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「あなたのため」という呪い。完璧主義の義母が『甘い母親』と私を蔑んだ結果、孫の無言の叫びに打ちのめされるまで  作者: jnkjnk


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第一話 完璧な城塞と、許されない涙

休日の朝だというのに、私の胃は鉛を飲み込んだように重かった。車窓を流れる景色が、都心のビル群から徐々に緑の多い閑静な住宅街へと変わっていくにつれて、その重みは増していく。運転席でハンドルを握る夫の相沢洋介は、助手席の私や後部座席の息子の様子になど気づきもせず、鼻歌交じりに軽快に車を走らせていた。


「いやあ、久しぶりだなあ実家。母さんの手料理、楽しみだよな美咲?」


信号待ちで停車したタイミングで、洋介が屈託のない笑顔を向けてくる。私はこわばりそうになる頬の筋肉を必死に持ち上げ、精一杯の愛想笑いを返した。


「そうね。お義母様のお料理、いつも手が込んでいて美味しいものね」


嘘ではない。義母、相沢悦子の料理は確かに美味しい。料亭で出てくるような見た目の美しさ、栄養バランス、素材へのこだわり。どれをとっても一級品だ。けれど、その完璧な料理を味わう場所が、私にとっては針のむしろ以外の何物でもないことを、夫は理解していなかった。


バックミラー越しに後部座席を見る。チャイルドシートに座っている五歳の息子、れんは、お気に入りの恐竜の図鑑を膝に乗せているものの、ページをめくろうともせず、じっと窓の外を眺めていた。いつもなら「見て見て!」と大はしゃぎするはずの消防署の前を通っても、蓮は無反応だった。その小さな横顔に影が落ちているのを見て、私の胸が締め付けられる。


「蓮、大丈夫? 気分悪くない?」


私が声をかけると、蓮はビクリと肩を震わせ、小さな声で「うん」とだけ答えた。その声には覇気がなく、まるで叱られるのを待っている子供のように怯えている。


「蓮も楽しみだよな? おばあちゃん、蓮のために新しいドリル買ったって張り切ってたぞ」


洋介が能天気に言うと、蓮の身体が明らかに硬直したのが分かった。ドリル。その単語を聞いただけで、五歳の子供がこれほどまでに萎縮してしまうなんて、普通ではない。けれど洋介にはそれが「教育熱心な祖母の愛情」にしか見えていないのだ。


車は緩やかな坂道を登りきり、地区でも一際大きな門構えの家の前で止まった。相沢家。かつて夫の父が建て、今は未亡人となった義母が一人で守っている城塞だ。門から玄関までのアプローチには塵一つ落ちておらず、植え込みの植栽は定規で測ったかのように美しく刈り揃えられている。その完璧な整然さが、私には「一ミリの乱れも許さない」という無言の圧力のように感じられた。


車を降りて、蓮の手を引く。蓮の手のひらはじっとりと汗ばみ、冷たくなっていた。


「大丈夫だよ、ママが一緒だからね」


そう耳元で囁き、私は自分自身を鼓舞するように蓮の手を握り返した。インターホンを押す前に、洋介が自分のシャツの襟を正し、髪を撫でつける。彼にとっても、ここは安らげる実家というよりは、背筋を伸ばさなければならない場所なのだ。そのことに彼自身は気づいていないようだけれど。


チャイムを鳴らすと、間髪入れずに「はい」という凛とした声が響き、重厚な玄関ドアが開いた。


「いらっしゃい。少し遅かったわね。予定より五分過ぎているわよ」


現れたのは、六十二歳とは思えない若々しさを保った義母、悦子だった。シミ一つない肌に薄く化粧を施し、仕立ての良い紺色のワンピースを着こなしている。その立ち姿は隙がなく、まるでどこかの企業の役員のようだ。


「ごめん母さん、道が少し混んでて」


洋介が頭をかきながら言い訳をするが、義母は冷ややかな視線を彼に向けたあと、すぐに私へとその矛先を変えた。


「時間は有限よ。道路状況くらい予測して早めに出るのが大人の嗜みでしょう。美咲さん、あなたがちゃんと洋介の尻を叩いて管理しないとダメじゃないの」


玄関先での第一声がこれだ。私は「申し訳ありません」と深く頭を下げた。反論など許されない。この家では、義母の言葉が法律であり、正義なのだから。


「さあ、あがって。……あら、蓮くん?」


義母の視線が、私の足元に隠れるようにしている蓮に注がれる。その瞬間、空気が張り詰めた。


「隠れていないで、ちゃんとご挨拶なさい。おばあちゃん、蓮くんがそんな弱虫に育った覚えはないわよ」


蓮はおずおずと私の後ろから出てくると、蚊の鳴くような声で言った。


「……こんにちは」

「聞こえません」


義母の声が鋭く響く。怒鳴っているわけではない。静かで、冷徹で、有無を言わせない響きだ。


「男の子でしょう? 相手の目を見て、お腹から声を出しなさい。もう五歳よ? 洋介が五歳の頃は、もっと堂々と挨拶ができていたわ。やり直し」


蓮が泣きそうな顔で私を見上げる。私は助け舟を出そうと口を開いた。


「お義母様、蓮は少し車酔いしてしまったみたいで……」

「美咲さん」


義母は私の方を見ることなく、蓮を見つめたまま言った。


「あなたが口を挟むから、この子がいつまで経っても自立しないのよ。子供の機嫌を取るのが親の役目じゃありません。社会に出ても恥ずかしくない人間に育て上げるのが親の責任でしょう? 黙って見ていなさい」


その言葉に、私は唇を噛んで押し黙るしかなかった。洋介もまた、気まずそうに視線を逸らしている。蓮は小さな拳を握りしめ、震える声で叫ぶように言った。


「こ、こんにちは!」

「……まあ、及第点ね。姿勢が少し猫背だったけれど、次は気をつけなさい。さあ、靴を揃えて、手洗いとうがいを完璧にしてきなさい。バイ菌を家に持ち込まないようにね」


義母はそう言って背を向け、リビングへと歩き出した。蓮は安堵したように大きく息を吐き、私の腰にしがみついた。その震えを感じながら、私は今日という一日がどれほど長く苦しいものになるかを悟り、暗い絶望感に襲われていた。


リビングルームは、モデルルームのように整頓されていた。雑誌一冊、リモコン一つ出しっぱなしになっていない。埃を見つける方が難しいほどの清潔さだが、そこには生活の匂いという温かみが欠けていた。


昼食の時間は、さらなる試練の場だった。テーブルには色とりどりの和食が並べられている。煮物、焼き魚、和え物。どれも素晴らしい出来栄えだ。しかし、箸をつける前から義母の指導が始まる。


「蓮くん、お箸の持ち方がなっていません」


蓮が一口目を食べようとした瞬間、義母の鋭い指摘が飛んだ。


「人差し指の位置が少し高いわ。もっと下。そう、そこ。一度置いてもっかい持ち直して」


蓮は言われた通りにするが、緊張で指先が震え、上手く箸を使えない。


「違うわ。見て、おばあちゃんの手を。こうよ。どうしてできないのかしら? 先月も教えたはずよね。美咲さん、家でちゃんと練習させているの?」


矛先が私に向く。私は箸を置き、背筋を伸ばして答えた。


「はい、家でも注意はしているんですが……まだ手が小さいので、無理に矯正すると食事が楽しくなくなってしまうかと思って、少しずつ……」

「楽しくない?」


義母は鼻で笑った。


「食事は楽しみである以前に、礼儀作法を学ぶ場ですよ。変な持ち方のまま大人になったら、恥をかくのはこの子なのよ。あなたは蓮くんが笑っていればそれでいいと思っているようだけれど、それは『優しさ』じゃなくて『怠慢』よ」


怠慢。その言葉が胸に突き刺さる。


「洋介を見てごらんなさい。どこに出しても恥ずかしくない美しい所作でしょう? 私が厳しく躾けたからよ。あの時、泣こうが喚こうが妥協しなかったから、今の彼があるの。感謝こそされ、恨まれたことなんて一度もないわ。ねえ、洋介?」


水を向けられた洋介は、口の中のものを飲み込んでから、慌てて頷いた。


「ああ、うん。そうだね。接待の席なんかでマナーを褒められると、母さんに感謝してるよ。蓮も、今は大変かもしれないけど、将来きっと役に立つから。な、頑張ろうな」


夫の言葉に、義母は満足げに微笑み、蓮は俯いてしまった。目の前のご馳走が、砂のように味気なく感じられる。蓮は煮物の人参を口に運んだが、飲み込むのに苦労しているようだった。喉が詰まっているのだ。ストレスで。


「残さず食べなさいよ。一粒のお米にも感謝の気持ちを持ちなさい」


義母の監視下で、私たちは沈黙のまま食事を続けた。食器が触れ合う音だけが、不気味に響く食卓だった。


食後、私が片付けを手伝おうとキッチンに立つと、義母は「そこは触らないで」と制止した。


「洗い物の手順があるのよ。美咲さんのやり方だと水滴が残るから、私がやるわ。あなたは座っていなさい。……ああ、そうそう。蓮くん、持ってきたドリルを出しなさい」


蓮がリビングの隅で小さくなっているのを見て、義母が言った。食休みも与えられないまま、蓮は通園バッグからドリルを取り出す。それは五歳児が解くには少し難易度の高い、小学校受験用の問題集だった。


「さあ、前回の続きからよ。制限時間は十分。全問正解できなければ、おやつ抜きね」


キッチンタイマーをセットする義母。チッチッチッという無機質な音が、焦燥感を煽る。蓮は鉛筆を握りしめ、必死に問題に向かうが、プレッシャーからか簡単な計算ミスをしてしまった。


「ブブー。違うわね。よく考えなさい。頭を使わないと、ただの作業よ」


義母が赤ペンで容赦なくバツをつける。その赤いインクが、まるで蓮の心を傷つける刃物のように見えた。


「お義母様、少し休憩させてあげてはどうでしょうか。食後すぐですし……」


見かねて私が言うと、義母は眼鏡の奥の瞳を光らせて私を睨んだ。


「集中力を養っている最中です。邪魔をしないでちょうだい。あなたがそうやって甘やかすから、蓮くんはすぐに諦める子になるのよ。『できない』じゃなくて『やる』の。限界を超える経験が人を強くするんです」


限界を超える。五歳の子供に求めることだろうか。しかし、夫はスマホでニュースをチェックしていて、我関せずを決め込んでいる。私は拳を握りしめ、黙るしかなかった。


一時間の勉強タイムが終わり、ようやく解放された蓮は、魂が抜けたような顔をしていた。


「さあ、気分転換に庭に出ましょうか。外の空気を吸えばシャキッとするわよ」


義母の提案で、私たちは庭へ出た。美しく手入れされた芝生の庭だ。蓮はようやく自由になれた開放感からか、少しだけ表情を明るくして走り出した。


「走っちゃダメよ、転ぶわよ」


義母の声が飛ぶ。しかし、その直後だった。芝生の目地に足を取られた蓮が、バランスを崩して派手に転倒したのだ。


「うわぁん!」


蓮が泣き声を上げる。膝を擦りむいたのか、血が滲んでいるのが見えた。私は反射的に駆け寄ろうとした。


「蓮!」


しかし、私の前に義母の手が立ちはだかった。


「待ちなさい」

「え……でも、怪我をしてます! 血が出て……」

「放っておきなさい」


義母の声は冷酷なまでに落ち着いていた。


「自分で立ち上がらせるのよ。転んだくらいで親が飛んでくると思ったら大間違いだと教えなきゃ。痛みを知って、次はどうすれば転ばないかを学ばせるの。これが教育よ」


蓮は地面に座り込み、涙を流しながら私を見ている。「ママ、助けて」と目で訴えている。それなのに、私は義母に阻まれて動けない。


「お義母様、どいてください! まだ五歳なんですよ!? 手当てをして安心させるのが先です!」


私が声を荒らげると、義母は信じられないものを見るような目で私を見下ろした。


「……これだから、庶民の育児は嫌なのよ。感情論で子供をダメにする。いい? 洋介が五歳の時、私は一度も手を貸さなかったわ。だから彼は、困難に直面しても一人で解決できる強い男になったの。美咲さん、あなたは蓮くんを、一生親のスカートの裾を掴んで離さないような情けない男にしたいの?」

「それは……違います。でも、今は……」

「違わないわ。あなたのやっていることは、子供の成長の機会を奪っているだけ。虐待と同じよ」


虐待。その言葉に頭が真っ白になった。愛して、守ろうとしている私の行為が、虐待だと言われるなんて。


私が呆然としている間に、蓮は泣き止まないまま、よろよろと自力で立ち上がった。膝から血を流し、土で汚れた姿で。義母はそれを見て、満足そうに頷いた。


「ほら、見なさい。立てたでしょう? 偉いわね、蓮くん。泣かないの。男の子は涙を見せるものじゃないわ」


義母は蓮に歩み寄り、ハンカチで乱暴に涙を拭った。抱きしめることはしなかった。ただ、「よくやった」と頭を撫でただけだ。蓮は、感情の消えた虚ろな目で義母を見つめ、それから私を見た。その目には、私への失望が浮かんでいるように見えた。「どうして助けてくれなかったの?」という無言の問いかけ。


私の心臓が、早鐘のように打ち鳴らされた。私は母親失格なのだろうか。義母の言う通り、私の「優しさ」は、蓮を弱くしている毒なのだろうか。


「洋介、絆創膏を持ってきて頂戴。処置はしてあげるわ」


義母の指示で、夫が家の中へ走る。私は立ち尽くしたまま、動くことができなかった。完璧な義母の理論と、成功例として存在する夫。その巨大な実績の前に、私の「共感する育児」はあまりにも無力で、頼りなく思えた。


夕方、逃げるようにして義実家を後にした。車の中の空気は、行きよりもさらに重く澱んでいた。


「母さん、今日も張り切ってたなあ。蓮、勉強見てもらえてよかったな」


ハンドルを握りながら洋介が言った。悪気はない。本気でそう思っているのだ。私は後部座席を振り返ることもできず、ただ膝の上で震える手を握りしめていた。


「……美咲、なんか怒ってる?」


夫の問いかけに、私は小さく首を横に振るのが精一杯だった。怒っているのではない。悲しいのだ。そして、何より悔しい。


信号待ちで車が止まった時、ふと後部座席の蓮が咳き込んだような音を立てた。


「ケッ、ケッ」


乾いた、奇妙な音だ。風邪だろうか。


「蓮、大丈夫?」


振り返ると、蓮は窓の外を見つめたまま、一定のリズムで激しく瞬きを繰り返していた。パチパチパチパチ。その目は充血し、異様な速さで開閉を繰り返している。


「蓮……?」


私の呼びかけにも反応せず、蓮は「ケッ」と喉を鳴らし、また瞬きをした。その姿を見た瞬間、私の背筋に冷たいものが走った。


ただの風邪じゃない。ただの疲れじゃない。

私の可愛い蓮が、壊れかけている。


その事実に気づいた時、義母への恐怖や自分の自信のなさといった感情が一気に吹き飛び、代わりに焼けるような焦燥感が胸の奥底から湧き上がってきた。


(私が守らなきゃ。誰が何と言おうと、私が……!)


しかし、具体的にどうすればいいのか、この時の私にはまだ分かっていなかった。ただ、高速道路を走る車の振動と共に、蓮の小さなSOSのサインだけが、私の心に深く、重く刻み込まれていた。


これが、私たちが「完璧な義母」という呪いと戦うことになる、長く苦しい日々の始まりだった。

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