第九話 飢えた躯
冒険者ギルドまで足を運んだジアとユヒナ。
扉の前に立った二人の鼻をつついたのは、むせ返るような血の臭いだった。
微かに漂う死臭が鼻腔を刺す。果実が腐敗して崩れていくような、ひどく血生臭い香りだった。
「ジア、これ……」
「ギルドで喧嘩なんて珍しくもねぇだろ。多少荒れりゃ、出血沙汰にもなるだろうよ」
怯えるユヒナを慰めるように、ジアは努めて明るい声で言う。
実際、ジアの言葉は全くの的外れというわけでもない。
冒険者とは基本的に荒くれ者。殴り合いの喧嘩などは日常茶飯事だ。口論が発展して、ギルド内で流血沙汰になることも、十分あり得る話だ。
だとしても、異常だった。
血の臭いがギルドの外にまで漂ってくるほどの騒動など、滅多にあったものではない。
「大丈夫かな……?」
扉の取手を握るユヒナの手は震えていた。
その恐怖を紛らわせるように、ジアは楽天的な言葉を紡ぐ。
「大丈夫だよ。今日は色々あったからな、美味いものでも食って帰ろう」
大丈夫。
きっと扉の向こうでは、喧嘩した数人の冒険者が担架に乗せられている。急なトラブルに受付嬢が忙しそうにしていたり、ユヒナが治癒魔術での協力を求められたりするのだ。
害獣退治の報酬を受け取って、化猿のことも報告する。もしかすると、化猿討伐の臨時報酬が出るかもしれない。その金で何か食べようと話している内に、またリーニア達に絡まれたりする。
扉の先に広がっているのは、そんないつもの日常に違いない。
ジアは扉を握るユヒナの手に、自らの右手を重ねる。
「開けるぞ」
そうして、開いた扉。
ギィー、と音を立てて開く木製の扉は、ギルド内の惨状を曝け出す。
ジア達が思い描いた日常風景など幻想に過ぎないと、彼らを嘲笑うようにして。
「やっと来たか。ジア・エルマ、ユヒナ・アマノミヤ」
そこに広がっていたのは血の海。
床は溢れ出した血液で真っ赤に染まり、あちこちに人の死体が転がっている。
生首。切断された手足。斃れ伏す骸には、腹や胸に赤黒い空洞が空いている。そこから溢れ出すは血。寂れた屋内を赤く染める、血であった
カウンターには、受付嬢の死体が乗っかっていた。首筋の辺りから、夥しい量の血を零し続ける受付嬢は、既に命尽きているように見える。
描き出された地獄絵図。その中央に立っていたのは、黒鉄の騎士。
全身を黒い鎧で包み、頭にも黒鉄の兜を被った大男。黒い鎧は返り血を浴び、赤と黒の飛沫模様を映し出す。左手には盾を持ち、右手の剣は切っ先が足下の死体に刺さったままだ。
「リーニア……?」
黒鉄の騎士が剣で貫いているのは、金髪の少女。
彼女の得物である片手剣は、半ばから折れて、床に転がっていた。
床に転がっていたのは、それだけではない。
眼鏡の青年、ローブの少女。リーニアの仲間だった者達も、死体と化して床に伏している。
「それはこの少女の名前か? 見ての通り、既に殺した。依頼主のオーダーでな」
今朝の丁寧な口調とは打って変わって、冷徹な態度でそう言うと、騎士はリーニアの胸から剣を引き抜く。
破裂した井戸のように、彼女の体から血が噴き上がる。
赤い雨を浴びる騎士は、引き抜いた剣を今度はジアの方へと向ける。
「お前も殺すように言われている。ジア・エルマ」
「そうかよ。オレも決めたぜ」
腹の底から湧き上がる激情に任せて、ジアは一歩踏み出す。
力任せに踏み抜いたギルドの床は微かに軋んだ。
「テメェは殺す」
***
サーガハルト王国。
大陸最大の軍事国家であるその国が抱える騎士団は、無論大陸最高の練度と規模を誇る。
世界最強の戦闘組織は王立騎士団と呼ばれ、同盟国には英雄として讃えられ、敵国には脅威として恐れられた。
その男もまた、誉れ高き王立騎士団の一員であった。
二級騎士ボーデン・レールゲン。
その肩書の凄まじさは、サーガハルトに暮らす者ならば、誰もが理解する所だ。
一級騎士が僅か数名しかいない怪物であることを思えば、王立騎士団での事実上の最高ランクは準一級騎士。それに次ぐ二級騎士は、王立騎士団の主力だ。
戦場では黒鉄の鎧を纏い、戦果を上げた。数多の敵兵を蹴散らした。金も名声も手に入れた。
だというのに、満たされない。
胸の内に巣食う何かが、空腹感を訴えている。
――――もっと
何かが足りない。
何百人の敵兵を殺しても、どれだけ痛快な勝利を手にしても、胸に蟠る空腹感が消えない
――――もっと
サーガハルトの王立騎士団。
世界最強の騎士団。与えられる戦場も大陸最高レベルに違いない。
――――もっとだ
それなのに、満ち足りない
金は金属の塊にしか見えず、酒は水のようにしか感じられない。他者からの称賛も、寄って来る女も、 彼の空腹を満たしはしなかった。
無味無臭な勝ち戦の繰り返し。
その果てに、男は出会う。
極上の一皿に。
――――ありがとうございました
それは、毎日のように行われる王立騎士団の修練でのことだった。
模擬戦でボーデンを打ち負かした少年は、荒れた息を整えながら、そう言った。
模擬戦後のありきたりな感謝の一言。しかし、見下ろされて受けるその言葉は、鮮烈な衝撃を以てボーデンの鼓膜を叩いた。
少年はボーデンよりもずっと若く、体格は一回りか二回りも小さい。魔力量にも乏しく、劇的に優れた剣技を持つわけでもない。
何故騎士を志したのか不思議なほどに非才な身でありながら、少年は僅かな手札を駆使し、見事ボーデンを倒して見せた。
――――ああ、これだ
胸が高鳴った。血沸き肉躍った。全身が歓喜に打ち震えていた。
それこそが、ボーデンの求めていたもの。国家としての侵略にも戦争にも興味は無い。
ただ、挑みたかった。
自分の足で辿り着ける最高到達点に。かつて誰も見たことがない高みに。
命すらも擲って挑み、確かめたかった。自分は目の前の者に勝てるのか。自分の敵方、どちらが武人として優れているのか。
そう、この躰は、戦うために在るのだから。
以下、王立騎士団の報告書より抜粋。
準一級騎士シェイル・ドラットへの決闘行為、及び決闘に応じさせるために脅迫行為を行ったとして、ボーデン・レールゲンから二級騎士の称号を剥奪。
今後一切、王立騎士団への関与を禁じる。
また、シェイル・ドラットへの処遇は保留。シェイル・ドラットの一級騎士昇格試験の受験可否も保留とする。




