第六話 化猿退治
疾走の勢いを乗せてジアが放った拳は、化猿の顎を打ち据え、その不細工な顔面をのけぞらせる。
完全に顎を捉えた一撃だったが、化猿は右手に握った少女の死体を離すことはなかった。
右手に餌を握ったまま、飛びかかって来た人間をジロリと見下ろす。落下途中のジアと見下ろす化猿の目が合った。
(クソ! 何やってんだ、オレは! 勝てるのか!? この化猿に! チャチな害獣退治しかやったことねぇだろ! こんな騎士団でも苦戦しそうな化け物に、どうやって抗う!?)
化猿の顎を殴打した後、地面に着地したジア。
その規格外の巨躯を間近で見上げ、ジアは直前の決断を後悔する。
額に冷や汗を浮かべるジアを見下す化猿の顔は、獲物を前に舌なめずりをする捕食者そのもの。
愚かにも自分から飛び込んで来た餌を、どう調理しようか考えているようにも見えた。
(どうする!? もう一回殴るか!? 殴り殺せるのか!? こんなデカい相手! どこを狙えば良い!? 関節? こいつの関節って人間と同じなのか? そもそも、オレはこいつの間合いに――――)
ジアに全力戦闘の経験はほとんど無い。
秘めたポテンシャルの高さ故、ギルドで請け負う害獣退治などの仕事は、軽く流すだけで達成できた。
故に、迷う。一瞬一秒が命取りとなるギリギリの戦闘などしたことがない故に、鈍った判断力がジアの動きを止める。
隙を晒したジアの頭上から、化猿の拳が叩きつけられる。
ただ拳を振り下ろすだけの無造作な動き。
しかし、化猿の桁外れの膂力と体躯は、それをシンプルかつ凶悪な超暴力へと昇華する。
「づ、ウ――――ッ!」
ジアは両腕を交差させ、化猿の一撃を受ける。
頭上から迫り来る拳の一撃は、その重量と威力でジアを圧し潰さんと迫る。
巨大な大岩を支えているような圧力。
今にも圧し潰されそうな重圧に、ジアの肉体は軋みを上げる。
(何、考えてんだ、オレは)
重圧。痛痒。緊張。
本来、人を害するはずのそれは、かえってジアを冷静にさせていた。
まるで、穏やかに暮らす人としての状態より、死と隣り合わせの殺し合いに身を置く方が、自然であるかのように。
(インテリ気取って、どこを狙うかなんて考えてる場合か。オレが持ってるカードは三枚。殴る、避ける、受ける。それだけだろ)
微かに、けれど確かに、ジアは両腕で化猿の拳を押し返す。
両脚で地面を踏ん張り、左腕を前に押し出し、ジアは化猿の拳を押し返していく。
「Ouun――――?」
容易く叩き潰せるはずだった人間に拳を押し返され、化猿は疑問の声を漏らす。
化猿は気付くべきだった。
目下の人間は拳を押し返そうとしたのではなく、右腕を空けようとしただけなのだと。
「その子を離せって――――」
化猿の足下、左腕だけで拳の重圧に耐えるジアは、そのまま右腕を振りかぶる。
ドクン。
彼女の心臓が一際大きな音を立てた。
「言ったよなァア!」
一撃。
ジアが打ち込んだ拳が、化猿の左腕を貫く。
その衝撃は拳を伝って、化猿の左腕全体に浸透し、内部の骨を砕くほどの震動となる。
「Nnnnaaaaaa―――――!」
電流が走ったような激痛に、化猿は思わず左腕をジアから離す。
ゴキゴキと歪に捻じれた左腕は、雑巾を絞ったように血を撒き散らす。
赤黒いシャワーを全身に被りながら、ジアは化猿の胴に二撃目の拳を叩き込む。
(打ち込め! こいつが動かなくなるまで! ひたすらに!)
三撃、四撃、五撃、六撃、七撃、八撃、九撃、十撃。
瞬きの間に化猿の腹に連撃を叩き込み、ジアはさらに化猿の近くへと踏み込んでいく。
それは終わることない拳の殴打。鳴り響く鼓動に呼応するように、ジアは強烈かつリズミカルに、化猿へと拳を打ち込んでいく。
どんどんと速まる心臓の鼓動。それに応じてジアのギアも上がり、連撃の速度は上昇していく。
次第に速くなる拳の雨は、少しずつ化猿の硬い皮膚を傷付けていた。
「Ouuaaaaaaaaaaa―――――――――――ッ!」
激怒した化猿は右手に握っていた少女の死体を放り投げ、右腕で少女を叩き潰しにかかる。
重く、強く、かつ疾い。数秒前のジアであれば、決して避けられなかっただろう一撃。
だが、十分に加速した今のジアには、その動きが緩くさえ見えていた。
化猿の拳は空を切り、地面にめり込む。右腕を振り下ろした化猿の体勢は、直立状態よりも、頭部の位置を下げていた。
それこそ、ジアの拳が届くほどに。
「ぶっ壊れろ――――ッ!」
それは落雷の如く。
ジアが化猿の顔面に叩き込んだ拳は、雷鳴のような轟音と共に、その頭蓋を粉砕する。
鳴動する少女の一撃により、化猿は錐揉み回転しながら吹っ飛び、何本もの木々を折りながら地面を転がる。
やがて停止した化猿。頭部から大量に出血した化猿は、どうにか立ち上がろうと足掻くが、全身の骨が折れた体ではそれも叶わない。
人食いの化猿は、地面に這いつくばったまま、緩やかに死んでいく。
ゆっくりと朽ちていく化猿。ジアはそちらには目もくれず、頭上高くを見上げている。
「よっと」
そして、落ちてきた少女の遺体を受け止めた。
数刻前に化猿が放り投げた少女を抱き止め、ジアはその顔に付着した土を拭った。
まるで、目尻の涙を拭うように。
自身の口角が吊り上がっていることにすら、気付かずに。




