成長痛みたいなもんでさ」
赤信号で停車するたびに、洋介はため息交じりにそう溢した。彼にとって今日の予定は、貴重な休日を潰される「無駄なイベント」でしかないのだ。
「大げさじゃないわ。蓮の様子、昨夜も見たでしょう? 眠っていてもビクッて跳ね起きて、うなされていたのよ」
私は冷静さを保ちながら返した。後部座席では、蓮が不安そうにチャイルドシートのベルトを握りしめている。「病院に行く」というだけで、彼は注射をされるのではないか、痛いことをされるのではないかと怯えているのだ。
「蓮、大丈夫だよ。今日行くところは、痛いことはしないよ。先生とお話しして、遊ぶだけだからね」
「……ほんと?」
「本当だよ。優しい先生だから」
バックミラー越しに蓮と視線を合わせ、微笑みかける。しかし、蓮の表情は曇ったままだ。彼の小さな心には、大人に対する不信感が根付いてしまっている。
車は三十分ほどで目的地に到着した。「真壁こどもクリニック」。閑静な住宅街の一角にあるその建物は、病院というよりはカフェのような温かみのある外観だった。看板にはパステルカラーの柔らかなフォントでクリニック名が書かれている。
院内に入ると、消毒液特有のツンとする匂いはなく、ほのかに柑橘系のアロマが香っていた。待合室には絵本や木製のおもちゃが置かれ、壁には子供たちが描いた絵が飾られている。
「へえ、なんか病院っぽくないな」
洋介が少し拍子抜けしたように呟く。
予約時間ぴったりに、診察室のドアが開いた。現れたのは、白衣ではなく淡いグリーンのカーディガンを羽織った女性だった。真壁先生だ。四十代半ばだろうか、ショートカットが似合う知的で優しげな瞳をしている。
「相沢蓮くん、ご両親もどうぞ。こんにちは」
通されたカウンセリングルームは、ゆったりとしたソファと、子供が遊べるプレイスペースがある個室だった。
「さあ、蓮くん。あっちに新しいレゴがあるから、好きなものを作っていいのよ。お父さんとお母さんは、ここで先生とお話ししましょうね」
真壁先生に促され、蓮はおずおずとプレイスペースへ向かった。しかし、レゴブロックの箱を手に取ると、すぐに振り返って私と洋介の顔色を伺った。
「……開けていい?」
「もちろんよ」と先生が答えても、蓮はまだ不安そうにキョロキョロしている。ブロックを床に広げるときも、音を立てないように慎重だ。まるで、散らかすことを極度に恐れているかのように。
先生はその様子を静かに観察しながら、私たちに向き直った。
「さて、お母様からのメールで大体の状況は把握していますが、改めてお話を聞かせていただけますか? 特に、チック症状が出始めた時期と、その前後の環境の変化について」
私は深呼吸をして、話し始めた。義母の過干渉、週末ごとの厳しい指導、高圧的なドリル学習。そして、「できない子はママに嫌われる」という言葉。
話しているうちに、悔しさと情けなさで声が震えそうになったが、隣にいる洋介の手前、感情的にならぬよう事実を淡々と伝えた。
洋介は腕を組み、バツが悪そうに天井を見上げたり、貧乏ゆすりをしたりしていた。彼にとって、母親の悪口を聞かされているような居心地の悪さがあるのだろう。
一通り私が話し終えると、真壁先生はメモを取る手を止め、眼鏡の奥の瞳をすっと細めた。
「なるほど。状況はよく分かりました。……お父様は、この状況をどうご覧になっていますか?」
突然水を向けられ、洋介は「えっ」と身を乗り出した。
「いや、妻はこう言ってますけど、僕は正直、ちょっと過保護なんじゃないかと思ってまして。母のやり方は確かにスパルタですけど、悪気はないんですよ。孫の将来を思ってのことですし、実際、僕もそうやって育てられて、こうして大手メーカーに入れたわけですから」
洋介は「実績」を強調した。自分が成功例である以上、母の教育は間違っていないはずだ、という論理だ。
「男の子なんて、ちょっとくらい厳しくされた方が逞しく育つもんですよ。今の子は打たれ弱すぎるんです」
言い切った洋介に対し、真壁先生は否定も肯定もせず、穏やかな声で問いかけた。
「お父様は、ご自身が五歳の頃のことを鮮明に覚えていらっしゃいますか?」
「え? まあ、断片的には……。毎日ピアノと公文式をやらされて、遊ぶ時間がなかったなあとか、そのくらいですけど」
「その時、どんなお気持ちでしたか? 楽しかったですか?」
洋介は言葉に詰まった。視線を宙に彷徨わせ、少し考え込む。
「楽しい……とは違いますね。でも、やらなきゃいけないことだと思ってましたから。母さんが怖かったし、怒られないように必死でしたよ」
「怒られないように必死だった。……蓮くんを見てください」
先生が顎でプレイスペースを指し示す。そこでは、蓮がブロックを積み上げていた。高く積み上げた塔が、バランスを崩してガシャンと崩れる。
その瞬間だった。
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
蓮が弾かれたように飛び起き、直立不動になって謝り始めたのだ。誰も何も言っていないのに。顔面は蒼白で、小刻みに震えている。
洋介が驚いて「おい、蓮? 誰も怒ってないぞ」と声をかけるが、蓮の耳には届いていないようだった。
「片付けるから! すぐ片付けるから、許して……!」
その姿は、五歳の子供が遊んでいる光景ではなかった。まるで、処刑を前にした囚人のような怯え方だ。
真壁先生が静かに、しかし重みのある声で言った。
「ご覧になりましたか? あれが、蓮くんの今の心の状態です。ブロックが崩れるという些細な失敗さえ、彼にとっては『許されない罪』なんです。常に大人の顔色を伺い、失敗すれば罰せられる、見捨てられるという恐怖の中で生きています」
「そんな……大げさな」と洋介が呟くが、その声には先ほどまでの自信がない。
「相沢さん、これは『条件付きの愛情』と呼ばれるものです」
先生はホワイトボードに向かい、文字を書きながら説明を始めた。
「『テストで百点を取ったら愛してあげる』『いい子にしていたら認めてあげる』。これは一見、教育的な動機付けに見えますが、子供にとっては『条件を満たせない自分には価値がない』というメッセージになります。ありのままの自分を受け入れてもらえない不安は、子供の自己肯定感を根底から破壊します」
「自己肯定感……」
「ええ。蓮くんのチック症状は、その過度なストレスと不安が身体化したSOSです。心がいっぱいいっぱいで、悲鳴を上げているんですよ。これを放置すれば、将来的にうつ症状や、あるいは反動で攻撃的になる可能性も十分にあります」
洋介の顔色が少しずつ変わっていく。しかし、まだ完全に納得したわけではないようだった。
「でも先生、社会に出たら結果が全てでしょう? 子供のうちから厳しさを教えるのも親の愛じゃないですか? 僕だって、胃が痛くなるほど勉強しましたけど、そのおかげで今の地位があるんです。母さんには感謝してるんです」
洋介が必死に反論する。それは、自分の過去を正当化するための抵抗のようにも見えた。
先生は深く頷き、そして洋介の目を真っ直ぐに見据えた。
「お父様。今、『胃が痛くなるほど』とおっしゃいましたね」
「え? ああ、まあ……比喩というか……」
「本当に比喩ですか?」
先生の鋭い問いかけに、洋介はハッとしたように口を閉ざした。
沈黙が流れる。プレイスペースから、カチッ、カチッというブロックの音だけが響く。
洋介の脳裏に、封印していた記憶が蘇ってくるのが、隣にいる私にも分かった。彼の呼吸が浅くなり、額に脂汗が滲み始めている。
……そうだ。小学生の頃。
学校から帰ると、母が玄関で仁王立ちして待っていた記憶。
テストの点数が悪かった日、トイレに隠れて震えていた記憶。
夕食の時、常に胃の奥がキリキリと痛み、美味しいはずのハンバーグが砂利のように感じられた感覚。
「あなたのためよ」と言われながら、自分の好きな漫画やプラモデルをゴミ箱に捨てられた時の絶望。
洋介の手が、無意識に自分の腹部を押さえていた。
「……痛かった」
洋介がポツリと漏らした。
「え?」
「胃が……本当に痛かったんだ。毎晩、寝る前に神様に祈ってた。『明日はお母さんが機嫌好くありますように』って。……そうだ、俺、一回だけ、家出したことがあった」
記憶の蓋が開いた。今まで「感謝」という綺麗な包装紙で包んで隠していた、生々しい痛みが溢れ出してくる。
「公園のベンチで泣いてたら、親父が迎えに来てくれて……でも、家に帰ったら母さんは『恥ずかしい真似をするな』って、僕を抱きしめるどころか、ひっぱたいたんだ。……俺は、ただ慰めてほしかっただけなのに」
洋介の声が震え始めた。大人の男性が、幼い子供のような顔になっている。
真壁先生は優しい声で語りかけた。
「辛かったですね、お父様。あなたは、成功したから強かったのではありません。壊れないように、自分の感情を殺して、痛みに麻痺することで生き延びてきたんです。それは『適応』であって『健全な成長』ではありません」
洋介は両手で顔を覆った。
「俺は……蓮に、同じ思いをさせていたのか……」
「おばあ様がなさっていることは、かつてあなたになさったことの繰り返しです。悪気がないのは事実でしょう。彼女にとってそれが『成功法則』だからです。でも、その成功の裏で、あなたの心はずっと泣いていたのではありませんか?」
「……はい」
洋介の指の間から、涙が零れ落ちた。
夫が泣くのを、私は初めて見た。
彼は「母のおかげで立派になった」という自負を支えに生きてきた。けれど、それは「そう思わなければ、あの苦しみが無駄になる」という防衛本能だったのだ。
蓮の姿を通して、彼は過去の自分自身と向き合い、その傷の深さを初めて自覚したのだ。
「すまない……美咲、すまない……」
洋介は私の肩に顔を埋め、声を押し殺して泣いた。
私は夫の背中に手を回し、優しくさすった。今まで彼を責めていた気持ちが、少しずつ溶けていくのを感じた。彼もまた、被害者だったのだ。「あなたのため」という呪いをかけられ続けた、可哀想な子供だったのだ。
しばらくして、洋介は涙を拭い、顔を上げた。目は赤かったが、そこには先ほどまでの迷いはなかった。
「先生。……息子を、守りたいです。どうすればいいですか?」
その言葉を待っていた。
真壁先生は力強く頷き、一枚の書類を取り出した。
「お父様がそう決断されたなら、もう大丈夫です。まず、蓮くんの今の状態について、正式な診断書を作成します。『適応障害』および『心因性チック症』。原因として『過度なストレス環境』を明記します」
「診断書……」
「はい。これはおばあ様にとって、否定できない『客観的な事実』になります。そして、医師の指導として『祖母との接触を一時的に制限し、ストレス源を断つこと』を推奨します」
先生は私の方を見て、微笑んだ。
「お母様。今までお一人で戦ってこられて、大変でしたね。でも、これからはお父様という最強の味方がいます。そして、医学的な根拠もあります。もう、感情論で言いくるめられることはありませんよ」
「ありがとうございます……」
私もまた、涙をこらえることができなかった。ようやく、光が見えた。
出口のないトンネルの中で、ずっと一人で叫び続けていたけれど、ようやく声が届いたのだ。
帰り道、車の中の空気は、行きとはまったく違っていた。
洋介はハンドルを握りながら、真剣な表情で言った。
「美咲。明日の日曜日、母さんが来るって言ってたよな?」
「ええ。勉強の進み具合を確認するって」
「分かった。……俺が話す。今までみたいに逃げたりしない。ちゃんと、俺の言葉で母さんに伝えるよ」
その横顔は、私が知っている「優柔不断な夫」ではなく、家族を守ろうとする「父親」の顔だった。
「でも、お義母様、きっと激怒するわよ。『恩知らず』とか『親不孝』とか、すごい剣幕で……」
「言わせておけばいいさ。俺が今まで言えなかった分も、全部受け止める。……それに、俺が母さんの呪いから抜け出さないと、蓮まであっち側に連れて行かれちまうからな」
後部座席を見ると、蓮は遊び疲れたのか、穏やかな寝息を立てていた。その寝顔は、行きの車内での強張った表情とは違い、安らかだった。
きっと、クリニックで先生にたくさん褒めてもらったからだろう。「崩れても大丈夫、また作ればいいのよ」と言われて、蓮は安心して笑っていた。
「洋介、ありがとう」
私が言うと、洋介は照れくさそうに鼻をすする。
「礼を言うのは俺の方だよ。美咲が諦めずに動いてくれなかったら、俺はずっと気づかないままだった。……よし、帰ったら作戦会議だ。明日は俺たちの『独立記念日』にするぞ」
夫の言葉に、私は深く頷いた。
武器は揃った。
医師の診断書。
カウンセラーの助言。
そして何より、覚醒した夫の決意。
あの完璧な城塞に住む「女王」に対し、私たちはついに反旗を翻す。
それは単なる復讐ではない。
私たちが、本当の意味での「家族」になるための、避けては通れない儀式なのだ。
翌日の日曜日。
いつものように完璧な身だしなみで、大量の教材を抱えてやってくるであろう義母。
彼女はまだ知らない。
自分が築き上げてきた「完璧な育児」という幻想が、今日、最愛の息子によって粉々に打ち砕かれることを。
嵐の前の静けさの中、私はキッチンでコーヒーを淹れた。香ばしい香りが部屋に広がる。
手はもう震えていなかった。
守るべきものが明確になった人間は、これほどまでに強くなれるのだと、自分でも驚くほど心が凪いでいた。
さあ、お義母様。いらしてください。
今日こそ、あなたの「あなたのため」という呪いを、解かせていただきます。




