第七話 美しさに攫われて
僕が生まれたのは、アメツチの皇室だった。
父上と母上は公務で忙しく、いつも僕の面倒を見てくれたのは姉上だった。
――――こら、結雛。いつまでもウジウジしてないの。男の子なんだから、しゃんとしなきゃ
姉上は気が強く、気弱な僕はよく怒られていた気がする。
姉上は僕よりも二歳年上で、当然僕よりも背が高かった。僕よりも頭が良くて、僕よりも運動ができて、僕よりもしっかり者。
小さい頃の僕は、いつも姉上の背中に隠れているような子供だった。
いや、「だった」なんて言えはしないだろうか。十六歳になった今でも、僕はジアの背中に隠れてばかりだから。
ともかく、僕はどんくさくてダメなやつで、いつも姉上に泣きついている臆病者。
――――結雛ー、何やってるのー? 早く行くわよー
そんな僕の手を引いてくれる姉上は、僕にとって憧れの存在だった。
姉上の優秀さにはみんなが一目置いていた。
頭脳明晰で容姿端麗。芸事の方面でも才能の片鱗を見せ、大人にも気後れしない心の持ち主。
僕達には年の離れた兄がいて、アマノミヤの後継は彼だと噂されていたけれど、姉上こそがアマノミヤの後継に相応しいのではと言う者もいた。
そんな風に周りから認められ、必要とされている姉上とは違って、僕はパッとしなかった。
勉強も武芸も苦手だし、芸事も上手にできない。大人どころか、同年代の子供にすら怖気づく。
そんな僕が唯一褒められたのは、容姿だった。
まるで天女の生まれ変わり。傾国の姫君もかくやの美貌。遠目に見れば、女子にしか見えぬと。
――――もう、何よあいつら。結雛は男の子なのに、好き勝手言っちゃって。結雛も少しは言い返さないと、ナメられるわよ
姉上はそう言っていたけれど、僕は悪い気はしなかった。
だって、僕が人より優れていることなんて、それくらいしか無かったから。
何をやっても人並以下の僕にとって、「美しい」という言葉は甘い果実のようだった。
たったそれだけの、世辞かもしれぬ戯言が、僕にとっては途方も無い快楽だったのだ。
ある日、母上が身籠ったとの報を聞いた。
当時末っ子だった僕にとって、それは青天の霹靂だった。
兄になる。正直言って不安だった。
自分が姉上のように、誰かを導けるのだろうか。
そんなの無理だと思ったし、不安と心配は絶えなかった。
――――結雛もお兄ちゃんになるんだから。頑張らなきゃね
でも、だからこそ、頑張らないといけないと思った。
姉上のおかげで、そう思えた。
より力を入れて勉学に励んだ。武芸の稽古にも一生懸命取り組んだ。できるだけ堂々と振舞うようにした。
そんな風に日々を暮らしている内に、母上は妹を出産した。
カヤと名付けられた妹はすくすくと育ち、すぐに僕の背を追い越した。
カヤは姉上に似て優秀だったが、少し変わった子供だった。
子供ながらに物事の道理が分かっているかと思えば、たまに真顔で意味不明なことを言い出す。
勉学には真面目に打ち込むが、芸事には一切の関心を示さず稽古をサボる。そのくせ、陰陽術に関しては並々ならぬ情熱を見せ、めきめきと実力を付けていく。
そんな異質ながらも優秀な妹の前に、僕は――――
――――兄上は姫様のようでございますね。姉上とは大違いでございます
到底、姉上のようにはなれなかった。
自分なりに世話を焼いたつもりではあるが、姉上のようにカヤの前を歩く兄にはなれなかった。
どう足掻いても、僕は姉上のようにはなれないのだと。姉上のように、誰かに認められることも、必要とされることもないのだと。
カヤの言葉は、存分に思い知らせてくれた。
その頃からだろうか、鏡が気になりだしたのは。
時間を見つけては、鏡を見つめるようになった。稽古の合間に、池の水面を覗き込むことも多々あった。
肌は白いだろうか。体は細いだろうか。顔立ちは美しいだろうか。
心配でしかたなかった。これすらも失ってしまったら、僕は空っぽになってしまうから。
僕が誰かに愛されるには、容姿しかないのだから。
そんな僕の心に付け入るように、彼は僕の下にやって来た。
――――お父上の命でお迎えに上がりました。ユヒナ様。是非とも、私と共に来ていただきたい
僕達が住んでいた屋敷の庭に、彼は音も無く降り立った。
山羊の面をつけた、派手な色の着物を着た者。背は高く、体の線は細い。うやうやしく一礼する姿は、流れの芸人のようにも見えた。
その者がカラヤシキと僕に名乗るのは、随分後のことになる。
仮面を着けて顔を隠していること。父上の命だと言うのに、勅書も見せていないこと。そもそも、怪しい人物であること。
そういったことに僕の頭が回るより早く、カラヤシキは致命の一言を口にした。
――――ユヒナ様が必要なのです
そっと、カラヤシキは僕に手を差し伸べた。
その誘惑に耐え切れなかった自分を、僕は生涯憎み、恥じることになる。
どこからともなく現れた都合の良い誰かが、自分を認め必要としてくれる。
そんな浅ましい欲望に、ありもしない絵空事に、手を伸ばしてしまった自分の愚かさを。
――――ダメ結雛! 逃げて!
駆けつけた姉上がそう叫んだ時には、僕はもうカラヤシキの手を取ってしまっていた。
時、既に遅く。
僕は慌ててカラヤシキの手を放そうとしたが、この細腕で大人の拘束から逃れられるわけがなかった。
――――おやおや、もう一匹釣れるとは。男一人で良いと考えていたが……折角だ。貰っていくか
今度は僕が「逃げて」と叫んだ。
けれど、走り出した姉上が止まることはなく、僕を助けようとカラヤシキへと向かって来ていた。
結局、僕と姉上はカラヤシキに捕らわれた。
カラヤシキは陰陽術で生物を持ち運びできるらしく、僕と姉上はその術で港まで運ばれた。
しばらく、極彩色の不思議な空間に閉じ込められていた。あたりはぬるま湯で満ちているのに、不思議と息はできる。まるで、赤子が母親の胎の中で揺蕩っているような心地だった。
僕と姉上がそこから解放されたのは、船の上でのことだった。
カラヤシキが持ち運べるのは生物のみであり、解放された僕達には纏う服さえ無かった。
寒空の下、冬の風に凍えながら、遥か遠くに陸地を見た。
少しずつ小さくなっていくそれが、生まれ育ったアメツチの地だと理解した時の絶望は、筆舌に尽くしがたい。
見知らぬ者に攫われ、身ぐるみ剥がされ、故郷の地が遠くなっていくのを見ているしかない絶望感。
あの絶望感を与えるために、カラヤシキは僕達を船上で解放したのだろう。
僕が絶望に打ちひしがれ泣き喚く中、姉上がどんな顔をしていたか覚えていない。
それから、船は人気の無い海辺に着いた。
そこがエトーニルという地だと知ったのは、ジアに拾われた後のことだ。
船が上陸してすぐ、僕は姉上から引き離され、屋敷の一室に連れ込まれた。
そこから先は、終わりの無い日々。
カラヤシキの計画が何かも知らず、ただ彼の掌の上で、女中の相手をさせられ続ける毎日。
昼はカラヤシキ手ずから陰陽術の手ほどきを受け、夜は名も知らぬ女中に貪られる。
そんな果ての見えない輪廻の中、僕が姉上と顔を合わせる機会は無かった。
死体となった姉上と再会する、その日まで。




