第二話 孫の異変と「条件付きの愛」
地獄のような義実家訪問から数日が過ぎた、水曜日の午後だった。
保育園から帰ってきた蓮は、週末の出来事を引きずっているのか、まだどこか元気がなかった。それでも、私の作ったホットケーキを「おいしい」と言って頬張る姿に、私は少しだけ安堵していた。この平穏な時間が、少しずつ蓮の傷を癒やしてくれるはずだ。そう信じていた。
しかし、その願いは唐突に、そして無惨に打ち砕かれた。
ピンポーン。
インターホンの音が鳴る。宅配便だろうかと思いながらモニターを確認した私は、心臓が口から飛び出しそうになるほどの衝撃を受けた。
画面に映っていたのは、完璧にセットされた髪と、威圧感のあるサングラスをかけた義母、相沢悦子の姿だったからだ。アポイントメントなど、もちろんない。
「……嘘でしょ」
震える手で通話ボタンを押す。
「はい」
「開けなさい、私よ。近くまで来たから寄ったの」
「近くまで来たから」という言葉が建前であることは、その重装備を見れば明らかだった。手には大きな紙袋と、有名和菓子店の包みを持っている。私は蓮に「おばあちゃんが来たよ」と告げるのを躊躇ったが、モニターの音を聞きつけて、蓮は既にソファの後ろに隠れるようにして身を固くしていた。
玄関の鍵を開けると、義母は嵐のように入ってきた。
「まあ、玄関に靴が一足出っぱなしじゃない。美咲さん、だらしないわよ。運気が逃げるわ」
挨拶よりも先にダメ出しが飛んでくる。私は奥歯を噛み締めながら「すみません、今片付けます」と頭を下げた。義母はリビングに入ると、部屋の中をぐるりと見渡し、テーブルの上の食べかけのホットケーキを見て眉をひそめた。
「三時のおやつ? 市販のホットケーキミックスかしら。添加物が気になるわね。子供の脳を作るのは食事よ。手作りする手間を惜しんではダメ」
「……はい。次回からは気をつけます」
「次回じゃなくて、今から意識を変えなさい。……あら、蓮くん。そんなところに隠れていないで、いらっしゃい」
義母の声色が変わる。獲物を見つけた猛禽類のような、鋭くも「教育的」な響き。蓮はおずおずとソファの影から出てきた。その顔は蒼白で、視線は床を彷徨っている。
「こんにちは……おばあちゃん」
「声が小さいわね。まあいいわ、今日は特別なお土産を持ってきたのよ」
義母は持参した紙袋から、分厚い冊子を数冊取り出した。表紙には「有名小学校入試対策」「論理的思考力を育てる」といった文字が踊っている。書店で平積みされているような一般的なドリルではなく、専門の幼児教室が作成したような本格的な教材だった。
「これ、知り合いの塾長に頼んで取り寄せたの。蓮くんの年齢なら、このレベルは解けて当たり前なんですって。さあ、ホットケーキなんて食べている場合じゃないわよ。テーブルを片付けて、すぐに始めましょう」
私は思わず割って入った。
「お義母様、蓮はまだ保育園から帰ったばかりで疲れています。それに、まだ五歳です。こんな難しそうな教材は……」
「五歳だからやるのよ」
義母は私の言葉を一蹴した。
「脳のゴールデンエイジは六歳まで。今、負荷をかけずにいつやるの? あなたが甘やかすから、先日のように挨拶もできない子になるのよ。洋介もこの時期から英才教育を始めたわ。だから一流大学に入れたの。感謝しなさい」
「ですが……」
「美咲さん、あなた自分の学歴にコンプレックスがあるからって、息子の可能性まで潰す気? 母親の無知は罪よ」
その言葉に、私は何も言い返せなくなった。私の学歴は中堅私立大学卒だ。旧帝大卒の夫や義母とは比べ物にならない。それを持ち出されると、ぐうの音も出ないのだ。「学歴=人間性」ではないと頭では分かっていても、圧倒的な「成功体験」を持つ義母の前では、それが絶対的な正義として立ちはだかる。
結局、テーブルの上は片付けられ、蓮はダイニングチェアに座らされた。足が床につかないため、義母が持参した足置き台がセットされる。準備の良さが恐ろしい。
「さあ、第一問。図形の問題よ。この展開図を組み立てた時、向かい合う面に来る模様はどれ?」
義母がストップウォッチを押した。チッチッチッという音が、静かなリビングに響く。蓮は鉛筆を握りしめ、問題用紙を睨んでいるが、明らかに意味を理解できていないようだった。立体図形の問題など、まだ教えたこともない。
「……わかんない」
「わかんない、じゃありません。考えなさい。頭の中に箱を作るの。イメージして」
義母の声が厳しさを増す。蓮の小さな手が震え始めた。鉛筆の芯が紙に押し付けられ、黒い点を作る。
「蓮くん、集中力が足りないわよ。ほら、よそ見しない。あと三十秒」
「うぅ……」
蓮の目から涙が溢れそうになる。私は居ても立ってもいられず、キッチンのカウンター越しに声をかけた。
「お義母様、まだ習っていない概念は難しいと思います。私が図を書いて説明してからでは……」
「答えを教えるのが教育じゃないわ。自分で気づかせるの。黙っていなさい」
義母は私を一瞥もしない。
結局、制限時間が過ぎ、蓮は答えを書くことができなかった。
「ブブー。残念でした。こんな簡単な問題もできないなんて、おばあちゃんガッカリだわ」
義母は大げさにため息をついて見せた。その演技がかった失望の表現が、どれほど子供の心を傷つけるか、この人は分かっていないのだろうか。
「洋介はね、これくらいパパッと解いたわよ。蓮くん、パパの子なのにどうしてできないのかしら? ママに似ちゃったのかなあ」
冗談めかした口調だが、その言葉には明らかな悪意が含まれていた。蓮は唇を噛み締め、涙をこらえながら俯いている。
「できない子は恥ずかしいわよ。小学校に入って、みんなができることが蓮くんだけできなかったら、お友達に笑われるわよ。それでもいいの?」
「……やだ」
「だったら頑張りなさい。次は計算問題よ。間違えたらペナルティとして、おやつは抜きにします」
拷問のような時間が続いた。
義母が帰ったのは、あたりが暗くなり始めた午後六時過ぎだった。「また来週、進み具合を見に来るわ」という恐怖の予告を残して。
嵐が去った後のリビングは、死んだように静まり返っていた。
蓮はソファで膝を抱え、テレビのアニメを眺めていた。いつもなら主題歌に合わせて歌うのに、今日は微動だにしない。
「蓮、ご飯にしようか。今日はハンバーグだよ」
努めて明るい声で話しかける。蓮の大好物だ。いつもなら「やったー!」と飛び跳ねるはずのメニュー。
しかし、蓮はゆっくりと顔を上げただけだった。
「……うん」
その時だった。
「ケッ、ケッ」
蓮の喉から、妙な音が漏れた。咳払いとも違う、空気を無理やり押し出すような音。そして、目をパチパチパチパチと高速で瞬きさせた。
先日の車内でも見せた仕草だ。だが、今日は頻度が違う。数秒おきに、強く目を瞑っては開ける動作を繰り返している。顔の筋肉が引きつっているようにも見えた。
「蓮? 目、痛いの?」
心配になって覗き込むと、蓮は「ううん」と首を横に振った。しかし、その直後にまた「ケッ」と喉を鳴らし、肩をビクつかせた。
明らかにチック症の症状だ。ストレスが限界を超えている。
私の背筋に冷たいものが走った。義母の「教育」が、蓮を壊している。確信に変わった瞬間だった。
夕食の席でも、蓮の食欲はなかった。ハンバーグを半分も残し、箸を置いてしまった。
そして、お風呂上がりの寝室でのことだ。
布団に入った蓮に絵本を読んであげようとすると、蓮が私のパジャマの袖をぎゅっと掴んできた。
「……ママ」
「なぁに?」
「僕、バカだから……ママ、いなくなっちゃう?」
心臓が止まるかと思った。
絵本を持つ手が震え、取り落としそうになる。
「え……? 何言ってるの、蓮。ママがいなくなるわけないじゃない。ずっと一緒だよ」
「でも……」
蓮は瞳に涙を溜め、ポロポロと泣き出した。その小さな身体が、恐怖で小刻みに震えている。
「おばあちゃんが言ったの」
「えっ?」
「トイレに行った時……おばあちゃんが、『できない子はママに嫌われるよ』って。『パパみたいな立派な人にならないと、ママは蓮くんを捨てて出て行っちゃうかもしれないわね』って……」
頭の中で、何かがプツリと切れる音がした。
全身の血が逆流し、視界が赤く染まるほどの怒りが湧き上がってきた。
義母は、私が席を外していたわずかな隙に、そんな呪いの言葉を孫に吐いていたのか。
「教育」という名の虐待。いや、これは精神的な暴力だ。蓮の、母親に対する絶対的な安心感を人質に取り、恐怖で支配しようとしたのだ。
「そんなことない! 絶対にない!」
私は蓮を力いっぱい抱きしめた。折れてしまいそうなほど細い身体。この子がどれほどの恐怖と戦っていたのかと思うと、涙が止まらなかった。
「ママは蓮くんが何にもできなくても大好きだよ。テストで零点でも、かけっこでビリでも、蓮くんはママの宝物だよ。絶対に捨てたりしない。絶対に嫌いになったりしない」
「ほんと……? 嘘じゃない?」
「嘘じゃないよ。神様に誓うよ。だから、もう心配しないで」
蓮は私の胸に顔を埋め、「うわぁぁぁん」と声を上げて泣き出した。今まで抑え込んでいた感情が決壊したようだった。私は蓮の背中を撫でながら、心の中で固く誓った。
もう許さない。
義母の顔色を伺うのは終わりだ。夫の立場も、家の格式も関係ない。この子を守れるのは私しかいないのだ。
その夜、夫の洋介が帰宅したのは深夜近くだった。
蓮は泣き疲れて眠っていたが、時折寝言で「ごめんなさい」と呟き、身体をビクつかせていた。その姿を見るたびに、私の胸は張り裂けそうになった。
リビングで残業帰りの夫に食事を出しながら、私は今日起きたこと、そして蓮のチック症状について話した。感情的にならないよう、努めて冷静に事実だけを伝えたつもりだった。
「……チック? 蓮が?」
洋介はビールを飲みながら、少し驚いたような顔をした。
「ええ。頻繁に瞬きをして、喉を鳴らすの。明らかにストレスが原因よ。今日、お義母様が来て、難しいドリルを無理やりやらせたから……」
「母さんが来たのか。また熱心だなあ」
洋介の反応は、私の深刻さとは程遠い、どこか他人事のようなものだった。
「感心してる場合じゃないわ。蓮は『できないとママに捨てられる』って脅されたのよ? お義母様にそう言われたって泣いてたわ。五歳の子供に言うこと?」
私が語気を強めると、洋介は困ったように眉を下げた。
「脅したって……それは大げさだよ美咲。母さんのことだから、蓮のやる気を引き出そうとして、ちょっと発破をかけたつもりなんだろ? 言葉の綾だよ」
「言葉の綾で、あんなに震える? 実際にチックが出てるのよ?」
「子供なんてすぐ環境に影響されるからさ。一時的なもんだろ。それに、母さんのやり方は確かに厳しいけど、実績があるからなぁ。俺だって、小さい頃は嫌だったけど、結果的には感謝してるし」
まただ。「実績」と「感謝」。この二つの言葉が、夫の思考を停止させている。
彼は目の前で苦しんでいる息子よりも、過去の自分と母親の成功体験を信じようとしている。いや、信じなければ自分の過去を否定することになるから、無意識に義母を擁護しているのだ。
「洋介、あなたは強かったかもしれない。でも蓮は違う人間なの。このままじゃ蓮が壊れちゃう。お義母様に、しばらく来ないように言って。教育方針にも口を出さないように伝えて」
私は必死に訴えた。しかし、洋介はため息をつき、面倒くさそうに首を振った。
「そんなこと言えるわけないだろ。母さんは良かれと思ってやってるんだ。孫が可愛くて仕方ないんだよ。それを拒絶したら、角が立つし、親父の遺産の話だってあるし……まあ、俺から『少し手加減してやって』くらいは言っておくからさ。な? そんなに目くじら立てるなよ」
夫の言葉を聞いた瞬間、私の中で夫への期待が完全に消滅した。
この人は、守ってくれない。
「親父の遺産」「角が立つ」。そんな大人の事情を優先して、息子のSOSを見殺しにするつもりだ。優しい夫だと思っていたけれど、それは単に「事なかれ主義」で、誰とも戦わないだけだったのだ。
「……分かったわ」
私は静かに言った。これ以上、彼にすがっても無駄だ。
「え、分かってくれた? よかったー。美咲なら理解してくれると思ってたよ」
洋介はホッとしたようにビールを煽り、テレビのリモコンに手を伸ばした。その能天気な横顔を見ながら、私の心は冷たく冷え切っていた。
夫が頼りにならないなら、私が動くしかない。
感情論で訴えても「甘え」だと切り捨てられるなら、誰もが認めざるを得ない「客観的な事実」と「専門家の権威」を用意してやる。義母が一番弱いのは、自分より上の権威と、否定しようのないデータだ。
私は寝室に戻ると、スマホを取り出し、検索窓に文字を打ち込んだ。
『児童心理 カウンセリング チック症 高圧的な祖母』
いくつもの検索結果が表示される中で、一件のクリニックが目に止まった。
「真壁こどもクリニック」。スクールカウンセラーも務める女性医師で、育児ストレスや家族関係の問題に定評があるという口コミが多数あった。
『完璧主義の育児が子供を追い詰める』
『条件付きの愛情の危険性』
サイトに書かれた記事のタイトルは、まさに今の私たちの状況そのものだった。
私は迷わず予約フォームを開いた。最短で予約が取れるのは三日後。
夫には内緒だ。相談すれば止められるに決まっている。「母さんを悪者にするな」と。
だから、事後報告でいい。診断書という武器を手に入れてから、突きつけてやる。
「待っててね、蓮」
スマホの画面が暗闇の中で青白く光る。隣で眠る蓮の寝顔を見つめながら、私は強く拳を握りしめた。
義母の「完璧な城」を崩すための、最初の一手を打つ。
これは、ただの嫁姑喧嘩ではない。息子の命と尊厳を守るための、私の聖戦なのだ。
翌朝、蓮のまぶたは腫れぼったかったが、私は努めて笑顔で送り出した。そして、義母から届いた「今週末の勉強会の予定」というLINEを、既読スルーした。
戦いの火蓋は、静かに、しかし確実に切って落とされた。




